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自己嫌悪というマグマ ―後編

すっかりさわやかな秋の空になった東京の本日は、あんまりさわやかでない前回の続き。

寒がりで、乾燥肌のわたしにとって、夏という季節はありがたい。そんなありがたい夏なのに、昔っからあんまり楽しくないことが起きることが多い季節でもある。
この夏もそうだった(というか、わたしがやらかしてしまったのだけど)。
ここでも宣言したというのに、宣言したことからまたもやすすーっと横歩きで逃げてしまい、楽しくないことが起こった。

「何をやっても続かない」
「口ばっかりの傍観者で行動しない」
「楽して何かを得ようとしている」

わたしが自分に対して罵るときのセリフだ。
行動できないこと、行動したとしても持続できないこと。他にもいろいろあるけれど、主にこの二つをコンプレックスとして抱えてきた(このことに気づいたのも、ほんの5〜6年前のことで、気づけたことはよかったと思う)。

自己嫌悪の強い人は、つねに「 自己嫌悪を感じるような自分のふるまい」に注目しています。自分のふるまいをスキャンして、「 自分がダメな部分」を拾おう拾おうとしているのです。
[……]
自己嫌悪があるから、ろくでもない行動をしてしまい、自分のろくでもない行動ばかり拾って、自己嫌悪を増幅させていく。

こうした「自分がダメであることの証拠集め」のツールは、他者と比較することだ。
比較することが無意味なのだけれど、その比較先が問題でもある。
アスリートが一日20km走るのは当たり前のことでも、運動音痴な自分にとってはものすごいことだと思う。なのに、アスリートと比較して、自分は20km走れなかった、だからダメだとというドツボにはまっていく。
同じように、たとえば「行動する」ということは、ある人にとっては起業することかもしれないし、ある人にとってはご近所の人に「こんにちは」と挨拶することかもしれない。
自己肯定感が低い割りに、身の程知らずにも比べる相手はずいぶんとすごい人物で、それで「自分は何もできていない!」と悶絶するという、なんだか不思議な現象が起きていた。

さらに、コンプレックスの原因を、母親が毒親であったからということにして、自分を正当化しようとしてきた。
わたしが何かに挑戦しようとしても応援してくれたことはないし、何かを成し遂げても認めてくれたこともなかった。母は、子供に追い越されては困るのだ。そうなると、自分の「立場」が危うくなるから。いつまでも子供よりも上の立場でいたい。
……てなことを思っていた。
これは本当かもしれないし、ただの妄想かもしれない。でも、今、この真偽をはっきりさせる必要はないと思っている。そこにエネルギーをかけることは心地よくない。
心地よくないことを選ぶのか、心地よいことを選ぶのか? と自問自答したとき、心地よくない感情を選びたくない、と最近思えるようになった。

自己嫌悪にふり回されているときは、自分の感情を見ることができませ ん。自分がどうしたいか、ではなく、他人からどう見られているかを基準に動いてしまうからです。

自分の感情を見て、自分のために感情を選ぶ。
それはいつもポジティブな気持ちでいるということではない。嫌だな、悲しいな、つらいなと思ったら、それを味わえばいいと思う。味わって消化できればいいと思う。

だけど、最初は感情を味わうことは難しかった。ネガティブな感情に浸ってはいけないし、ウキウキした感情に舞い上がってはいけないという思い込みがあったから、どんな感情であれつい見ないふりをしてしまう。
見ないふりをしていると、どんどん麻痺していく。


この夏、わたしはまたもや行動せずに安全(と思われる)ところに戻ってしまった。気持ちを割り切って、そこにいられると思ったのだ。きちんと自分の感情を見ずに、行くべきでない方向に舵を切ってしまった。
だから、ぜんぜん無理だった。もはや、そこはわたしにとっての安全地帯ではなかったし、心地いい場所でもなかった。
割り切れなかったのは、自己嫌悪が噴出してしまったのと同じように、わたしのなかで、多少は感受性が良くなったのかもしれないから、よかったといえばよかったのだ。
とはいえ、噴出してしまった自己嫌悪を抱えながら、誰にも強制されたわけでもないのに戻ってしまった「安全地帯」に行って、そこでもしんどくてひーひー言って、ちょっとつらかった。
そんなときに出合ったのが、前回からさんざん引用させてもらっているこの本だ。

安冨歩 『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。他人に支配されず、自由に生きる技術』大和出版(2016)

頭が悪いから、お金がないから、才能がないから自己嫌悪を感じわけではありません。
もともと「自己嫌悪の穴」が心にぽっかりと空いているから自己嫌悪を感じるのです。「自己肯定感が欠けている」と言ってもいいでしょう。

人間は、何かができないから自己嫌悪になるのではないそうだ。先に自己嫌悪を感じ、あとからその理由をさがして、自分に対してあーだこーだと言うらしい。

自己嫌悪を軽減するためには、自分と向き合い、自分のしようとしていることが自己嫌悪からくる行為なのか否かを意識すること、という内容のことが書かれていた。

自分のしようとしていることについて、「あ、これは自分がしたいからしている」「これは自己犠牲でやろうとしている」「これは他人によく思われたいから」というふうにいちいち自問自答したら、楽になった。
自己犠牲や他者の評価のための行動を一切しないわけではない。あえてそうする場合もある。でも、それも自分が選択しているという自覚があるのとないのとでは大違いだ。

やりたいことがあるのに、「生活のため」などと理由をつけて心地よくない場所に行ってしまうのは、感情をよく見てみたら、自分はやりたいことができるはずがないという自己不信からの行動だったみたいだ。
自分に向き合わなければ、自分の本当に取りたい行動の選択はできない。
自己嫌悪にまみれていると、自己欺瞞に陥る。いや、自分に対して嘘をついていることすら気づかなくなってしまうかもしれない。

他者の視点と自己嫌悪に振り回されることをやめて、自分を取り戻し始めたら、もう夏は「また来年」と言っておうちに帰ってしまった。
あっという間だったね、今年は特に。
また来年。

引用:安冨歩 『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。他人に支配されず、自由に生きる技術』大和出版(2016)

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