数値やデータによるアプローチと、個別の経験に向き合うアプローチの違い 〜村上靖彦「客観性の落とし穴」を読んで〜

お久しぶりです。
精神科医の村上靖彦先生が最近出版された「客観性の落とし穴」という本を読んで、自身の過去の体験やこれまでの学問や実践を振り返る言葉がたくさん浮かんできたので、ちょっと整理してみたくなり、久しぶりにnoteを開きました。

私は臨床心理士ですが、この本を読んで、なるほど私はちょうどこのテーマの狭間で揺れながら学問も実践もやってきているな、ということを再認識しました。

こんなに言葉が湧いてくることが珍しいため、ちょっと戸惑っており、どんな文章になるかわからないのですが、私の学問的なルーツを振り返りつつ、つらつら書いてみたいと思います。

心理臨床との出会い

心理学を学ぶために大学に入学して間もない頃の私は、ゴリゴリの理系脳で、「心というものは概念でしかなく、人間の心理現象は脳の神経細胞の活動によって説明できる」とか、「心という言葉は人が生きる上で便利だから使われているだけであって、脳科学が発展すれば不要になる言葉だ」ぐらいの思考をしていました。当時の私は認知心理学や神経心理学などの、いわゆる自然科学的なアプローチにしっくりきており、その方向性で学んでいくんだと当然のように考えていました。
 私のその考え方が180度変わる契機になったのは、大学1年の夏休みに受講した集中講義「こころの在りか」だった。教養中心の授業ばかりの1回生が専門領域を考えるための数少ない機会である選択性の「ポケットゼミ」という形態の授業で、抽選で5人しか受けられない講座に運良く当選した私は、その授業の経験をきっかけに、心理臨床の世界に誘われていくことになります。
 担当教授だった皆藤章先生は、どことなく不思議なオーラを放つ教員でした(京都大学の先生はだいたい不思議なオーラを放っている)。授業の冒頭で先生が「心はどこにあると思いますか」と聞いた時、尖った理系学生だった私は「心は概念でしかなく、実在しません、こころの活動は脳科学で説明できると思います」とかなんとか答えていたように思う。今思えば、私の思考はそれまで受けてきた教育や時代の影響からか、客観科学の世界にどっぷり浸かり、そこに安住していたのだと思います。
 次に授業で先生は、「では、皆さんが考えるこころを描いてみてください」といい、画用紙と鉛筆を配布した。そこで私はなにを思ったのか、とにかくなにも考えず、その場で思い浮かぶまま鉛筆を画用紙の上にすべらせ、特に意味もない線をボーっと走らせた。ただのなぐり書き、意味のない模様による絵ができあがる。ハートを描く受講生や、心臓っぽいものを描いていた人もいたかもしれません。先生から尋ねられた私は「なにも考えずに引いたこの線が、僕の今のこころだと思います」とかちょっと尖ったことをやっているという気分で答えていたと思います。先生は独特の間をとりながら「面白いですね」と受け止め、心理療法の技法の一つであるスクイグル(なぐり書き法)について教えてくれました。なにも考えずなぐり描きをした線がなにに見えるかを考え、そこにクレヨンで絵を描き乗せるという描画表現技法の一種です。いま思えばあの時の私は、自然科学的な心理学を意識しながら、こころのどこかでそうじゃないアプローチの可能性を感じていたのかも知れません。
 その授業でのその後の体験は私にとって衝撃の連続で、これまでの考え方や世界を揺るがすものでした。箱庭を置く体験をさせてもらったり(いまでもどんな箱庭にしたのか鮮明に覚えている)、臨死体験に関する映像教材を見て衝撃を受けたのを覚えています。そこで私は、まさに客観性や数値によるアプローチとは異なった、心の経験を記述する現象学的なアプローチの価値に出会うことになりました。
 箱庭療法とは、砂が入った浅い箱の中で、様々な玩具を置いていき、自分の世界を表現することを通して治療を行う心理療法の技法の一つです。守られた場の中で箱庭を作り、箱の中の表現にその人のこころが投影されることで、言葉にできない潜在的なイメージを表出させたり、自分自身の気づいていないなにかと向き合ったり、整理したりする体験が、自己治癒力を賦活します。他でもないその人の「私性」や、ある種の「主観性」を表現し、またそれらを通して経験を語ることを利用した治療法で、「客観性」の世界とは異なるアプローチによって成り立つものです。
 臨死体験の映像は、世界中の異なる文化圏の人々が、生死の境を彷徨った時に見ていたイメージや記憶が似通っている、という話でした。「河を渡ろうとしている」とか「お花畑にいる」などのイメージのことです。現実的・客観的には全くつながりがない、ルーツも異なる人々が、同じようなイメージを見るという事実の不思議さに強い興味を持ったことを覚えています。これをきっかけに私は、皆藤先生から勧められた河合隼雄先生の「ユング心理学入門」を読み始めることになり、その本の中で「現象学的アプローチ」に出会うことになるのです。
 同時期に、いつのまにか私は「もしかしたら現状の脳科学では説明できないこころの領域があるのかもしれない」と考えるようになり、また「一般的な心理現象を客観的に数値化してその関連を説明して研究をしていくよりも、目の前の悩める個人の役に立とうとすることのほうが、やりがいがあるのではないか」と考え、認知心理学ではなく臨床心理学の道に進むことを決めます。この一連の体験が、現在の私が臨床心理士としての実践と研究をやっていることのルーツとなったのでした。

客観科学と現象学が交わる学部時代の学び

「客観性の落とし穴」を読んで、上記のような心理臨床を学ぶ契機を思い出しながら、実は私は常にこの問いに直面してきたことに気づきました。学部生時代の私は、この問いに向き合いながら、ゴリゴリの理系脳であった自分と向き合う作業をしていたように思います。
 大学2回生の時には、心理統計学の授業にどっぷりとハマり、誰よりも真面目に授業を受け、統計学に大変詳しくなりました。あのエネルギーは、自分がそれまで生きてきた中で拠り所にしていた、客観的、数値的、データ的なアプローチで心や社会を理解しようとするという安心感の中にあったと思います。「こころの在りか」で受けた衝撃は私に好奇心を持たせましたが、同時に経験を描写する現象学の世界に対する不安のようなものもあったのだと思う。大学3回生でも同様により難しい統計学の理論にハマったり、質問紙法というアンケート調査による心理学のアプローチに魅力を感じ、研究法として使いたいという思いを強く持ちました。心理検査を学びながらも、やはり統計的に標準化された手法に信頼性を感じたし、主観的な判断が出来るだけ入り込まないような研究アプローチだけが真理であると、まだまだ感じていました。一方で、心理臨床の世界、個別のこころのあり方を、経験の語りから深く理解していく世界と対峙する必要性も感じていました。
 その結果、私の卒業論文は、どちらのアプローチも取り入れた複雑なものになりました(と今さら思い出しました)。論文のための調査計画の前半は、音楽の演奏や聴取の体験を数値化しよう、というものでした。大学生に対して、音楽の演奏経験や聴取経験を訊ねたり、その際に重視していることや、本人のパーソナリティ(ユングのタイプ尺度)を質問紙尺度として測定し数値化する。そうして、音楽経験を客観化・数量化しようとしました。一方で、調査の後半部分では、特徴的なパーソナリティ傾向が数値で出ている人を呼びだして、個別の実験を実施した。初対面の2名を実験室に呼び、お互い軽く自己紹介してもらう。その後、私は部屋から出て、1人にはピアノを演奏してもらい、もう1人にはそれを聴いてもらう。演奏が終わったら、お互いに更に会話してもらった上で、それぞれ個別のインタビューに応じてもらう。相手に対する第一印象がどうだったのか、演奏中はなにを感じたか、演奏後には最初の印象がどう変わったのか、など「経験の語り」を聞いていく。どのような性格の組み合わせで、なにが起こるのかを考察していく。
 ちなみに脱線しますが、その卒業論文では、質問紙アンケートの開発や実施、その結果の数量的なまとめや考察、インタビューの実施と内容のまとめ、考察などを文章化したところ、最初は3万6千字ほどになり、2万字以内の卒論では到底すべてを扱いきれない状態になってしまいました。提出締切は2011年1月6日の17時でしたが、私はその24時間ほど前の1月5日夕方ごろ、先輩の助言なども参考にしながら悩みに悩んで、結局2ヶ月以上かけて書いた前半の質問紙調査部分を大幅に削除し、後半の経験描写部分を中心に最初から書き直しました。(あの時の心臓のバクバクは忘れられません。なにしろ、卒論は大学院進学を懸けた評価の中心となるもので、間に合わなければ留年確定、かといって質が低ければ不合格となり、露頭に迷うことになっていたからです)。
 結局、後半のインタビュー部分をより丁寧に記述・考察したのは、私が臨床心理の大学院を志望していたからです。前半部分を選択していたら不合格だったかもしれません。演奏体験や聴取体験に関する一般大学生の心理傾向の平均値や、パーソナリティ傾向との統計的な相関関係よりも、性格の数値的な違いで選ばれた2人の実験協力者が、お互いの印象の変化についてなにを語ったのか、そこでなにが起こっていたのか、ということが、臨床心理学にとってはより重要な問いなのだと私は提出ギリギリになって考えたということなのでしょう。哲学者の中村雄二郎がこの問いについて考えている「臨床の知とは何か」という文庫本を読んだのも、これぐらいの時期だったように思います。こういう話題が好きな方は面白く読める本なのでオススメです。

大学院での学びと間主観性

 こうしてめでたく(?)臨床心理系の大学院に入った私は、心理臨床の現場の生々しい経験の語りを山のように浴びる生活をしはじめます。それは人の個別の経験の重みをひたすら受けとめ考える作業で、ゴリゴリ理系脳出身の私はその訓練に深い苦痛を覚えていたと思います。正直、大学院の授業への参加態度は良いものではありませんでしたし、当時の先輩方には不真面目で貧弱な新入生だと思われていたでしょう。自分でも苦労しながら、それでも可能な限り心理臨床事例と向き合って、「経験を受け止める」訓練を少しずつ進めていきました。奇しくも私が大学院に入院した2011年4月は、東日本大震災の直後で、原発問題など、人類の科学的叡智の集積が、自然の大いなる脅威によって破壊され、多くの命が奪われ、人類の誰もが深くこころを揺さぶられている時期でした。客観科学では語り得ない、人の経験の重みを認識せざるを得ない日々が続いていました。夏頃に石巻を1人で訪れた時には、「客観科学やデータによるエビデンスをたくさん知っていることよりも、個人に向き合う心理臨床の知識と経験を持っている方が、ここでは役に立つ」と感じたのを覚えています。
 その頃、心理臨床の領域でも、数値的な客観性や、統計的に効果的であるというエビデンスが担保された手法によるカウンセリングの実践が重要であるというメッセージが隆盛し始め、客観的に把握できる行動に注目した手法の研究や実践が盛んに行われるようになってきました。もちろん効果的で重要な手法であると考えていましたが、私がそちらに傾倒することはありませんでした。むしろ、人の個別性や経験を記述する現象学のアプローチをもっと理解したい、でも人に説明して納得してもらうためには客観性も大事、といった間でゆらぎながら、臨床心理士のトレーニングを積んでいったと思います。そこで出会ったのが「間主観性」という概念でした。
 臨床心理学に限らず、人の個別性と向き合う仕事では、私は「客観性の落とし穴」を知っておくことと同じぐらい、「間主観性」を理解しておくことが大変重要だと考えています。間主観性とは、現象学の祖であるフッサールが「デカルト的省察」で述べた概念で、主観と主観の間で成り立つ性質です。考えてみると、客観的な現実というのは、複数の人が存在するからこそ成り立ちます。「誰が見ても同じ」認識になること、客観性というのは、人が複数いて、誰もが同じように経験可能であるということの究極系を意味しています。
 間主観性とは、自分が主観的に感じていることと、他人の主観的体験の間でなにかが成り立っていることを指します。例えば、目の前にペンが置いてあるとして、「これは自分のペンだな」と自分が思っている時に、隣の人も「それはあなたのペンだ」と認識しているからこそ、そのペンは間主観的に「自分のペンだ」とわかるということになります。自分だけが自分のペンだと思っていて、隣の人も「自分のペンだ」と思っていれば、そのペンが誰のものかという間主観的な認識を持つことができなくなり、自分の主観的な思い込みになります。間主観性は、主観的な経験が、他人と共有可能な経験かどうかという意味で重要な概念です。
 なにが言いたいかと言いますと、数値的・客観的なアプローチに対して、個別性や経験を記述する現象学のアプローチがありますが、それを共有可能な経験として語る上では、その語られた経験が間主観的なものとして理解される必要がある、ということです。経験の記述から導かれる解釈が「自分だけがそう思っているもの」以上にならない場合は、それは単なる自分の思い込みになってしまい、独りよがりの主観的な感想になってしまうため、学問的な共有や正しさの判断ができなくなってしまいます。より具体的には、例えば人のケアを行う際に、目の前の個別の人が語っている経験を解釈する時には、その解釈が間主観的に理解できるものでなければならないということになります。そうでなければ、すべてケアをする人の都合によってケアの経験を美化しすぎてしまったり、本質を捉えない主観的な感想や占い結果のようになってしまうリスクも有るのです。その意味で、経験の語りを解釈する際には、その解釈ができる限り間主観的に理解されうることが大切だと思います。多くの人が「そうだよね」と思える「あるある」な納得感のある説明になっていないと、「それってあなたの感想ですよね」ということになってしまう、という感じです。
 いま、数値的客観性ではなく間主観性を強調するのは、数値的客観性や統計的なエビデンスだけが真理で信用すべきものなのではなく、個人の経験の語りや、そこから豊かに描き出される人間心理も同様に事実であり、それが教条主義や個人の妄想ではなく間主観的に理解され説明される限りは、人のケアや心の描写において有益な情報になりうる、ということです。
 その後、私は臨床心理士となり、日々臨床現場で経験の語りを聞きながら、個別のケアの実践を積み重ねてきました。同時に自分がスーパーバイジーとなって経験を語ったり、大学教員となって数値的客観的な統計学を教えたり、経験の語りを聞く心理臨床学のアプローチを教えたりしながら、少しずつ自分のなかの理解を深めていったのだと思います。今この瞬間にこうして文章を書けているのは、「客観性の落とし穴」という本が私の脳や経験に与えてくれた刺激のおかげです。感謝したいと思います。
 ※間主観性の解説について気になった方は、別途詳しい本を参照してみてください。

いま、ビジネス現場の仕事をしながら考えること

 そのようにして客観的・数値的な考え方と、現象学的・経験記述的なアプローチの両方を学び実践しながら進んできた私ですが、今の仕事も、いうなればその狭間でもがくことばかりをやっているな、という感じになってきます。
 今の仕事は、性格検査や従業員サーベイを統計学的に開発し、それらを使いながら企業の採用活動や従業員支援をサポートする内容です。ここまできても私は、まだ客観的・数値的・統計学的な手法による性格検査やサーベイを開発する一方で、それらによる個別性の解釈や、個別のサポートをする際に経験を語ることの重要性を人事担当者に説く、という仕事をしているのです(卒業論文のときとやっていることが変わっていません)。
 ビジネスの世界は特に、客観性や数値的なエビデンスを重視する世界です。性格検査を紹介しても「これって科学的に信頼できるの?」「数値的な効果が出せるの?」ということへの関心が強くなります。もちろん、会社全体の平均的な生産性を高めたり、できるだけ活躍"可能性"が高い人を採用したり、といった、確率的に有効なアプローチを選択し、より効率的に事業を成長させたい、という企業の思いはよくわかりますし、客観的にみて妥当でもあります。しかし一方で、エンゲージメントサーベイで従業員の平均的なやる気状態とその原因を測定したり、性格診断で従業員の性格分布を特定することは、「採用面接で目の前にいる候補者の経験」は教えてくれませんし、「面談で目の前に座って悩みを話している部下の相談にどう答えるのか」を教えてはくれません。それどころは、目の前の人の経験から目をそらし、数値的なエビデンスを頼りに人をパターンに当てはめたり、苦しみの経験から目をそらして誰にでも使えるアドバイスを与えてしまうようなことになりかねません。「人間関係に悩む部下に対しては、一般的にこのように関わることがエビデンスもある効果的なアプローチです」と知っていたとしても、それが目の前の部下にとって本当に意味があるかどうかは別問題です。ここに、経験の語りを聞くアプローチが必要なのです。そして、その視点になって多くの人の語りを聞き、それを先人の知恵も参照しながら間主観的に解釈することによって、個別の人の悩みを聞き、ケアをする技術が培われていきます。
 ちなみに、性格診断や従業員サーベイの数量的な事実が全く無駄というわけではありません。それらをキッカケに経験がより豊かに語られたり、それらがなければ気づかなかった現実に気づく事ができたりするからです。特に人や組織に関わる仕事をする場合は、そういった客観的なデータがもたらす有効性とリスクを知っておくだけではなく、そこをきっかけに紡がれるストーリーや経験にも注目していたいものです。

最後に

 客観的・数値的なアプローチと、経験を記述する現象学的なアプローチが、私のこれまでの学問や実践の中で大きな意味をもっているということを改めて言葉にしてみました。振り返ってみると、この問いはゴリゴリの理系マンだった私のアイデンティティとの自己対決のプロセスであり、それが同時にポストモダンの様々な場面で浮かび上がる社会の問いでもあるように思い、なんだか身をもってその問いを体現しているような感覚になります。
 まとめると、私が言いたかったことは以下のようなことです。

  • 客観的・数値的・データ的なアプローチは、多数派や平均的傾向、個別性や誤差を排除した確率的に確からしい判断が有効な場面においては一定役に立ちますが、特に個人のアセスメントやケアなどの場面では、そうではない経験の語りから得られるものが大きな意味をもつ(数値や客観性だけが真理ではない)。

  • 経験の語りを記述し、周囲と共有可能なメッセージを発信していくためには、間主観的に説明しようとする態度が必要で、そうでない場合は、ただの事実と異なる独りよがりの主観的な妄想になってしまい、学問として成り立たない。

  • 「人的資本経営」とか「DX」などを推進するときには、客観的・数値的なエビデンスによる全体的な把握だけでなく、そこで捨てられてしまいがちな個別の経験の豊かな情報にも同時に目を向けようとすることが、人のケアや人間同士の共生、ウェルビーイングな生き方などを考える上で大切なこと。

このように考えると、昨今隆盛しているchatGPTのような生成系AIの出力する語りは、人々の経験の最大公約数的な語りになっているような感じもしなくもない。まるで客観的な意見かのような、可もなく不可もない文章が出力されてくるが、当然AIには個別の経験やストーリーというものがないため、どのように向き合っていくべきなのか考える余地がありそうですね。「chatGPTの現象学」なんてのも、どこかで誰かが語っていそうなので探してみます。

長文をお読みいただき、ありがとうございました。
村上靖彦先生の「客観性の落とし穴」、ぜひ読んでみてください。


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