見出し画像

「なかったこと」にしたい寄付ではないのか?

失敗をなかったことにしようとして、無理やりつじつま合わせをして、結局自分も含めだれのためにもならないことがある。
そして、だれのためにもならなかったことがわかった時点で、失敗が隠し通せなかったことは明らかになる。
やらかした時点で「やっちまった〜」と公言しちゃえば、失敗といえるほどのことでもなく終わるのに、ゴリゴリとつじつま合わせをすればするほど、それがだれの目から見ても「失敗」と映るようになる。
なかったことにしようとすればするほど、なかったことにできない。

東日本大震災のときに、赤十字にお金を送った。
そのタイミングも早かったし、金額もわたしにしては多かった。
震災後まもなく、あるNPO団体の代表から、(あまり知られていないようだけど)かなり有効な支援活動を現地で行っていることを直接聞いて、赤十字よりも有効にかつ迅速にお金を役立てられるところに寄付すべきだったと思った(その団体にも後日寄付した)。
赤十字がどんな団体なのか(問題があるという意味ではありません)よく知りもせずにお金を送ったけど、お金を送るのならその送り先のことをちゃんと知るべきだった。
赤十字にお金を送ることがよろしくないというわけでは決してない。
問題なのは「なかったこと」にしたかったから、何も考えずに行った自分の行動だ。
「なかったこと」にしたかったのは、自分の無力さだ。
なにもできない(しようとしない)自分を、せめてお金という形で「なかったこと」にしたかったから、「お金を送ればいい」的な行動に陥ってしまった。

東日本大震災から数年後の熊本地震。
地震発生時、わたしは旅行で滞在していた松山もけっこう揺れた。東京にいたら、これは経験しなかった。
熊本に移住した友人もいた。
だから、遠い地の災害だったけど、普段よりは気にかかった。

その頃に大断捨離をして、本や洋服を売った数万円があぶく銭として手元にあった。そのお金を熊本の被災支援に役立ててもらおうと思った。
たまたま友人が、現地に残って支援活動をしているお知り合い(このひとも東京からの移住者)のところに手伝いに行くというので、断捨離で入ってきたお金を彼女に託した。
これってもしかしたら失礼にならないかしら、という一抹の不安もあったのだけど、気持ちよく受け取ってくださったとのことで安心した。

わたしには共感力や想像力がやや欠けているので、困っている現状を見聞きして、いても立ってもいられないという思いにとらわれることがない。
そのくせ、なにもできない自分に罪悪感を抱いていたりもする。
東日本大震災にしても、熊本地震にしても、いったいどういう思いから自分はお金を送ったのか。
それはやはり自分の無力さとそれによる罪悪感を「なかったこと」にしたいからだ。被災地を気にかけるふりをして、自分しか見ていなかったんだなと思う。


今回の西日本の豪雨で大きな被害が出た地域に友人がいる。
住まいは避難所となった場所にとても近いようだから、友人の家はおそらく無事だと思う。
だけど、わたしは友人に連絡一つとっていない。
たぶんいろんなひとたちから安否確認の連絡が入ってきていて、うるさかろうと思うのと、「大丈夫?」と訊いたところで何の役にも立たないんだからそんな自己満足のための安否確認もやはり迷惑だろうなという思うからだ。

そういった安否確認をしないと同時に、寄付行為なども今回はまだなにもしていない。
無力を嘆いて「なかったこと」にするような自己満足なことをするんじゃなくて、今、なにをするのがより良いのか、ちゃんと調べ、ちゃんと考えたいからだ。
好意が仇にならないように。

※見出し画像は、被害の大きかった西予市に住む友人宅のみかん山から見た風景です。とっても素敵なところでした^^

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?