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怖いものを知ってしまった結果

考えれば考えるほど怖くなる。なにがって、ひとと話すことが。
昔はさほど考えていなかった。今も考えているかと言えば、ひとと対峙しているその瞬間に考えられるほどの冷静さはないので、考えなしに不用意な発言をしてしまうこともあるのだけど。あるっつーかたぶん頻発。

わたしはずけずけとものを言うタイプらしい。いいことも悪いことも陰で言うくらいならはっきりと口に出した方が善だという信念が子どもの頃からあった。
でもさすがに本人には言えないよなってことがあることはわかっている。それを自分の胸にしまっておかずに、第三者に言ったりするから、信念が一本化していないのだけど。
たぶんその「本人にはさすがに言えないよな」ってことの基準が少しひとと違っているのかもしれない。そのように言われたら相手がどう感じるかという想像力が欠けているんだと思う。だからずけずけ人間だと思われる。

でも基準はひとによって異なっていて、普段は特にずけずけものを言うわけでもないひとが、こっちがあまり聞かれたくないことを根掘り葉掘り聞いてきたりする。

歳を重ねると大胆になる側面と保守的になる側面があると思う。
大胆さ(無謀さではない)は経験を重ねたことによる。やったことがなければどこまでがたとえば安全なのか、どこからが危険なのかがわからない。
わたしは子育てをしたことがないので、小さな子どもが転んで大泣きしたら慌てふためくし、なんなら病院行く? くらいの気持ちになるけど、その子どもの親はけがの様子などから判断して、子どもを慰めはするけどわたしほどあたふたはしていない。どこまでがやばくなくて、どこからがやばいのかがわかっている。

ずけずけとものを言っていた頃の自分は、経験や思慮のなさからそうだったんだと思う。ものを知らないが故の大胆さというか無礼な言動。知らないとは怖いもの知らずだ。

怖いもの知らずと言えば、中学生のとき、どっかのヤンキーたちが軽く絡んできて、みんなが怖がってるのにわたしは彼らになにか言い返して、それを親に報告したら怒られたことがある。でもそんなに怖そうには思えなかったんだけど。
そういうひとたちを知らない(経験がない)からこそ大胆になったとも言えるし、逆にそのひとたちがたいして怖くないということが直感的にわかる(経験はないけど認知機能はある)から平気だったとも言える。

これは所詮子ども同士のことだし事なきを得たからいいけど、自分が言われたらどうかというだけでなく、どういうタイプのひとはどういうことを言われたら不快なのかということも知っておくべきだと最近思うようになった。ちょっと肩がぶつかっただけで「あーーん?」と絡んでくるチンピラもいれば、さほど気にしないひとがいるように。それには経験とある程度の知識とが必要なのかも。

いろいろとあちゃーな経験をして怖いものを知った結果、今は基本的に当たり障りのないことしかしゃべらないようにしている。
だからつまんないひとかもしれないけど、ひとってだいたい自分のことを話したがるから、わたしがあなたにとっておもしろいかどうかということよりも、話しやすいかどうかが重要なんだと思う。
でもそればっかりやっているとだんだん息苦しくなってはくる。

世界中のひとが漏れなく崇める神様みたいなひとだったら、みんななにを言われてもありがたがるだろう。だけど普通の人間どうしがかかわり、そこにことばが存在すれば、多かれ少なかれ相手を不快にさせたり傷つけたりすることは避けられないと思う。
そのために無関心を装ったり、ことばを注意深く選んだりすればするほど、それは相手に伝わってしまうような気がする。

傷つけられたからもう付き合わないのか、それはそのひとのほんの一部で取るに足らないことなのか。完璧な人間はほぼいないので、どこまで許容する/してもらうのかは、広さと深さによるかな。

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