ハレ

友人に感化されて始めた、月の数だけ更新しようキャンペーンは未達成で終了した。また気ままに更新していこうと思う。

日本には「ハレとケ」という概念がある。「ハレ」は冠婚葬祭などの非日常、「ケ」は日常生活を表し、日本人の伝統的な世界観を表現するため、柳田國男によって定義された。
倫理の授業で先生の話を聞きながら「なんて当たり前のことを言っているんだろう」と思い赤ペンで印をつけたことを覚えている。

先日、訪れた展覧会にて「ハレ」をテーマとした「祝彩風祭」という作品が展示されていた。学校の教室を2つほど繋げたような、広い真っ白な空間に入り、しばらくすると太鼓の音が響き始めた。入口のある面を除いた三方面に映像が映し出される。法被姿でお面を被った大勢の男性、着物姿で花笠を被った大勢の女性が踊っている。特に東北の祝祭行事をモチーフとしているらしく、映像が進むにつれ、青森のねぶたや秋田の竿燈などが現れた。最終的に、大漁旗を掲げた大量の漁船に囲まれ、序盤に出てきた「祭り」を象徴するモノやヒトが空から降ってくる場面で作品は終了する。

私は、映像作品を鑑賞しながら「ハレ」に対して畏怖の念を抱いていた。この恐れはどこからくるものなのだろう。

人間は未知のものや理解できない事柄に対して恐怖を感じるが、この恐れはそれだけが原因ではない気がする。東北の祝祭行事への馴染みはそれほど無いが、テレビの特集などで見たことはあるし、なんとなく理解はしている。機会があれば現地で見てみたいとも思う。

もう少し考えを掘り下げる。
厄除けや五穀豊穣など内容は多岐にわたるが、祭事はしばしば「祈り」を目的とされる。つまり、一種の信仰だ。信仰に対する恐怖なのではないか。人間の力の及ばない、なんだかよく分からないもの(神)を信仰対象に、信者がこれまたよく分からない独自の方法(踊りなど祭事で行われる振る舞い)で祈りを捧げている。それほど馴染みの無いものであるのに、第三者である自分も一体となり祈りを捧げるよう本能がプログラムされているのではないかと思わされる。神のものか信者のものか、そこには大きな意志があり、個体としての役割は不要となる。個人的にはうっすらと加虐性すら感じる。

ただ、それは今回私が鑑賞者として俯瞰的に見たために分かったことであり、自分が既に信仰に取り込まれていれば、恐れに気づくことはないのだろう。それはそれで当事者にとっては幸せなんだろう。

平日の昼に職人が目の前で握る寿司を食べ、興味深い展覧会に行き、お気に入りのカフェでコーヒーを飲みながらこの文章を書いている。現代を生きる、しがない社会人の私にとって「ハレ」といっても過言ではない1日であった。私が平目の昆布締めを食べたり、かぼちゃのパウンドケーキをお土産に買ったりすることが、誰かにとっては恐れの対象となっているのかもしれない。

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