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『Silent Sea 小さな海』 覚え書き

※本稿には天災や災害の描写が含まれております。

I dive myself into ancient waters.

どうやら私は道に迷ってしまったようだ。





2023年◯◯月◯◯日


午前中の一限で講義が終わり、車で山へ向かった。

カーナビの案内では下道でも二時間程度で着くと表示されたので、まだ時間もあるのでそれにしたがうことにした。道のりの半分程度進むと道路から右手にS湖がみえた。大きかった。
同じ県内にある私の住む家の近くにも湖はあるが、人工湖なのでここまで視界は広くは感じない。S湖のあるS市にはこれまたこの湖の威厳に匹敵する大きなS神社がある。幼少の頃に、父の運転する車で初詣ふくめて何回か来たことがある。湖面に輝く光と細波が来る度になつかしい。
大学の入学一年目に同じ学部の友人と何度か訪れた。県外の海沿いの街から来て下宿しているその子は、こんな標高の高い所にこんな大きな水溜りがあるのはすごい、と所属する工学部らしからぬ感想を述べた。私が神様が作ったんだよ、いかづちでと、というと、またあなたはいきなりでかいこというなー、と車窓から遠くをみるように細い眼をした。
あっ、あの旗何? と彼女は神様の話をスルーして湖を指差す。湖面に貼られたロープに吊るされた白い三角巾が、ゴールの目印にみえたので、何か競技でもするのかな? と私はいった。湖面で細波がチカチカと揺れていた。冬には凍るよ、嘘? ここが? すごい渡れるじゃんスケートできるじゃんすごっ、と彼女はすごいを車内で連発していた。また冬に来よ、と私はいった。

春のS湖

その冬にネットニュースで湖面が凍り始めたと出ていたので、二人で訪れると、完全にカチカチに湖面が固まっている訳ではなかった。まだ人がその上を歩いたら氷の下の冷たい水の中に沈むだろう程度だった。シャーベットみたいだな、しかし寒いなーここ、と湖面から吹き抜ける風に当たりながら彼女とS市内をぶらぶらし、蕎麦を食べ大きな神社を観光して帰った。

冬のS湖

そこから更に南下する。ここから先の道はこの車では通ったことはない。しばらく進むと、国道の幹線道路の左右に山が連なっている。道が低い位置になる。見慣れた風景とも言えるが何か雰囲気がちがう。生えている木がちがう。進めば進む程、緑が濃くなっていくように思えた。途中に道の駅があったので、おみやげにアップルパイとほうじ茶を買った。お昼は用意してある、とラインに書いてあった。

朝からずっと晴れていた。

左手(北東)にY岳の稜線と山脈が長くみえた。その山頂にまだ雪はなかった。あの山の裏側に私の住む町がある。なんだかそれが少し不思議な気がした。普段来ない場所に来るとそういった感情にさいなまれることがたまにある。ここはどこ? 私は誰? みたいな感じに。
国道からカーナビの指示通りに右手に曲がり、Y岳とは逆側の南の山麓に向かう。この辺りは初めてなので、カーナビと車窓を眼が行ったり来たりする。ログハウスがちらほらあり、キャンプ場の看板の表記がある川を何本か越えて、山裾を目指し進んで行く。それにしても人がいない。



うねうねして木の背も低く鬱蒼としてくる。
何故かカーナビの矢印はさっき来た山の入り口付近の路で止まってしまった。今現在の位置とは一致していないのは明白だった。少し進めばまた再稼働するかという目論みとは相反し、そのピンクの矢印は静止したままだった。
仕方がないので、路肩にハザードを点けて停車した。グーグルマップを携帯で素早く開く。しかし、電波がないのか、白紙の地図上で青い矢印だけ標した画面は固まったままで、何時までも反応しない。少し待ったが、携帯上の電波の表記もアンテナが赤字のままで復活しそうになかった。
路は完全に一車線なので、向かいから車が来ないか心配した。山道ではよくあることだ。カーナビもこの路の先へ行けといったではないか。地元でもよくある道だ、と私は自分にいい聞かせて再度発車させた。
少し上がると細いアスファルトの路は完全に砂利道に変わってしまった。光に照らされた白い砂利は必要以上に輝いてみえて眩しい。なんて白い道だ、と思った。
曲がりくねった路は背の高い叢の中を通っていてこれは白い蛇の道だと思った。
その白い蛇の道は、所々で二股や三股に分かれた。カーナビも携帯も入り口で停まったままだ。どちらに行けば良いのか判らないが、自分で選択して行くより仕方ない。
どうやら私は道に迷ってしまったようだ。何度も選択肢が来て、その度に私は勘に任せた。この白い蛇は薮の中を登りどこへ向かって行くのか? そういえば私も巳年だっけ? いや未年だし、とつまらないことを想像して脳裏の不安を打ち消そうとした。

更に奥の砂利道は所々激しくえぐられたように凹んでいて、車がそこを通る際にどっかんどっかんと揺れた。バックミラーに砂埃が舞う。いや、白い大蛇は決して埃などは立てないし、もっと優雅でしなやかだ。細かい砂や砂利が表皮に付着したり傷つけたりするので、実際の白蛇はこの道は決して通らない。ここは蛇の通り道ではなく人間が作った人工的なものだ。
今乗っているこの車は、進学先の大学の通学に際して電車だと大回りになりなんだかんだでドア・ツー・ドアで四時間はかかるので一人暮らしを許さない親から買い与えられたものだ。車種はアクアである。通学には車でも約一時間半かかり、途中で山道を越えるけれど、アスファルトの二車線の一本道なので、季節外れに大雪が降った時以外は問題ない。けれど、四駆モードはないので砂利道で強めにブレーキをかけるとガラガラ後輪が横滑りするし、サスペンションもそこまで効かない。ここで車が壊れるといろいろ困るな。道幅的にUターンすることも最早無理だった。奥に進むしかない。しかし、アクアという車名で山道で遭難なんて笑えない。……



白い蛇の道を少し登ると背の高い杉や赤松が生えている林道に繋がった。木漏れ日が砂利道に斜めに長い影を落としている。アクアを脇に停めて、外に出て深呼吸する。
相変わらず電波やGPSが何故か作動していない。しかし、植林された木々があるということは、このまま行けば方向的にはきっと町まで抜けられる筈である。それに地元でも見慣れた光景なので少し安心する。シカの絵と発砲注意と書かれた看板が路肩にある。
サワサワとどこかで鳴る気配がしたのでそのまま少し砂利道を歩くと、幅五十センチくらいの低いコンクリートで作られた用水が林の中を流れていた。用水は淵に濡れて生える苔を光らせながら、木漏れ日の中を勢いよくウネって流れている。恐らく山の中の沢から清涼な水を生活用水か農作業用に敷いているものだろう。となると、近くに人家はある筈。私は車に戻る。

案の定、その用水は林の中と道路脇をいったり来たりしながら私のアクアと伴走した。杉林を抜け、続く植林ぽくない木々の間に、人の住んでいる気配のない建物がちらほらみえる。夏用の別荘だろう。GPSは動いていないけれどここなら携帯の電波は回復しているかもしれない。けれど、このまま道を確認せずに進んで行くことにした。私は今の状況が少し愉しくなってきていた。
雨戸が閉ざされた古い建て売り中古物件のようなごく普通の外観の家、屋根にバラバラと木々の葉が散らばっているログハウスの横などを通過する。小さな小屋が朽ちたのかこんもりとブルーシートがかけられている。何々家所有とかかれた看板がくくられた大きな鉄製の門扉の奥の家も廃屋のようだ。
私の住むK…沢は古くからある大きな別荘街が幾つもあり、業者の管理人が居たりどこも費用をかけ一様に管理されている風情だが、この場所の夏用の家々はどこも個別に存在している感じがする。整然と開発・管理された町ではなく、人工的な感覚よりは自然的な要素が周囲に濃く感じる。雑草が勢いよく生い茂る。草刈りされていないその庭の合間に誰にもみられずに白い花が咲いている。路肩に電柱はあるので電気は供給されていて、ここまで車で入れる路もある。しかし、手をかけずに二三年ほおっておいたらそっくりそのまま山に呑まれて行くような感覚がある。幼少の頃から住んでいる町の人工と自然の交じりあった(混ざりあった)場所性にいつからか興味を魅かれていた。数学も物理も特に得意ではなかったが、工学部の建築科に進んだ。初めは都市計画に関する興味がつよかった。一年学んだ今は庭園の設計に関することに興味が出てきている。住んでいる家の庭は広くはないが、親が趣味でバラの花を育てている。この山の中の荒れた別荘の庭をどうするか、と妄想しながらドライブする。……



道を少し登ると背の高い杉や赤松が生えている林道に繋がった。木漏れ日が砂利道に斜めに長い影を落としている。
相変わらず電波やGPSが何故か作動していない。しかし、植林された木々があるということは、このまま行けば方向的にはきっと町まで抜けられる筈である。それに地元でも見慣れた光景なので私は安心している。シカの絵と発砲注意と書かれた看板が路肩にある。
用水は林の中と道路脇をいったり来たりしながら私のアクアと伴走した。杉林を抜け続く植林ぽくない木々の間に、人の住んでいる気配のない建物がちらほらみえる。夏用の別荘だろう。GPSは動いていないけれどここなら携帯の電波は回復しているかもしれない。けれど、このまま道を確認せずに進んで行くことにした。私は今の状況が少し愉しくなってきていた。
雨戸が閉ざされた古い建て売り中古物件のようなごく普通の外観の家、屋根にバラバラと木々の葉が散らばっているログハウスの横などを通過する。小さな小屋が朽ちたのかこんもりとブルーシートがかけられている。何々家所有とかかれた看板がくくられた大きな鉄製の門扉の奥の家も廃屋のようだ。
スローライフといわれるが、忙しい生活なのではないのか? 庭の手入れに、家屋のメンテナンス。鳥獣害の対策。等々。家々を取り囲む林の中ではそこいらじゅうに大木が倒れているが、時に路を塞ぐこともあるだろうし。ブツブツと独り言をいいながら車窓を眺める。
それぞれ隣の家までの距離はかなりあるので、大きな音で音楽を聴いても問題はないかもしれない。できればドラムセットも置きたい。けれど、ドラムを叩いたら、山じゅうに響くかもしれない。壁に防音処置をするなら結局町の住居と変わらないのでは。でもトリやシカやイノシシにも音を聴かせるチャンスかもしれない。と妄想しながらドライブする。……



道を少し登ると背の高い杉や赤松が生えている林道に繋がった。木漏れ日が砂利道に斜めに長い影を落としている。
相変わらず電波やGPSが何故か作動していない。しかし、植林された木々があるということは、このまま行けば方向的にはきっと町まで抜けられる筈である。それに地元でも見慣れた光景なので私は安心している。シカの絵と発砲注意と書かれた看板が路肩にある。
用水は林の中と道路脇をいったり来たりしながら私のアクアと伴走した。杉林を抜け続く植林ぽくない木々の間に、人の住んでいる気配のない建物がちらほらみえる。夏用の別荘だろう。GPSは動いていないけれどここなら携帯の電波は回復しているかもしれない。けれど、このまま道を確認せずに進んで行くことにした。私は今の状況が少し愉しくなってきていた。
雨戸が閉ざされた古い建て売り中古物件のようなごく普通の外観の家、屋根にバラバラと木々の葉が散らばっているログハウスの横などを通過する。小さな小屋が朽ちたのかこんもりとブルーシートがかけられている。何々家所有とかかれた看板がくくられた大きな鉄製の門扉の奥の家も廃屋のようだ。
トンネル、ダム、廃病院、山奥にひっそりと佇む神社、等々。ユーチューブなどの動画で拡散される怪談や肝試しや伝奇探索等に使われていない別荘地が舞台のものってあったっけ? 記憶を辿るが今まで少なくとも自分は観たことはなかった。ミステリやホラーでは幾らでもあるだろう。土地家屋には所有権が必ず存在している。流石に廃墟っぽくても別荘に立ち入って映像を撮るのはリスクが高い。フィクションならまだしもだが。帰ったら動画を調べてみよう。しかし使われていない建物って入ってみたくなるのはわかる。どんな室内や調度が人が不在の中で存在しているのかが気になる。と妄想しながらドライブする。……



道を少し登ると背の高い杉や赤松が生えている林道に繋がった。木漏れ日が砂利道に斜めに長い影を落としている。
相変わらず電波やGPSが何故か作動していない。しかし、植林された木々があるということは、このままいけば方向的にはきっと町まで抜けられる筈である。それに地元でも見慣れた光景なので私は安心している。シカの絵と発砲注意と書かれた看板が路肩にある。
用水は林の中と道路脇をいったり来たりしながら私のアクアと伴走した。杉林を抜け続く植林ぽくない木々の間に、人の住んでいる気配のない建物がちらほらみえる。夏用の別荘だろう。GPSは動いていないけれどここなら携帯の電波は回復しているかもしれない。けれど、このまま道を確認せずに進んで行くことにした。私は今の状況が少し愉しくなってきていた。
雨戸が閉ざされた古い建て売り中古物件のようなごく普通の外観の家、屋根にバラバラと木々の葉が散らばっているログハウスの横などを通過する。小さな小屋が朽ちたのかこんもりとブルーシートがかけられている。何々家所有とかかれた看板がくくられた大きな鉄製の門扉の奥の家も廃屋のようだ。
山の中と言ってもその中に居る時は山自体を俯瞰することはできない。「木をみて森をみず」ということわざがあるけれど、木をみて山をみずが今の私かもしれない。山は遠くからみると山の形をしているけれど、そこに入ると遠景からの形はみえない。近景では、そのかわりに自分の周囲にあるものが迫って来る。例えば、今みているこの夏用の別荘だって、遠くから山をみてもみえない。山をみて夏用の別荘をみず、だ。遠景でもみる位置によって山の形は常に変わってみえる。そもそも山ってなんなのだろうか? と妄想しながらドライブする。…… 



植林地帯が終わる辺りで右手に石像らしきものがみえたので、アクアを停めて降りた。
それは朽ちて古びた狛犬らしきものだった。長い年月のために顔は判別不能に丸く溶けて苔が表面にまばらに生えている。二体あり、五段ほどの短い石の階段を登った両端に鎮座している。
奥に社屋のような建物がみえるが鳥居がない。振り返ると、道路を挟んでこの石段の後方に階段が斜面を降りている。恐らくその奥がこの神社の入り口で、そこに鳥居があるのだろうと推測した。
植林地帯の端ではあるが杉が林立し、背の高く太い杉が何本も生えて境内は暗く荒れた気配もなく整然としている。人の気配、生き物の気配はなくひっそりとしている。沢が流れる音がかすかに人工林の方角から聴こえる。
社殿にはこの山の神が祀ってあるに違いない。もしかしたら昔の登山者や修行者はこの社で休んだり出発点としたりしたのかもしれない。そう考えると、ものいわぬ古の彼らの息吹きが石畳や木々の周りを取り囲んで来るようにも感じる。奥は暗くて怖かったが、同時に何かしら魅かれる感覚がある。鬱蒼とした高い木々の奥の社殿まで行こうか迷った。バサッ、バサッという音がして杉の枝が揺れる。カラスでもいるのかもしれない。その音で我にかえり、今日の本来の目的を思い出し、車になんとか戻る。

神社から少し行くとアスファルトで舗装された路になった。すると、GPSが現在の位置を正しく示して動き始めた。何故か本来曲がる所よりだいぶ手前で深い山道に入ってしまったらしい。道沿いに流れる用水の幅が太くなり、ほっかむりしたもんぺ姿の老婆が腰を丸めてその脇を歩いている。地元民が住んでいるであろう農家ふうの家屋もちらほらみえて来た。一旦停車して、携帯電話の電波を確認し、グーグルマップを立ち上げると、GPSと同じ位置を示していた。この先で一応は間違ってはいない。遠回りはしているが辿りつきはするだろう。

クマの森



2

「この先行き止まり」

その後一回、道を曲がる箇所がわからなくなり、師匠にラインをした。返信には「この先行き止まり」と手書きで書かれた看板を入って一番奥まで来て、その方が早い、とあった。看板をみつけ、その脇道に入ると直ぐ砂利道になり、この道はGPSには表記されていない道だった。
しばらくまっすぐに登って行くと、つき当たりにポツンと二階建ての三角屋根の山小屋があった。ここだろうきっと、と思い行き止まりなので適当な位置に駐車し、車を降りる。すると、音が聴こえたのだろう、小屋正面中央の木製のドアが開いて師匠が出て来た。入りなさい、といった。

室内に入ると玄関から直ぐにキッチンと居間になっていた。山小屋ではよくあるタイプだ。低い光が奥の窓から流れて来て逆光に部屋を照らしている。木組でできた部屋にはあまり物がない。もう昼過ぎだしおなか減っているだろ? と挨拶もそこそこに師匠は言った。私はおみやげのアップルパイとほうじ茶を渡す。いえ、道に迷って緊張したせいか、なんだかあまりすいていません、と正直にいった。シチューですか? いい匂いがしている。薪ストーブの上に鍋が置いてある。そうか、珈琲は飲める? と一杯いただいた。赤い天板の変わった机に置かれた黒い珈琲カップから湯気が昇る。この辺の路は初心者にはきびしいかも。はい、案内の電波が何故か止まりました。晴れてて良かったね、夜道だと何もみえなくて怖い。街灯ないですもんね、うちの近所も一緒です。じゃあ、慣れているね。……いえ、いまだに怖いです。ハクビシン、タヌキ、シカなんかがヘッドライトに照らされて目が光る。動物多そうです、K…沢よりも。師匠は少し黙る。
裏が全部何十キロか山だからハンターもいる。あっ、途中で注意の看板みました。しょっちゅう撃っているよ、その先は狩猟区域だから。奥の壁に、立派なシカの角が一本だけ飾られている。私がそれをみていると、あれは沢で拾って来た、と師匠はいった。家の近くですか? そうだよ、少し降りた所。へえ……。生え変わる時期に行くと落ちている、でも直ぐに拾わないと小動物や虫に食われて朽ちていくからタイミングがね。拾った後はどうするんですか? 水で汚れを落として布で磨いて艶を出す、これは試しに蜜蝋を薄く塗ってある。確かに独特のヌメッた艶がある。沢へはよく行くんですか? 川と裏山が庭みたいなものだから……しょっちゅうは行かないよ、クマも出るから。ここはクマいるんですか? ああ、林にしょっちゅう糞が落ちている、家の裏にクマ棚もある、といって師匠は窓の外を指差した。

シカの角

どこですか? と訊くと、あそこ、よくみて、と師匠が言った指差す先の木の枝が複数折れて大きな鳥の巣のようになっている。初めてみました、その時はクマはみれましたか? いや、みれなかった、気配も普段はあまりここら辺では感じないかな。でも用心しないとですね、と私はいった。来る途中に大きな岩がゴロゴロ転がっている森を通って来ただろう? はい。あの場所もよく糞が落ちている。あそこは森が深い感じがしました。クマは怖いかい? ……うーん、私は出会ったことはないのですが、登山者が襲われたなんてたまに話は聞くのでやっぱり怖いですね。師匠はまた少し考え込んでいるようだった。クマにもいろんなやつがいる。いろんなやつ? 性格がおとなしいのからあばれんぼうなやつ、静かなやつから行動的なやつ、臆病なのから大胆なやつ、楽天家、人間とそこは同じで、大人子供、成熟と未成熟、オスとメス、その個体が経て来た経験や習熟、学習、罠にかかった経験があるか、撃たれたことがあるか、その時の気象状況や気温や湿度、気分や精神体調、こちらをどうみるか、敵対意識、子連れか単体か、おなかが減っているか満たされているか、眠いか覚醒しているか、ストレスとリラックス、病気か健康か、普段から人間に慣れているかそうでないか、人間が好きか、嫌いか、それらが複合していて野生だと予測不能ではある、ただ言えることは、逆にクマにとってみれば人間はかなり恐ろしい存在だろうな。

クマ棚と思わしきもの

確かに自分が生活している野生の空間で銃声が聴こえたり、子供が罠にかかったりすればクマは人間を恐ろしい存在だと感じるだろう。しかし、人には人の事情もある。全てを自然として制御せずに文字通りに野放しにすれば、いずれそれは人間自身に返って来るのが定めであるのでは……私がそんなことを口に出さずに考えていると、師匠がそろそろ始めますか、といった。

2階には2部屋あり、一つが音楽スタジオになっていた。私の制作中のアルバムに参加してもらうのと、師匠の作っているアルバムに私がラップで参加するので、そのレコーディングである。ラップは今まで生きて来て一回もやったことがないので緊張した。カラオケも余程のことがないと行かない。依頼されて初めは断ったが詞を読む感じでいいよ、と言われ参加することにした。そのポエトリー・リーディングの録音と、私の楽曲と師匠の音をミックスする作業を案外あっさりと終えて、Max/MSP の使用法についてわからない部分を幾つか質問をした。
スタジオは10畳ほどの広さで、作業台にノートパソコンとオーディオインターフェース、スピーカーなどがあり、楽器はアップライトピアノ、アコギやエレキギター、ベースにキーボードが2台、それに笛やチャイムなどの細かい楽器が数点置いてある。私がドラムは置かないんですか? と質問すると、心の中にはいつもある、とよくわからないことを言った。音楽は山に響くから、動物が聴いている、季節にはトリがよく合わせて歌っている。それ、わかります、絶対に聴いてますよ。

レコーディングを終えると慣れないラップのせいか流石におなかがすいて来たのでシチューと朝焼いたというパンをいただいた。シチューにパンを浸すと牛乳の風味がして美味しい。

食後のデザートにおみやげのアップルパイとほうじ茶をいただく。少し冷えて来たので湯気の上がる温かいほうじ茶が身に染みる。山は冷え込むのが早い。美味しそうに呑むな、と師匠はいった。いや、実際美味しいです、井戸水ですか? うん。この辺りは電気は来ているが上下水道は無いだろう。K…沢はもう雪? はい、そろそろ降り出します。雪は好きですか? 雪は時に厄介だが静かになるので音楽制作には良い、もっともこの辺りではあまり降らないが。私は毎年の雪かきの労苦を思い出し、しばし沈黙する。
冬の雪は当たり前すぎてあまり考えたことはなかったけれど、確かに雪の日は静かだ。何もかもが押し黙ってしまったかのようなシンとした静けさがある。雪が降っている時や積もった朝は、独特の白さが視界を占める。あの光景は、部屋の中にいても雪の白さを感じる。雪は災害を起こすし日常的にも辛い側面はあるが、一方で全てを包んでしまったかのようなあの白い光を私は少なからず愛していると思う。

私は両親と妹と暮らしている。昔ながらの顔馴染みや腐れ縁の友人知人もごく近所にいる。離れようとも離れられない地縁的なものも普段からひしひしと感じている。進学先も結局は県内(圏内)だ。師匠の個人的な事情は普段かわすSNS程度でしか知らないけれど、何故この山の中にポツンとある家にいるのか。スタジオなので、音を出す環境としては周りに人がいない方がベターだし、静けさは大事でもある。しかし、普段どういった感情や思考や思想を持ってこの場所にいるのかは私にはわからない。……

師匠が、もう一杯飲むかい? と尋ねる声が聞こえる。はい、すみません。椅子から立ち上がるガタンッという音が聴こえる。冷蔵庫のブーンという音がぴたっと止まる。静かだ。お茶を持って来てくれた師匠が、冷えて来た、といってそのままストーブに薪を焚べる。私の家には薪ストーブはない。温熱の床暖房と石油ファンヒーター。家で一緒に暮らしている犬も気持ち良さそうに木の床に寝転ぶ。パウと名付けられたこの犬はもう9年生きていて毎日の散歩に付き合っている。今から帰っても間に合わないので、今日の散歩は親と妹に任せている。薪がパキパキとはぜる。近寄りガラス越しに火の場所を覗き込む。いつ見ても薪から立ち上がる火はきれいだ。薄く揺らめく炎の赤い部分の色と形がずっと持続的かつランダムに変化している。たまに青くみえる。青く揺れる、風が作るその波。湖に青灯の波紋が揺れる。湖面に石が落ちた。小さく同心                                                 湖岸に音もなく近づく細波。……
    円状                     広がりながら、
           に広がる波。


3

冬のM湖の湖畔
garden


アクアでその場所まで私が行ったあの日。なんだかんだで日が暮れるまで何するともなく師匠の家にお暇してしまい、相変わらず音楽の話はたいしてしなかったけれど、ドアからわざわざ出て手を振って見送ってくれた夕闇の北への帰り道に。千の曲線が伸びていく川沿いにぽつりとある、山の中なのに港という名の付いたその神社は海の神様を祀っている。深く夕闇が底まで沈んだ夜だった。誰もいない境内に灯篭に青い灯がただぽつりと闇夜に浮かぶ。あの神社から山の上の小さな小さな海へと向かう。アクアが街灯のない山路を照らす。百に曲がる山路。水が道をドボドボと流れ落ちて来るけれど、私のアクアは竜の神の化身なので大丈夫と感じている。そのまま滝になった山肌と川になった道路を逆流する。何かの眼が闇の向こうで光っている。群生する木々の下でふさふさとした体毛が飛沫で濡れてぬらっと輝いている。クマだ。……イヤ、チガウと誰かが言った。パウ? しっかりとよく見るんだ、カモシカだ。あの頭部には短いが蜜蝋でヌメっと光る立派な角が生えているではないか。カーヴを曲がる所で立派な蜜蝋の角のカモシカはアクアを運転する私を濡れながら見つめていた。水が角に反射して跳ねる。足元にその個体の子供が居た気がしたけれど、アクア竜はそれを無視して百の曲がり道を登って行く。S字、直角に近いL字カーヴ、いつしか泥に塗れた舗装されてはいない道になる。アクア竜はするすると迷いもなく行く。ごおごお、とか、がががが、という地鳴りのような振動が空気を大きく押して来る。その間から、おーい、おーい、おーい、と叫ぶ大人の男の人の声が混じり合いながら響いて来て山に谺する。樹木の群れが地鳴りと空気に押されて前後左右に揺さぶられている。泥水が跳ねてアクア竜の身体を汚していく。声が聞こえる。この先行き止まり。どのくらい登ったか、もう道は細すぎてアクア竜一台分しかすれ違えない。誰も下りて来ない。この上に集落はあったのだろうか? 私は記憶に尋ねる。多分別荘地が湖畔にあった。小さな湖で青く澄んでいて冬には一面凍りつく。湖面の向こうの林の中に別荘の青や赤の屋根がぽちぽちとみえる。昔は真冬に湖面がスケートリンクになっていて遊んだもんだ。今は完全には凍らなくなってしまったので、スケート場は無くなってしまった。パウがつるつるになった湖面を一生懸命に歩こうとする。しかし、足が取られてしまい前に進めない。その姿を私と妹が見守る。パウは大きな舌を出しながら白い息を吐き必死にこちらを見つめるけれど、その顔は微笑んでいるようにみえた。母は湖畔から私たちの様子をうかがっていて、少し天候を気にしているのか空を見上げている。曇天で少し粉雪が舞っていた。母の足元にはベビーカーがある。ベビーカーは外国の自動車メーカーのもので、そこに赤ん坊がすやすやと寝ている。私はその子が誰かは知らない。山の天気は変わりやすい、誰かが言った。今にも天候が崩れ出しそうな気配があったけれど、父親は暢気に氷の穴から釣り糸を垂らしワカサギ釣りに精を出している。凍った湖面は水面を覆って水の底を隠している。しかし、表面は角度によってはほんのりと青くみえる。この下で魚が泳いでいる不思議を思った。魚だけではない、プランクトンや今にも枯れそうに春を待つ藻たちや微生物がこの下にはいる。どすん、と音がして、振り向くと湖畔のこの季節は無人の売店の屋根から積もった雪が落ちた。屋根の先には氷柱が連なっていて、湖面を映し出して青黒く光っている。竜の髭は溶けた氷柱の黒い髭だ。黒磯の針金状の物体はアクアが電波を受信するためにある。GPSはすでに止まっていた。私は道に迷ってしまったようだ。前の暗闇に向かって、お母さん、お父さん、と呼んだ。パウはいい子だからね、と妹が囁いた声が聞こえた。目の前にあるベビーカーは押さないと進まない。幼い私はどうしたら良いかわからない。母があなたの妹よ、昨日産まれたの、優しくね、と言った。私は母と父に挟まれた位置で湖面を見つめている。まだパウはいない。パウの目玉の中は薄い茶色だけれど、よく覗き込むとエメラルドグリーンになる。博物館で見たガラスの向こうの原石はパウの目玉だった。湖の底から引き上げられて、恐らく信仰の対象であり、宗教的な意味づけをされていた、と説明されている。竜の体表はエメラルドの鱗を纏っている。湖の底に沈んでしまったこの石はあの時から1000年眠っていた。いや元から何十万年もだ。私は眠いと感じている。庭で皆んなが笑っている。チゴユリ、ルリソウ、スイセン、スノードロップ、ネコノメソウ。……パウは猫ではない。暖かい日差しが洋服の上からでも感じられる。早くカーディガンが着たい。私はカーディガンが好きだった。母が編んだカーディガン。小さくちょこっと付いた布襟のレースになった部分や胸に施された花の刺繍を見る度に心が躍った。レースの唐草の茎や葉を指でなぞっていく。林の奥にキジがいて興奮したまだ小さなパウがきゃんきゃん吠えながら手綱を引っ張る。私は転んでしまう。あのトリの七色に光る体毛を私はなぜたいといつも思う。卵はあの体毛に包まれて温められることに羨望と嫉妬を憶える。春になるとキジの鳴く声が庭にも響く。床に寝そべっているパウが片目を開けてその方角に耳をそばだてる。その度に卵が孵ったのだろう。何度も何度も繰り返して。そして1000年経ってあなたが産まれた。誰かが言った。私は産まれて来たけれど、今は帰りたいです。眠い。生命が一回しかないなんて嘘。庭でダハハと低い音で大人たちが一斉に笑う。キツネは温まった七色のトリの卵を咥えてワルモノにされる。何度もそのページを読んだ。私は退屈で絵本の中の絵に描かれた子ギツネを撫でる。つるつるとした紙の質感は直射日光で少し温かい。ページとページの隙間の暗い場所にさっき摘んで来たスズランを挟み込む。あの胸の刺繍はマーガレットだった。私が少し大きくなるとカーディガンは妹の手に渡った。妹は姉のお古を嫌がり、カーディガンのマーガレットは直ぐにケチャップ色に染まってしまった。白いマーガレットの花びらが。そんなバラは今は咲いていない。私の庭。寒い。パウの滑らかな体毛を撫でたい。べちゃべちゃと私の顔を舐められてそのなだらかな体温を感じたい。1000年経って私が産まれてパウがその後その顔を舐めて体表の汗由来の塩気を感じる。ここは海だ。小さな海。無数のプランクトンをイルカやサケが飲み込みながら川を上がって来る。サケではなくてマスだ、と誰かが耳元で囁いた。あのプールみたいな養殖場から水が溢れて逃げ出して来たんだ産卵のために。土砂降りの水が暗く太い樹木を押し流すように流れて来る。無数の木々の足元に密生した苔や粘菌は水の底でジッと我慢していた。アクア竜のワイパーは勢いでひしゃげて壊れてしまった。それは曲がった髭だから大丈夫だ。バスタブのプールにイルカが浸かっている。表皮が水を弾いていてとてもきれいだ。私は思わず手を伸ばしてその灰色と青の中間に触れてしまう。表皮と水の間にある粘度の高い物質は水なのかイルカなのか判らなかった。イルカはバスタブの中でクルクルとドリルのように回転してキラキラの飛沫が私とパウにかかる。窓からの陽光が窓が割れて飛散してイルカは驚いた顔をして直ぐに逃げた。半島に春が来ている。マーガレットが咲く。道沿いには一面の菜の花で低い山の景色は私が産まれる前からそこにあった。スズランをページに挟む。来年の春にその栞のページでは子ギツネがチョウチョを追いかけている。アクア竜は倒れて来る大木の隙間をぶつからないようにスルスルと駆け抜けていく。もう道路はないや。標識も。ルールは無用。切り捨て御免。あの白樺の群生は全て倒れた。その幹が別荘のひしゃげた青い屋根に寄りかかるように倒れている。抹茶用の茶碗に温かい珈琲が注がれて持つと指が回復する。茶碗の縁をパウがべろりと舌でなぞる。冬に抹茶椀は助かるのだ。畳のイグサの薫り。抹茶は竜巻を描きながら茶碗は宇宙の暗闇。黒い土に浮かぶ無数の凸凹は星々と雨と雪と枯れ葉の輝きでアクア竜の頭上で煌めく飛沫だった。白樺が倒れて来てアクア竜の屋根がひしゃげる。でも車はまだ前に向かってか背後なのかは判らない竜巻=エクストリームの中で山を登って行く。闇もグラデーションだ。全ては混じり合っている。生ぬるい空気と飛沫の冷たさ。倒れた白樺をなんとかチェーンソーで大人たちが切りカットソーで輪切りにして漆黒の抹茶碗の下に敷く。輪切りの白樺の上に宇宙の暗闇が乗っかってコラボレーションしていた。邪道だと言った。蛇の白い道にはよこしまさはないと私は反論する。抹茶椀の漆黒の宇宙の表面はよくみれば苔のように光の中で緑色にある。直角カーブなど所詮あなたは曲がれない。抹茶椀に直角がないように自然世界の中に90°などというものはなく永遠にそれに近づこうとした概念しかない。想像の世界? あの丸くて大きな宇宙のスケールを圧縮した苔むした岩だらけの森の中でクマの親子が四つ足で歩いていた。水が流れて来て彼らはどこに向かう? クマの親子は青黒い湖の淵で水を飲んでいた。プールから逃げたマスは最早ここ迄上がっては来れない。雪も氷も溶けていて、ポタポタと湧き水が岩石の間から垂れていた。水滴に世界が映り込んでいて、私とパウが立体的に曲線を描く像を覗き込んでいる。ここには象はいない。それは嘘だ。何百万年か前に彼らは確実にここにいたし、また帰って来るに違いない。帰りたい、と私は思った。アクア竜は白樺の一撃で屋根がひしゃげてしまい、息も絶え絶えだ。パウが私の目を覗き込んだエメラルドの眼。もう行こう、あなたのことが心配だと言った。ありがとう。クマたちもおいで。暗闇の中で地鳴りの音が周囲の全てを飲み込むような轟音を立てていた。こんな音は聞いたことがない。いかづちが鳴り照らされた別荘の赤や青の屋根ががだがだがだがだと揺れて山の斜面が崩れて樹々が濁流に飲み込まれていく。溢れるんだ。ここは小さな海の入り口でありお尻。寄せては返す細波の風は倍々に力を増し横殴りに泥水とともに私たちに打ちつけている。先に帰ってな、港へ、といって手綱を離してパウは悲しそうな眼をする。妹がダメだよオネンチャンはいつもといった。オネンチャンが私の名前だ。高速で空を舞う飛行機の低音の轟音が妹の声をかき消している。空の頂点の茶碗の底では北に帰るショウビタキの星座群がこちらの様子をジッとうかがっている。空が反転すると海になる。地上の水溜りは空の青い灯。入れ替わっただけだ。真っ黒く青い空が暗闇の中を渦を巻き込みながら流れていく。どうやら私は道に迷ってしまったようだ。お母さん、お父さん。私とアクア竜はS字やL字の百のカーヴを樹木と土と水と岩と共に下域に滑り流されていく。電信柱の天辺にいたハトが飛び立つ。星々の無数のプランクトンが数百光年の先から落下して瞬いていた。またここに小さな空と小さな海が反転した。遠ざかっていた意識の狭間で、もう一杯飲むかい? と尋ねる声が聞こえる。(了)






















お読みいただきありがとうございました。
音楽は以下のリンクで聴くことができます。

『Silent Sea 小​さ​な​海』

by 右雨烏卯 uuuu
https://cucuruss.bandcamp.com/album/silent-sea

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