マイルス・デイヴィス『ビッチェス・ブリュー』を初めて聴いて + ジャズにおける「黒さ」(後輩Bとの対話)
私「ジャズを一年半くらい聴いてきて、ようやくフュージョンの良さがわかってきた
いまならハンコックの『ヘッドハンターズ』とかも聞けそう。」
B「良いですね。どっちもファンク寄りのですよね。」
私「そのようだね。
ファンク系の他には何があるんだ?」
B「元がジャズですから大体黒人音楽の要素はあるので、ハービー・ハンコック等と比較すればの話になるんですけど、リターントゥフォーエバーとか、ラリー・コリエルはファンクの影響は薄そうです。あと、初期のウェザー・リポートですかね。」
私「チック・コリアはファンクっぽくはないね、確かに。
しかしコリアはジャズっぽく聞こえない気がする。やっぱりファンクとか、『黒さ』があるんかなと…」
B「コリアのピアノトリオとかを聴いても、そんなに『黒さ』は確かにありませんね。
RTF(リターントゥフォーエバー)の初期はブラジルとスペインですし、その後はプログレです。」
私「なるほど…
ブラジルもスペインもラテン、ヨーロッパですね。もちろんブルースとかと融合はしているけど、ルーツは『黒さ』ではない気がする
マイルスもクール・ジャズの延長にあり、コルトレーンとかガレスピーみたいな『黒さ』はないのだが、しかしルーツとしてやっぱり『黒さ』がある。
その意味では、マイルスはクールジャズの中でもホット(ブラック?)な印象。
それが『ビッチェス・ブリュー』というフュージョンの中にも表れてるなぁと。
B「同感です。」
(2020.11)
当然だがここでいう「黒さ」は全く差別的な要素を含まず、純粋に音楽的な要素で、他とは違うもの、すなわちアフリカン・アメリカンが主導のものをそうでないものと比べたときの、特別な聴感の違いのことを言っている。
チック・コリアとハービー・ハンコックの60~70年代の音楽について、行き方(方向性)は似ているが、その響き(音楽性)が違うのは何故だろうか。そのような印象を「黒さ」という概念を使って説明しようとしたのが上の対話である。
いまこの「黒さ」について詳しく立ち入る暇は無いが、私としてはいずれ深く語ってみたいテーマであると思う。マイルスのクール・ジャズには、やはりウェスト・コーストのクール・ジャズとは異なる「何か」がある――それを私は「黒さ」と呼びたい――
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