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大きすぎる期待

労働生産性が悪いと言われる日本人だけど、人力に頼るとがぜん力を発揮するらしいので、その点では一概に生産性が悪いとも言えない。
日本ではあり得ないのだけど、こちらの記事にあるようにうどん1杯にアメリカではバケツリレー的に多くの人の手がかかっているらしい。自分一人の1杯のうどんのために恐縮するやら王様になった気分やらって感じになるんだろうか。馴染みのない食べ物とオペレーションということを差っ引いてもずいぶん人手のかかったうどんでありがたや。って食べてないけど。
https://blog.btrax.com/jp/japan-dx-challenges/

わたしは生粋の日本人だけど、わりと他人の役割を気にする。
たとえば百貨店に行ったときなど、お目当ての店の場所を目についたお店のひとに訊くことはしない。ちゃんとインフォメーションのひとか、巡回している館の社員に訊く。
だってお店の従業員の役割は自分のとこのものを売ることなのに、そこでほかの店の場所なんか尋ねちゃったら営業妨害じゃないかと思うのだ。しかもそこでなにか買ったんならまだしも、買ってもいないのに。しかも彼らは百貨店の従業員じゃないし。
わたしも百貨店で働いたことがあるからわかるけど、間違っても「そういうことはインフォメーションでお聞きください」とは言えない。言ったらたぶん即クレームで(百貨店の客はクレーム好きが多い傾向)、館の社員からお小言をもらい、朝礼で事例が共有される。

日本は、ある領域内においてではあるけど、人間一人になんでもできることを求める社会だと思う。仕事にしても人間性にしても、アメリカのうどん店のように細分化されていない。とにかく括りがでかい。
以前、従兄弟が結婚相手に求めていた条件が、器量よし、頭よし、家事能力よしだった(仕事能力は求めていなかった)。いくら30年前とはいえ、やはりそこに身勝手さは感じざるを得ないし、だいたいおまえはどうなんじゃ。

サービス提供者にも結婚相手にもいろいろなことを求め期待するのは、欲張りであることに加えて判断力が欠如してるんじゃないだろうか。なにを重要視して選択し、これはあったらラッキーかもしれないけどとりあえずなくてもいいから捨てるという判断を付けることが難しいから、あれもこれも求めてしまう。
求められる側も「できない」と言うことによって他人から、そして自分からも自分の価値を下げられる。それが怖いから求められるがままに動いてしまうのかも。もともとの自己肯定感が低いんだろうか。推測だけど。

そんなこと気にせずできないものはできないと言おうよ、なんてことは言わないよ。自己肯定感なんて一朝一夕に上がるもんじゃない。むしろでかい括りでなんでも求める側に対して、過剰な要求をやめようよと言いたい。

Amazonなどの口コミを見ていると、梱包箱がちょっとつぶれていただけで商品に影響はないのに、どうしてそれがクレームになったり星の数を減らしたりする理由になるのかわからない。
昔、お正月に読もうと思って年末近くに買った本がいつまでも届かないことがあった。遅いなと思ていったら、元日にスーツを着た宅配会社のお兄さんが家に来て、箱がつぶれてしまい申し訳ありませんと菓子折とともに持ってきたことがあった。中の本は無傷だし、そんなことより早く持ってきてほしかったし、元日からパリッとしたひとに来られても困るとか思った。こういう過剰品質、過剰サービスいらない。ま、せっかくなんでお菓子はおいしくいただきましたけど。

人間やサービスに対してなにを求めてよくてなにを求めてはいけないのか。なにが重要でなにが重要じゃないかの取捨選択をちゃんとするといいのかも。そうじゃないと過剰品質地獄で全員死んじゃうよ。

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