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『やまなし』 宮沢賢治

*2021年4月朗読教室テキスト① ビギナーコース

「そこらの月明かりの水の中は、やまなしのいい匂ひでいっぱいでした」

果物の梨のみずみずしい甘さやしゃりっとした歯ざわりを思い出しますが、物語に登場する"やまなし"は梨よりもずっと小ぶりで2cmくらい、5月に白い花を咲かせます。熟すと洋梨のような甘い香りがするそうです。

イワテヤマナシだとされるこの小さな木の実を、私はまだ見たことがありません。こんなに何度もやまなしの文章に触れ、声に出して読んでいるのに、です。でも、見たことがないゆえに、その甘い香りは想像の中でめいっぱいに広がっていきます。

「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。」
"ここではないどこかへ行って、帰ってくる物語"。宮沢賢治の童話を読むと、そんなお話が多いことに気づきます。雪の幻燈会、サルトリイバラの物語、銀河鉄道は死者の世界へ、又三郎も注文の多い料理店も・・・。
『やまなし』もその例にもれず、谷川の底の世界へ潜っていきます。但し人が行って帰ってくる物語ではなくて、この「小さな谷川の底を写した・・・」と語る誰か、水中カメラのような視点だけが、蟹たちにも気づかれずにこっそりそばへ行き、覗き見しているような物語です。子供の頃に耳にして、音の響きの気持ち良さに忘れられなくなった「クラムボン」という言葉とともに、私たちも「ここではないどこか」へ深く浅く潜っていきます。


朗読教室ビギナーコースが今月から始まります。その最初の物語を『やまなし』にしたのは、微小な物語があまりにも広く知れ渡っているのを、「朗読をしてみたい」と思いついた誰かへのギフトとして差し出してみたいと思ったからです。
 
沢蟹の子供らが小さな小さな会話を交わす度、なめらかな天井に向かってつぶつぶ泡が流れていきます。ここではないどこかで、でも確かに存在している小さな物語が、幸せな時間の始まりになることを願っています。

*『やまなし』宮沢賢治著 1923年4月8日岩手毎日新聞7584号
*文中の太字は本文より抜粋

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