さらに生きている意味について考えてみた

前回は

自分だけにしかできないこと

今この瞬間自分が生きていること

だから

生きている意味は 生きているということ だとしました。


しかし、意味とはそもそも理由のことで必然性とも言われています。


なぜ生きているのですか


という問いに対して


生きているから生きている


というのは無理やり過ぎた気がします。

また、

何故だか知らないが今生きているので生きていますと言っていることとと同じことのような気もします。


そこでまた考え直してみました。



あるものの意味は、

それを認識し、それと他のものとの関係性があって初めて生まれます。


今回は生きている意味を


他者からの視点


自分からの視点


と2つの視点に分けて考えることにしました。


【他者からの視点】


このとき

Aという人が生きている意味は

Bが、Aを認識し、B自身もしくはBが知っている物事・人とAとが何かしらの関係にあるとわかっている必要もあります。


Aの意思はこの場合関係ありません。



これに関しては想像しやすいですよね。


人は生まれた時(お腹に宿ったとき)、必ず誰かがそばにいます。

親が1番わかりやすいでしょうか。

親に自分の子どもだと認識されたとき

この種の生きている意味が生まれます。


もし仮に流産してしまったり、

中絶されたり、

生まれた時から「死ね」と思われたり言われたりしていたとしても、

生きている(いた)意味が生じています。


他者の感情を動かし(た)

何かを考えさせ(た)

行動させている(た)でしょう。


語弊はありますが

人(他人)に影響を与えることが他人にとっての自分が生きている意味であると考えられます。


次に

【自分からの視点】


このとき

A自身がA自身を認識する必要があります。

そして、AはA自身がA自身と関係があるとわかっている必要もあります。




そして、自分自身にとっての生きている意味とはこのことですね。




自分が生きていることが

自分にとってどういう意味があるのか。



まず、いわゆる自我というものがなければこの類の意味は存在しません。


まぁ、自我があるから、こういった不安や悩みが生まれるのですけれども。


自我がなければ自分が生きている意味を考えることもないです。


そのため、自我が生まれると言われている3歳までは、他者からの視点の意味しかありません。


しかし自我が生まれると自分にとっての生きている意味が生まれます。


自我があることが

自分自身にとっての生きている意味があることの条件になるわけですね。





仮に

他者や外からの影響が全くない

自分しか存在していない

空間があり

そこで水も食料も酸素もなく

5分だけの命があったとしましょう。

ただし、それを見たりして認識する人も

いないものとします。




その時にある

生きている意味が

自分自身にとっての生きている意味です。




私は前回


生きているだけで、自分自身にとっての生きている意味(目的)は成り立っている(完成されている)と考えました。


その考えは変わっていません。

しかしそれだけだと

結局意味がないのと同じじゃないか

と思われるかなと思い、改めて書いてみました。



今は僕の場合は、

周りにいろんなものがあり、人がいるので、

影響を受けたり与えたりしながら

それらを感じられることをとても嬉しく思っています。

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