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櫻坂46「無言の宇宙」を読むー「好きの暴力性」についての考察ー

文:shin

注意事項
※漫画『やがて君になる』、小説『安達としまむら』のネタバレを含みます。
※以下では三次元のアイドルグループによる楽曲で描かれる関係性に注目しますが、アイドル本人の人格と、曲中で演じられる人格(キャラクター)は切り離して考えます。
いわゆる「ナマモノ」を扱う記事ではありません。

「好き」って暴力的な言葉だ
「こういうあなたが好き」って「こうじゃなくなったら好きじゃなくなる」ってことでしょ?
「好き」は束縛する言葉
だから「好き」を持たない君が世界で一番優しく見えた

仲谷鳰『やがて君になる』2巻, 169-171頁

このnoteには2つの目的がある。
1. 欅坂・櫻坂46の楽曲を百合のオタク読者の方に布教する
2. 櫻坂46「無言の宇宙」はなぜ「無言」を美徳としたのか、という問いに答える

目的2を達成するために、櫻坂46「無言の宇宙」を欅坂46「エキセントリック」に応答する「避雷針」の隣に位置付け、好意や関心が持つ暴力性に注目しながら考察する。

「エキセントリック」×「避雷針」+「無言の宇宙」


「エキセントリック」・「避雷針」は欅坂46による楽曲である。この2曲は本来別々のシングル(前者は4thシングル『不協和音』、後者は5th『風に吹かれても』)に収録・発表されたが、リリース当初から、欅坂ファンの間で「避雷針」は「エキセントリック」へのアンサーソングなのではないかと噂されてきた(注1)。
「無言の宇宙」は、櫻坂46に改名した後に発表された。以下ではまず、「エキセントリック」に対して「避雷針」がどのように応答したかを検討し、その後で「避雷針」の別バージョンとして「無言の宇宙」を位置付ける。
なお、「エキセントリック」と「無言の宇宙」は2023年5月現在YouTubeでMV(フルサイズ)を見ることができるので、事前に視聴しておくと以下の記事をより楽しめるかもしれない。

エキセントリック

避雷針(Short Ver.)

無言の宇宙

「エキセントリック」が描くのは「心閉ざして」しまった「僕」である(以下、A)。MVにおける降りた遮断機は、Aの心のメタファーであるといえるだろう。
そして「避雷針」の歌詞は「遮断機」から始まる。「避雷針」を「エキセントリック」へのアンサーソングとして解釈するならば、「避雷針」における「君」は基本的にAを指すと理解できるだろう。なお「避雷針」における「僕」を以下、Bとする。
「避雷針」はAに対するBからの、ある意味ラブソングであるという風に解釈できるのだが、その特徴は、心を閉ざしたAに対しBが選んだ態度が「無関心」である、という点にある。
「無関心は味方だ」という歌詞に表されるBとAとの関係は、『やがて君になる』において「好き」を持たない小糸侑が、七海燈子にとっては優しく見えた、という冒頭で引用した構図と似ている。

(注1)いつ誰が言い始めたかは定かではないが、このツイートはかなり早い時期になされている

A×Bは「百合」なのか?

少し脱線しよう。(欅坂46による他の多くの曲においてもそうであるように)AとBの一人称は「僕」でありながら、とても中性的な存在であり、どのような性別として解釈するか、あるい性別の解釈を放棄するかは、聴き手に任せられている(注2)。そのため、これは百合であるともないとも言えないのだが、上で言及し、そしてこれから述べる通り『やがて君になる』や『安達としまむら』と同様のものを読み取ることができるので、この場(東京大学百合愛好会note)で取り上げてもよいだろうと判断した。何より、これらの楽曲はきっと一部の百合のオタクには刺さるだろうし、できるだけ多くの人にこれらの楽曲を知ってほしい、というのがこの記事を書く動機の1つである。東京大学百合愛好会では定期的に「布教会」(好きな作品のプレゼンをする)を行っており、実はこのnoteの内容は、以前行われた布教会の内容を基にしている。この記事が布教の側面を持つのはそのためである。

(注2)むしろより直接的に同性愛を扱ったMVとして、櫻坂46「偶然の答え」がある

一方、男性同士の同性愛を扱った(と解釈できる)作品として、乃木坂46「新しい世界」がある

公式(メンバーが出演するラジオ)には否定されたが、乃木坂46「ざぶんざざぶん」のMVはどう考えても百合である百合として解釈する余地が依然としてある

 解釈によっては、けやき坂46「僕たちは付き合っている」も百合である

「無言の宇宙」の位置


上のように、「避雷針」は「エキセントリック」との関係において解釈でき、実際一部ファンはそのように解釈してきたのだろうが、それに比べて「無言の宇宙」に関しては、それを「避雷針」・「エキセントリック」との関係に位置付けることによって解釈しようとする試みは、それほどメジャーではなかったようである(少なくとも私はそのようなことをしている人を知らない)。
私が「無言の宇宙」をこれらの楽曲との関係において解釈しようとする動機の1つは、そのMVに踏切(遮断機)が登場することにある。ちなみに、「エキセントリック」において踏切のカットに登場したメンバーは渡辺梨加(敬称略)と渡邊理沙であり、同様に「無言の宇宙」でも踏切のそばにいるのは渡辺梨加である(渡邊理沙はセンターを務める)。遮断機がMVを通して常に閉じているのも示唆的である。
また「無言の宇宙」の歌詞には、「避雷針」の歌詞を思い起こさせるフレーズがある。例えば「僕たちは永遠のその長さを 持て余しはしない」という歌詞は、「使い切れず持て余す時間 過保護な夢を殺すだけだ」を想起させるし、「話さなくていいんだ」は「君っていつも何か言いかけて 結局言葉飲み込むよ」と同様に、Aのことを歌っているように聞こえる。
私の仮説はこうだ。「無言の宇宙」における「無言(言語の否定)」は、「避雷針」における「無関心(関心の否定)」と対応関係にあり、「無言の宇宙」は「エキセントリック」に対するオルタナティブな応答である。
とはいうものの、「無言の宇宙」は「避雷針」ほど直接的にAに語りかけているようには読めない。しかし同様の問題、つまり関心が持つ威圧感・「好きの暴力性」という問題に応答しようとしているように見える(注3)。

 (注3) 「無言の宇宙」と同様の応答をした(と解釈できる)楽曲として乃木坂46「価値あるもの」がある

どうして言語を否定するのか


ここからがこのnoteの本題だ。
「無言の宇宙」の歌詞において繰り返し現れるのは、言語の否定である。MVにおいても、例えば1番のVerse(Aメロ・Bメロ)においては言語(街の看板の文字)が多く映されるが、Chorus(サビ)は真っ白な空間でのダンスが描写されるだけであり、このような仕方でも言語が否定されている。
関心が持つ威圧感という問題への回答として、なぜ言語の否定という態度が導かれるのか。この問いに答えるために、一度「エキセントリック」に立ち返って考えてみたい。
そもそも「エキセントリック」でAが拒否したのは、「違う自分」が他者の中で存在することであった。

本人も知らない僕が出来上がって 違う自分存在するよ
肯定も 否定も 嘘も都合のいいようにされるだけ
すべてがフィクション 妄想だって 大人げないイノセンス

欅坂46「エキセントリック」

これに類似した違和感・不安感は、『安達としまむら』においても描かれる。

昔の自分なんて別人にしか思えない。
目の前の樽見は、そんなわたしを期待していたのだろうか。

入間人間『安達としまむら』3巻、168頁

だけど昔の樽見はああだったし、そのときのわたしもそれについていけた。むしろ今のわたしの方が不自然なのかもしれない。
「・・・・・・わたしってなんだろ」

入間人間『安達としまむら』4巻、82頁

他者によって「違う自分」が作り上げられることに対する忌避感を示し、そしてそれを言語の問題と結び付けた思想家に、ロラン・バルト(Roland Barthes、 1915-1980)がいる。以下では彼の著作『彼自身によるロラン・バルト』(佐藤信夫訳)を引用する。この本は、バルトが三人称の視点から自分自身のことを述べたものであり、文中の「彼」は彼自身のことを指す。

形容詞 L’adjectif
彼にとって、自分自身の≪映像[イメージ]≫はどれもこれも耐えがたく、名づけられることは苦痛である。人間的なかかわりあいを完全なものにするためには、映像を欠落させることこそ肝要だと彼は思っている。すなわち、人間同士のあいだで、互いに≪形容詞≫を廃棄することが大切なのだ。形容詞化されてしまうようなかかわりあいは、映像の領域に属し、支配と死の領域に属する。
(モロッコでは、人々は私について、何の映像ももってはいないように見えた。私が善良な”西欧人”にふさわしく≪このように≫あるいは≪あのように≫振るまうよう努力してみても、何の手ごたえもなかった。≪このように≫あるいは≪あのように≫振るまってみても、それがみごとな形容詞という形で私に送り返されることはなかった。彼らは私に注釈を加えようなどということを思いつきもしなかったし、意識してではないけれども、彼らは、私という想像物を育てたり甘やかすことを、拒絶していたのだ。はなのうち、そういう反響のないつや消しの人間関係には、どことなく人を疲れさせるものがあった。が、徐々にそれは、文明のひとつの資産、あるいは愛し合う語り合いの真に弁証法的な形式と見えてきたのであった。)

『彼自身によるロラン・バルト』、48頁

『ロラン・バルトにとって写真とは何か』(2014)の著者である松本健太郎は、バルトが用いる「映像(image)」という語を「視覚的イメージ」と「心的イメージ」に分けて理解する。この節のそれは「心的イメージ」の方である。心的イメージとは、例えば他者に対する「ステレオタイプ」だ。
私がバルトに注目するのは、彼が心的イメージの問題を言語と関連付けているからである。バルトによれば、言語は反復されるものであり、心的イメージを再生産・固定化する(『ロラン・バルトにとって写真とは何か』、35頁)。

上述のとおり、「エキセントリック」のAは他者の中に「違う自分」が存在することを嫌う。バルトの言葉を借りるなら、それは心的イメージの拒否であり、他者が「私という想像物を育てたり甘やか」したりすることに対する忌避である。
思えば、七海燈子を苦しめたのは「姉」という心的イメージであったし(ただし、姉を演じていない時の自分を侑が好きになることも、例えば2巻では警戒しており、それは他者が持つ心的イメージ一般に対する警戒であるように見える)、しまむらを悩ませたのは「昔のわたし」という心的イメージであった。

ここまでの内容を踏まえると、「無言の宇宙」がなぜ言語を拒否するのかという問いに対する1つの答えが見えてくる。バルトによれば、心的イメージは、反復される言語によって私たちの内面にこびりつく。だとしたら、言語(バルトが「形容詞」と呼ぶもの)を停止することはその有効な解決策になるはずだ。

これで、このnoteの目的は達成されたことになる。「無言の宇宙」が「無言」を美徳としたのは、それによって心的イメージを消し去るためであった。「無言の宇宙」が目指したのはまさに「愛し合う語り合いの真に弁証法的な形式」であったのだ。

まとめ・あとがき


記事中で引用したバルトの節を見たとき、「これだ!!」と思った。自分が特定のイメージの下にまなざされるというのは、息苦しいことである。『やが君』、『あだしま』、「エキセントリック」は、それを描き出すという点において共通している。
好きが暴力性を持つというジレンマを欅坂・櫻坂46が無関心や沈黙によって乗り越えたとしたら、『やがて君になる』や『安達としまむら』はいかにしてそれを乗り越えた(あるいは乗り越えなかった)のだろう。次の記事のテーマはこれかもしれない。

参考文献
入間人間(2014)『安達としまむら3』KADOKAWA
入間人間(2015)『安達としまむら4』KADOKAWA
仲谷鳰(2016)『やがて君になる2』KADOKAWA
松本健太郎(2014)『ロラン・バルトにとって写真とは何か』ナカニシヤ出版
ロラン・バルト(1979)『彼自身によるロラン・バルト』(佐藤信夫訳)みすず書房



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