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ありがたき気づかいに流されない

今日のBGM:

先だってある人に「不安にさせてすみませんでした」
とメールで言われた。
たったそれだけなのに、わたしはものすごくイライラした。

わたしは「不安だ」なんてひとことも言っていない。ましてや思ったこともない。
思い込みもいいところだ、勘違いしないでくれと思った。

「相手が気をつかって言ってくれてること、ほんとはわかってるくせに」
「あんた、そんなことでイライラしてんの。ちっさ!」
「◯◯さんだったら、もっと鷹揚に構えているよ」
てなことをもう一人のわたしがわたしに言う。
確かにそうなんだけどね、とも思うけれど、もう一人のわたしが言うことに納得できなかった。
いや、今回は納得できなかったのではなくて、屈しなかったと言ってもいいだろう。

すぐにメールを返信せず、心を鎮めるために、お風呂に入る。
わたしはいつも半身浴をしながら瞑想もどきをする。
瞑想(もどき)をすると、一時はそのイライラを忘れられる。
不思議なことに、イライラに集中すると、却ってイライラが霧散するからだ。

でも、お風呂からあがって、髪の毛を乾かし始めると、またイライラが戻ってくる。

これが虚栄心から来るものだったら。たとえば、こんな些細なことで不安になるような未熟な人間に思われたくないといったこと。
そういったことだったら、わたしはそんなそれを捨てるようなアプローチをとっただろう。もう一人のわたしがわたしに言ったのと同じように。

でも今回はそういった見栄っ張り的なものは、皆無とまではいかなくとも、割合としてはかなり少なかった。
そのことは、わたしとしても結構意外だった。

じゃあ、なんでイライラしてるの、自分? と、訊いてみた。
何のことはない。
他人に勝手に感情を決められるのがイヤなだけだった。

インフルエンザで一週間会社を休んだときに、同僚に「たいへんだったね」と言われたことがある。
父親が亡くなったとき、親戚から「寂しいわね」と言われた。
大病で入院していたとき、友人から「つらいね」と言われた。

でも、わたしの気持ちは違った。
べつにインフルエンザごときで、たいへんだったとは思っていなかった(堂々と休めてよかった)。
父親がいなくなっても、寂しいとは思っていなかった(77歳、まあ長生きのほうでしょう)。
病気だからといって、つらいとは思っていなかった(むしろ病気への闘争心がむんむんだった)。

でも、かけられた言葉にイライラはしなかった。
相手はわたしに寄り添ってくれようとしているのだろうと思ったから、そのいただいた気持ちを大事にしたかった。

わたしだって、勝手にひとの感情を決めている。
友人が泣きながら何かを相談してきたら、「つらいね」なんて言ってしまう。
相手がつらいかどうかなんてわたしがまったくわかっていないくせに、自動的に口から出てしまう。しかも、神妙な表情を装って。

そこには、「弱っているひとに何か優しいことを言わないと」という虚栄と、共感的な言葉をかけてあげたら多少は救われるかなという、気づかい(と言っていいのか?)じみたものがある。
嘘を言っているわけでも、裏で舌を出しているわけでもない。
そのときは、自分が相手に「本当に」共感していると思い込んでいるのだ。

わたしは自分の感情を大事にしたいと強く思っている。
でも、わたしが自分の感情を大事にすることが、相手の感情をも大事にすることになるような気がするのだ。

本当は共感していないのに、共感しているふりをするのなら、黙っていたほうがよほどいい。
共感はできなくても、相手と共にいられることはできる。
目の前の相手が、今その人にとっての望ましくない状況に置かれているようだということはわかる。だったら、共にいてあげればいい。
共感する必要もなければ、説教する必要もない。共感も説教も、結局は押し付けなのだから。

わたしは自分の感情を大事にすることにして、冒頭に書いたメールの相手に返信することにした。
懸念はあった。「不安に思うほど、あたしゃ未熟じゃないんだよ」ということをアピールしているように受け取られたらやだなと思った。プライドが高いと思われたらやだなと思った。
でも、こんなことも虚栄からくるもの。基準が自分じゃなくて相手にある。結局、他人の視線を気にしているのだ。
自分の気持を言ったら言ったで、別の勘違いを生みかねないけれど、そんな心配ばっかりしていたら、永遠に自分の感情を伝えることができない。
他人に自分の感情を勝手に決められたくないと思っているくせに、これを言ったらこう思われないだろうかああ思われないだろうか、などと考えを巡らすのはおかしい。
相手をコントロールしようとして、結局自分で自分の首を絞めているようなものだ。
それでは自分の感情を大事にすることはできない。

今やることは、自分の感情を大事にすること。あなたにわたしの感情を勝手に決められたくない、ということを伝えることだ。

とはいえ、さすがに、あんたにあたしの感情を勝手に決められてはたまりません! とは書けないから、
「ありがとうございます。不安に思ったりはしていないので、どうぞご心配なく」
と書いた。

相手にどう伝わったかはわからない。
でも、正確に伝わっていなくとも、あるいはさらなる勘違いを生んだとしても、わりに健全なかたちで自分の感情を伝えられたと思う。

どう思われるか、ではない。
違和感があったら、おかしいなと思ったら、そこで多数派や声の大きい人や常識や、その他諸々に迎合しない。
自分がどう思うか。それを錨として持っておきたい。



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