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価値観は変るし、好奇心を持つことに賛同を得られにくくなるけど、異なる人間だからしょうがないのかなって思う今日この頃

どうしよう。

親の価値観とのずれを痛感するこの頃。

高校の時までは、感受性の違い、生きてる世界の違いのよるものばかりだった。

それが大学に進学するにあたり、親元を離れてから、価値観の違いに変わっていった。

例えば、親の持つSNSへの認識と、私の持つ認識の違い。

安全圏にいることを是とするか、危険地帯に踏み出すことを是とするか。

みたいな価値観の違い。

私は自分の心の声が小さいと思っている。

相手が楽しそうにするからこれは楽しい。

相手が悲しそうにするからこれは悲しい。

心が躍った時の記憶はあまり思い出せない。

生を実感する瞬間は明確に分かるのになぜ。

一人になると少し聞き取りやすくなる。

いや、違う。

一人になって聞こえる声もまた私の心の声じゃない。

何かをしなきゃ。

何かと繋がらなきゃ。

何かを入れなきゃ。

有意義なことをし続けなきゃ。

自分に価値なんてないのかなって。

天気が良ければ散歩して。

雨が降ったら自己啓発本でも読んでって。

今までさんざんインストールしてきた大人たちの思考が算出する声。

誰のための人生?

私の人生は何処かの誰かに提出しなきゃいけないデータか何か?

評価される対象なの?

この声もきっとどっかから拾ってきた思考の断片。

「気にしなければいいじゃん」って思うでしょ?

「考えすぎだよ」って思ったかな?

でもね、私には難しいんだ。それが。

気にすることを止めることが難しいのは、他者の存在と感情を通じて自分の感情を作り出すようになっちゃったから。

「共感は大事」って教わるじゃん?

「でも、嘘っぽい共感はダメ」って言われるじゃない?

そこで、素直かつ脳筋な私が導いた答え。

「ならば、本物にすればいい」

我ながら馬鹿だよなぁ。と思う。

共感するために感情を作り出そうって。

絵にかいたような自分が無い子どもやん。

でもまぁ、始めは50を100として表現してた記憶があるから、50分の感情はちゃんとあったと思う。

思いたい。

そのために、「○○ちゃんに△△されて嬉しかったね」って言われて、「あー。こういうことされたら“嬉しい”って言うんだ」なんていう風に、感情と言葉を結びつけるのではなく、出来事と言葉を結び付けて覚えたなんて記憶は抹消しておこう。うん。

そして感情の水増し表現が、どんどんエスカレートしていった。

挙句の果てに、感情を使わなくなった。

道徳心や倫理観という公式に、目の前の出来事を当てはめ、機械的に演算し、「良いとされる可能性が一般的に高い解」を算出、実行。

繰り返すうちに、「心の優しい人」と言われるようになった。

自分が計算して共感してるなんてことを忘れたかったことと、「心の優しい人」に心からなりたいという到底「心の優しい人」が思わないようなことを考え、「自分は心優しい人だ」と思い込もうとした時期があった。

ちゃんと限界が来た。

だって、私は「可愛い自分」が他者に傷つけられないように立ち回る、どこにでもいるただの「ぶりっ子」なのだから。

その根底にあるのは、自分の感情考えに自信がないが故に、それを否定されるのが怖いということ。

だから「善いとされる世間一般論」を騙り続ける。

さも、本心かのように偽って同化し続けて。

それは今も変わらない。

ただ、親元を離れてようやく親からの異化は進み始めたように思う。

まだ、「きっと完全に理解してくれるはず」という願望は消えていない。

でも、「どうやら相容れない思想を持っている可能性がある」と気づき始めた。

同化する対象が今まで絶対的な正義だった「親」から「正論」に変わり始めた。

世の中の「正論」は星の数ほど存在する。

「正論」という言葉の中毒性は高い。

私の中では「正義」の次ぐらいに高いと思っている。

でも「正論」の良いところは「論」とついている点だ。

要するに主張や意見だから如何様にも変えられる。

だから、私はあっちゃこっちゃから拾ってきた「論」をパッチワークよろしく繋げて、「自分的には道理に適った主張」として、自衛のための盾だったり、誰に言うわけでもない大儀名分にする術を覚え始めた。

そうやって自分が演じやすい、ありあわせの虚像を作り出すための、数式を組み上げる。

感情は一匙も要らない。

ただ嫌われたくない。敵意を向けられたくない。

足を引っ張られたくない。害されたくない。

みたいな極めて後ろ向きな動機があれば十分だ。

私の中で一番簡単に見つけられる感情は恐怖。

私の中で一番心の所在を教えてくれるのは痛み。

なんて、書き出してみて悲しくなる。

怯え切った獣かなにかですか、私は。

だとしても生存戦略としては悪くない。

ちゃんと、建前と本音の分離が進んでる。

本音を聞いてもらいやすくするために、建前を構築する。

安パイを切り続けていれば、人生安泰かもしれない。

でもそれじゃ、満足できない私がいる。

建前を切り離すことで、やっと見つけたアグレッシブな私。

フラストレーションを溜め込んだもう一人の私。

痛い目を見る可能性が高いと知って、それでもアクセルを踏む。

それでも、従来の私がブレーキを踏みがちだから、大したスピードは出ないけど。

危険極まりないもう一人の私は、不確定要素の多い事が好き。

物好きだと思う。

でもしかたない。

予想外の出来事で、観測される感情を知りたいと。

まだ見ぬ景色を知りたいと。

のたまう自分は、多分ホンモノ。





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