私の完璧主義の原点は


ふと「私は完璧主義気味なところがあるが、原点は何だろう?」と思った。

父は自身に対してわりと完璧主義だが、それを他人に押しつけることはしない。良い意味で放任主義。

母は完璧主義とは遠いが効率は重視する。父と同じで良い意味で放任主義。

二人の性格を考えても、私の完璧主義の原点ではないように思う。
人は家庭環境や学校などの社会環境に影響されると思うので、家庭ではないとしたら社会環境の方だ。

そこで思い当たることがあった。

幼稚園の年長のとき、独裁政権の典型例みたいな男性の先生が担任だった。
その先生を仮にA先生としよう。

A先生は一日に一回は同じ組の誰かを泣かせていた。先生の意に沿わない事があると怒鳴る。

年中のときの女性の先生は注意することはあっても怒鳴ることは決してなかった。

もちろん幼児はまだ善悪が分からないだろうから叱ることも多いと思うが、A先生は隣の教室に聞こえるのではというぐらい毎日怒鳴っていた。

私はずっとびくびくしていた。次に怒鳴られるのは自分かもしれない、と。私以外の同じ組の子もきっと同じ気持ちだっただろう。

ある日、天気が良いので外でお弁当を食べよう、ということになった。
私は自分の大好物である唐揚げを最後まで残して楽しみにしていたが、地面に落としてしまった。
「食べられない……」とショックを受けつつも、片付けようと唐揚げを掴んだら、「こら!」と怒鳴りながらA先生がこちらに来る。
私は混乱した。何か悪いことをしてしまっただろうか。
「地面に落ちた物を食べるなっ!!」
そう怒鳴られた。別に食べようとしたわけではなく、片付けようとしただけですけど、と今なら冷静に返せるが、怒鳴られたことがショックで事情を話せず泣いてしまった。
そのとき既に負けん気が強かった私は泣きながら、そして理不尽に怒鳴られたことに腹が立って、「ごめんなさいっ!!」と怒りながら叫ぶ。
するとその言い方もA先生の気に触れたらしく、「なんだその言い方はっ!」とまた怒鳴られて余計に泣いた。

20年以上経った今もこの時のことが鮮明に思い出せる。多分原点はここだと思う。先生の意に沿わないことをしたら怒鳴られるという事実だけが残ってしまったのだろう。
だから、家庭の中ではわりとわがまま放題だった。叱られることはあっても怒鳴られることが早々ないからだ。しかし、学校では絶対に担任がどんな先生だろうと真面目な生徒で居続けた。テストで良い点を取るのは当たり前。何か頼まれたら引き受けるのも当たり前。でないとまた怒鳴られる、もしくは何らかのペナルティがあるかもしれない。
おかげで先生たちからの評判は良かった。

そんな私に「完璧じゃなくていいんだよ」と教えてくれた人は三人いる。二人は今でも付き合いのある親友たちだ。
時間にルーズな子たちで一緒に登校していたが、絶対に遅刻したくない私は当時、そのルーズさにイライラしていた。遅刻して怒られたらどうするんだ、ということしか考えてなかった。もちろん時間を守ることは当たり前だが。
でも彼女たちが先生に叱られるところを見ていると、全く怒鳴られていない。ニコニコしながらお叱りを受けていて、先生自身も「もー!だめよ?」と終始柔らかくて最後は笑顔になっていた。
怒鳴られていないことが不思議だった。

親友の一人に聞いてみたことがある。「怒られるのが怖くはないのか」と。
「え、全然? 怒られるの慣れてるし」
衝撃だった。「怒られるのに慣れる……?」と疑問だった。でも、確かにあの叱られ方なら私はあまり怖いと感じなかった。叱り方にもバリエーションがあるのか、とその時気付いた。

三人目は父だ。大学進学で家を出るときにもらった言葉がある。

「人には得意不得意がある。得意なものをどんどん伸ばした方が良い。苦手なものを伸ばして満遍なくできるのも良いが、特出した物がないから目を掛けてもらえない。得意分野を磨いてその道のプロになった方が見つけてもらいやすいし、お金も稼げる」

学校では「ニガテをなくせ!」方針で、むしろ得意なことはそれ以上やらなくていいという教え方だった。
でも必死に苦手科目をやってテストで良い点数を取れても、すぐに忘れてしまう。嫌だな、と思いながらやっているから脳もこの知識は必要ない、と判断してしまうのだろうか。

学校のやり方より、父の言葉の方が説得力があった。
なんでもっと早く教えてくれなかったんだ、と思ったが、学校の方針が変わらないと「得意を伸ばせ」と言われても「どちらを重視すれば?」と困っただろう。それに、高校卒業するぐらいにはある程度自分の得意な分野は分かっている。

こうして父にも「完璧である必要はない」と教わった。

親友たちや父に教えてもらわなかったら、余裕のない人間になっていたかもしれない。余裕があるから、自分に優しくできるし、人にも優しくなれる。

きっと上記のエピソード以外にも周りの人や本にもたくさん教えてもらったと思う。

そして、完璧主義の原点を考察するにあたって、気になったことがあった。私の姉のことだ。

姉は小学生のとき、夜遅くまで字をきれいに書く練習をしていた。
私は字が汚かったので、よく姉に「汚い」とはっきり言われたものだ。
そこで思い至ったのは姉はもしかしたら、誰かに自分の字を馬鹿にされたのだろうか、ということ。
クラスメイトか先生か分からないが、馬鹿にされて悔しくて何度も何度も消しゴムで消しては見本を見ながらきれいに書いてを繰り返していたのだろうか。
母に「もう十分きれいだよ」と言われても姉はやめなかった。
私の字を見る度に「汚い」と言った姉に、私は腹が立ったが、姉は私に同じような思いをさせたくなかったのかもしれない。姉妹仲が悪かった訳ではないし、むしろ良い方だったから。
そう考えると、あの頃の姉に対する怒りがほとんどなくなったように思う。もう少し言い方あったやろ、とは思うが姉とて当時はまだ子どもだ。言い方を考える余裕もなかったのだろう。

私の字は、というと、普通に読めるが姉ほど字はきれいじゃない。高校の先生二人と、大学時代の先輩からも「全然汚くないよ」とお墨付きをいただいた。姉の字を見るとやはりきれいだなぁ、といつも思う。当時はきっと苦しかったかもしれないが、字のきれいさで人を感動させることはままある。
姉は見事に自分の努力で、人に「きれい」と思わせる書き方を手に入れたのだ。姉を誇らしく思う。

結論として、私の完璧主義の原点は年長時代の一年間だ。
経験から分かったことだが、怒鳴られたら『怒鳴られた』という事実しか記憶に残らない。
私が経験したように自分が悪くない場合もあれば、工夫をすれば良かったかも、と気付く場合もある。
しかし工夫を考えれば良かっただけのことが、怒鳴られたことによって、相手への恐怖や怒り、悲しみに意識が持っていかれてしまう。その後のその人との関係も良くなる見込みはないだろう。
怒鳴る人は「今この場面で本当に自分は怒鳴る必要があるかどうか」を考えた方が良いだろう。
もしかしたら自分の怒りを発散させるために怒鳴っていないか?
怒鳴られる方側からしたらただの迷惑である。
アメリカでは、職場で怒鳴る人は自分の怒りもコントロール出来ない幼稚な人と判断されて周りから距離を置かれるそうだ。
その考え方を日本でもっと浸透させた方が良いように思う。

私は完璧であるよりも、人の気持ちを考えられる人でありたい。

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