東大純愛同好会、活動開始に寄せて
This is a promise with a catch
Only if you're looking can it find you
'Cause true love is searching too
But how can it recognize you
Unless you step out into the light?
Don't be sad i know you will
But don't give up until
True love finds you in the end
(ダニエル・ジョンストン「True Love Will Find You In The End」より)
0. はじめに
こんにちは。東大純愛同好会部員のふとん(Twitter:@always_in_often)です。
「活動開始に寄せて」と題したこの記事では、サークルの活動を開始するにあたって、部員が抱いている構想を語ろうと思います。少々長くなりますが、最後までお付き合いいただけると幸いです。
1. 東大純愛同好会とは何者か
当サークルは「東大純愛同好会」と名乗っているわけですが、この名前を聞いても、言葉のインパクトが強いばかりで肝心の活動内容がよく分からない、と感じる人も多くいらっしゃるでしょう。ということで、今回の記事の目標としては、このサークルが一体何をする団体なのか、皆さんにイメージを持ってもらうことを目指します。
東大純愛同好会は、「純愛」というテーマを切り口にして、アニメや美少女ゲームから小説、映画、音楽などカルチャー全般を考えるサークルです。創設メンバーの三人はみんな東京大学の現役学生ですが、サークル自体は自由なインカレサークルですので、大学や年齢を問わず、どなたでも参加を歓迎しています(そのあたりについては、最後に改めて詳しく述べます)。
さて、「純愛」を切り口にしてカルチャーを考える、とは一体どういうことなのでしょうか。「純愛」なるものへの解釈も、カルチャーの捉え方も、人それぞれではあると思いますが、この文章では、筆者の個人的な立場から、サークルの活動に対して抱いている思いを語ります。内容についてはいい加減なところも多分にあるかと思いますが、どうかよろしくお願いします。
以下では、まず「愛」とは何なのかというところから議論を始めて、次に「純愛」とは何なのかを確認し、その上で私(たち)が「純愛」に拘る意味について述べようと思います。そして最後に、サークルの具体的な活動方針について、改めて詳しく述べることとします。
2. 「愛」ってなんだろう
「純愛」について語り始める前に、「愛」とは何なのかを確認するところから始めないといけません。ここでは、私の個人的な立場から語ってみようと思います。それらしい一般論でハッタリをかますよりも、実感の伴った持論の方が価値があると信じて。
みなさんは、「愛」という言葉を聞いて、どんなものを思い浮かべますか? 例えば、家族への愛。例えば、恋人への愛。例えば、親友への愛。こんなところでしょうか。
実のところ、私は、上に挙げたような愛について、その実体がよく分かっていません。実感として、家族や恋人や親友に抱くような愛が自分の中にあると感じていないのです。だけど、その代わりと言ってはなんですが、隣人愛や自己愛というものに特別な拘りがあります。
今の自分は、特定の誰かを愛することができていないのかもしれない。だけど、特定の個人を超えた不特定多数の人々への愛(隣人愛)を習得することから始めれば、その後で誰かを愛することができるようになるのかもしれない。そして、そのためには、まずは自分を愛すること(自己愛)を十分に行えるようにならなければならない。
これが、私の現実における愛の構造です。そして、このような構造の中で愛を実践していくことが、私にとっての人生の重要なテーマです。
かつて、エーリッヒ・フロムは、著書『愛するということ』で、愛についての理論や技術、その習練について述べました。執筆にあたって彼の中にあったのは、次のような思いでした。
私が証明しようとしたのは、愛こそが、いかに生きるべきかという問いに対する唯一の健全で満足のいく答えだということである。
(『愛するということ』p.197)
上では、私個人にとって愛が人生における重要なテーマであると述べましたが、しかし同時に、愛は人々みんなにとってのテーマになり得るのではないかとも、私は思っています。フロム流に言えば、みんなにとって「愛こそが、いかに生きるべきかという問いに対する唯一の健全で満足のいく答え」だと信じてみたいのです。
3. 「純愛」ってなんだろう
さて、それでは「純愛」とは一体何なのでしょうか。weblio辞書で調べてみると、それは「純粋でひたむきな愛情」とされています。しかし、この説明を聞いても、「純粋」や「ひたむき」とは何なのかが曖昧で、「純愛」の実体について、結局よく分かりません。
「純愛」を定義することは簡単ではないようです。
「純愛」とは何なのかということをハッキリと明らかにするのは、サークルの今後の課題ということにして、ここでは、「純愛」という言葉には何らかの理念が宿されているのではないか、という仮説を提出してみます。
「純愛」という言葉が存在しているということは、その裏側には、純愛とは認められない愛(便宜的に「不純な愛」とでも呼んでみましょうか)が存在していることになります。私たちは、「不純な愛」に対して、より純粋なものを取り上げるために「純愛」なる概念を掲げているのです。
そして、ここではもう一歩踏み込んで、創作された物語の中にこそ「純愛」が現れていると考えてみたいです。現実世界における愛は、複雑極まる人間関係や社会的な諸問題との関わりの中で動いています。そのため、「純愛」という理念が完全な形で実現することは、ほとんどあり得ません。
一方で、空想の物語をつくるとき、そこには(現実世界における愛の実践に比べて)制約は存在せず、制作者が自由に愛を表現することが可能です。そして、制約が存在しないからこそ、現実世界ではなかなか実現できないような愛、すなわち「純愛」が、物語の中に表現されていると言うこともできるはずです。
「純愛」を切り口にしてカルチャーを考える、というのは、私の立場から言えば以上のようになります。そして、このような論理から、「純愛」を切り口として、空想の物語について考える意義があると言うことができます。
さて、次の4節では、具体的にいくつかの小説(ライトノベル)や美少女ゲームを挙げて見ていきましょう。サークルのイメージを掴んでもらうということが目的なので、あくまで簡潔に述べていきます。選出には私の趣味による偏りが入り込んでいますが、どうぞよろしくお願いします。
4. いくつかの作品を見てみよう
まずは、『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。』について。この作品は、2011年より刊行されているライトノベルシリーズで、その人気からアニメ化やゲーム化も行われています。
原作9巻で、主人公の比企谷八幡が、葛藤の中で「本物が欲しい」と、二人の仲間(ヒロイン)に吐露する場面があります。「本物」というのが一体何のことであるのか、私にははっきりとした答えはないのですが、しかし、この言葉には、単なる友情や恋愛感情と言ったものを超えた、何か痛切な思いが込められているように思います。私はその痛切さに、「純愛」に近しい何かを感じ取っています。
「それでも……」
いつの間にか出ていた声は、自分でも震えているのがわかった。
「それでも、俺は……」
嗚咽が漏れそうになるのを必死で飲み込む。声も言葉も一緒に飲み込んでしまいたかったのに、声も言葉も切れ切れに出て行ってしまう。歯の根がカチカチ鳴って、勝手に絞り出されていく。
「俺は、本物が欲しい」
目頭が熱い、視界が霞んで見える。自分が吐く息の音しか聞こえない。
そんな俺の頭を雪ノ下と由比ヶ浜が少し驚いたような顔で見ていた。 (『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。9』pp.254-255)
次に、『安達としまむら』について。この作品は、入間人間によるライトノベルで、現在も新刊の刊行が続いています。2020年にはアニメ化もされました。
この作品の主人公は、安達としまむらという二人の女子高生です。二人は、偶然に体育館の二階で出会って友達になるのですが、いつからか安達の方がしまむらに対して、ただの友達以上の想いを寄せるようになり、そうして二人の関係が変化していく、という物語です。
下に引用したのは、原作2巻の一場面です。ここで、安達はしまむらに対して、不器用ながらも自分の想いをぶつけます。安達にとって、しまむらはただの友達ではなく、かと言って恋愛の相手というわけでもなく、「一番の友達になりたい」と願う対象であるわけです。ここで重要なのは、安達は、(少なくとも物語序盤においては)自分は同性愛者ではないと自認している事実です。それでは、彼女がしまむらに向ける特別な感情は一体何なのでしょうか。もしかすると、その正体は、「甘えたい」という依存心なのかもしれません。私は、そうした依存の心理も、「純愛」を考える上では欠かせないものであると考えています。
「私、は」
しまむらのことが好きで。
こう、好きで。
好きで。喉がぎゅっと締め付けられて、息苦しくて唇が震えて。
「しまむらの、えっと……友達に、なりたくて」
(中略)
「一番の友達に、なりたい」
また一歩、前へ詰め寄るようにしながらそう宣言する。
「……一番?」
しまむらは意味を掴みかねているのか、眉をひそめている。見ていると弱気になってなにも言えなくなりそうなので、時間が経つ前に全部言ってしまおうと口を開く。
「なりたいっていうかなる、から。がんばろうと、思い、ます」
「そ、そうですか……」
(『安達としまむら2』pp.211-213)
それから、『WHITE ALBUM2』について。この作品は、1998年に発売された『WHITE ALBUM』の続編(ストーリー上のつながりはほとんどない)となるR-18の美少女ゲームです。
この作品のあるルートにおいて、主人公は、社会的な地位や周りの人間関係を何もかもなげうって、ヒロインの一人と結ばれることを選びます。そして、自らの決意を仲間に告白したとき、仲間の一人は、主人公に対して「最低の純愛だ」と言い放ちます。主人公の選択は、周りの人間をボロボロに痛めつける行為であり、そしてその上で一人のヒロインと結ばれようなんていうのは、軽蔑に値すべき幼稚な行為だとされたわけです。
ここではまさに「純愛」という言葉が、ネガティブな形で用いられています。誰かに対して「純粋でひたむき」であることは、社会的な要請と対立する場合が多くあり、そしてその要請を無視してまで実現する「純愛」などは、その外側にいる人にとっては、ただのおままごとでしかないわけです。
そして、『CARNIVAL』について。この作品は2004年に発売されたR-18の美少女ゲームで、瀬戸口廉也という人がシナリオを担当しています。
このゲームは、メーカーの言葉では「サイコ凌辱ノベル」と紹介されています。確かに、作中でも、主人公が残虐的な行為に何度も及びます。しかし、彼の狂気的な言動の裏では、さまざまな出来事が起こっていたことを、プレイヤーは徐々に知っていくことになります。彼が歪んでしまった背景には、彼の置かれている環境の特殊性があったのです。
作中では、世の中の仕組みとして、人間はどうやっても幸福になることができない、という主張が繰り返されます。ヒロインは、この命題が真であると思いながらも、それでも、幸福に向かって一生懸命に走っていくことを選びます。そして、一緒に走る相手として、主人公と共に生きていくことに決めました。二人は、お互いがお互いを確かに必要としていて、だからこそ、彼らは一緒になることを選択したのです。
この選択は、作中で度々描かれる「凌辱」と対比されて、その尊さが際立っています。私は、はじめて『CARNIVAL』をプレイした時に、ラストシーンの美しさに心打たれました。サークルとして「純愛」を取り上げることが決まった際にも、この作品のことを思い出しました。
5. なぜ「純愛」なのか
さて、ここまで「純愛」という言葉を手掛かりにして、べらべらと語ってきましたが、そもそもどうして「純愛」を考える必要があるのでしょうか。この節では、「純愛」に拘ることの意味について、上で述べたことをまとめながら、私が考えていることを説明しようと思います。
3節で確認したように、「純愛」とは「不純な愛」と対をなすものとして位置づけられています。言うならば、愛と呼ばれるものの集合を、「純愛」の集合と「不純な愛」の集合の二つに分けて考えることが可能ということになります。ならば、「純愛」を考えることは、それを包含する愛なるものを考えることに、確かにつながっているはずです。さらに言えば、愛という難解な概念から、「純愛」のみを取り出して考えようという操作は、複雑な物事について理解するための取り組みとしても、悪くないのではないかと思われます。
さらに、2節で確認したように、愛はいかに生きるべきかという問いに対する答えだ、という考え方があります。上の段で述べたことに、これを付け加えれば、「純愛」を考えるということは、「愛」を考えることにつながっており、さらにそれは「私たちがいかに生きるべきか」を考えることにつながっている、と言うことができます。私が思うに、ここに「純愛」を考えることの意味があります。
最後に、一つの歌を引用しながら、私(たち)の「純愛」に対する距離感を述べておきたいと思います。
愛という言葉をたやすく口にするのを嫌うのも
一体何が愛なのか それは誰にも解らないから
(中略)
愛の消えた街さ 昔からそうなのだろうか
それがあたりまえというには俺はまだ若すぎる
見つけたい見つけたい 愛の光を
信じたい信じたい 愛の光を
(尾崎豊「愛の消えた街」より)
これは、シンガーソングライターの尾崎豊の1stアルバム『十七歳の地図』に収録されている「愛の消えた街」の一節です。ここで尾崎は、愛というものについて自分でも確信を抱いていないことを表明しながらも、一方で愛を探し求めているかのように、「見つけたい」「信じたい」と言っています。
さて、当サークルの話に戻りましょう。ここまでくどくどと語ってきましたが、実は、私(たち)は「純愛」について何の確信も得られていません。それどころか、「純愛」という言葉に対して抵抗感のようなものを抱いている節さえあります(「同好会」と名乗っているのにね)。
しかし、私(たち)は、「純愛」なるものをサークルのテーマとして掲げます。尾崎豊になぞらえて言うならば、私たちは、それを「見つけたい」「信じたい」というよりも、むしろ、純愛の存在を「確かめたい」と思っているのです。
6. 東大純愛同好会の活動方針
サークルとしての今後の活動ですが、オンラインコミュニケーションツールのDiscordを用いて、定例会や勉強会、各種のイベントなどを開催していく予定です。また、サークルへの参加については、大学や年齢は問いません。どなたでもお気軽にお問い合わせください。
当同好会の目標の一つとして、日々の活動によって、部員が趣味を通じた人とのつながりを獲得し、また自らの感性を豊かにしていくことを目指します。また、もう一つの大きな目標として、部員の寄稿によって会報を作成し、それを即売会などで販売する形で、世の中に発表することを目指しています。
これからどうぞよろしくお願いします。
参考文献・参照作品
ダニエル・ジョンストン「True Love Will Find You In The End」(『1990』より)
エーリッヒ・フロム著, 鈴木昌訳(2020)『愛するということ』紀伊国屋書店
weblio辞書 https://www.weblio.jp/
渡航『やはり俺の青春ラブコメは間違っている。9』ガガガ文庫
入間人間『安達としまむら2』電撃文庫
シナリオ:丸戸史明 with 企画屋『WHITE ALBUM2 EXTENDED EDITION』Leaf
シナリオ:瀬戸口廉也『CARNIVAL』S.M.L
尾崎豊「愛の消えた街」(『十七歳の地図』より)
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