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歴史に残らない人?——オンキャンパスジョブに参加して【阜】

 4年連続の春の駒場進出である。 

 ある地域(ここでは伏せておく)の歴史に興味をもったものの、進学選択ではあえて本郷の史学系専修ではなく駒場の地域文化研究分科を選んだ。卒業論文は歴史に関するテーマで執筆する予定だが、学問分野を問わずさまざまな授業を受講したい。今年度卒業論文を提出するとなれば春休みは勉強一色の生活でも送らなければならなかったはずだが、そう上手くいくわけがない。生活費を稼ぐために新しい仕事を始めた。

 本学には、学生が大学の事業に従事することで謝金(給与)を受け取れるオンキャンパスジョブという事業がある。学内生であれば、例えば図書館で新しく買う本を選定したり、夏休みに図書の入れ替えをしたりする仕事の案内を目にしたことがあるだろう。職員にのしかかる過度な負担を解消し、学生を経済的に支援することもできる。ある程度の水準以上の生活を保つことが大学での豊かな学びの前提条件であるため、この事業は広義学生の学習支援ともいえる。キャンパス内への入構が制限される状況ではあるが、学びたい学生を支えるこの事業は、今後も継続・拡大していってほしい。

 話を本題に戻そう。この春休みに始めた仕事も、このオンキャンパスジョブの一つだ。本学は、1877年の「東京大学」発足から数えると、来たる2027年に150周年目を迎える。現在、東京大学150年史の編纂事業が行われている。そう、新しい仕事とは、この150年史編纂事業のことである。と言っても、大学史の専門知識もない一介の学部生が歴史の叙述を任されるはずがない。任されたのは、150年史編纂のための基礎作業、ずばり「東京大学新聞」の記事目録作成である。今年で創刊から101年を迎える本紙は、東大の歴史を書く上で重要な史料なのだろう。

 担当範囲の連絡を受けるや、iPadとノートパソコンを駆使してひたすらExcelファイルへの入力を続けていく。主見出しはもちろん、執筆者名や写真・イラストの有無を一つ一つ確認して、目録を作成していく。1回に言い渡される担当範囲は長くても1年分のため、この作業を通じて東大の歴史を体系的に把握することは難しい。しかし例えば、入学試験の得点開示が来年度から始まる、といった見出しを目にするとき、目の前に見えている「東大」が、現在自分が通っているそれとは確かに違うということを実感できる。見ようと思えば誰でも見られる紙面だが、目にする者に歴史を感じさせるのには十分な記事ばかりである。

 歴史といえば、以前読んだ本にこうあった。

 事実というのは、歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかを決めるのは歴史家なのです。[中略]シーザーがルビコンという小さな河を渡ったのが歴史上の事実であるというのは、歴史家が勝手に決定したことであって、これに反して、その以前にも以後にも何百万という人間がルビコンを渡ったのは一向に誰の関心も惹かないのです。(E・H・カー『歴史とは何か』(清水幾太郎訳) 岩波書店)

 色々な歴史家の名前が出てきて煩雑なこの本の評価は書評欄に任せることにして、ここでは「歴史上の事実」が「歴史家」によって作られるものであるという説明に注目したい。

 2021年4月現在本学に在籍している自分は、確かに「東大150年史」が対象とする範囲内にいるはずである。しかしカーによれば、(たとえ歴史を編む側にいたとしても)編纂者の目にとまる業績でもない限りは「150年史」には残らないということか。卒業論文のために先行研究を読んでいると、そこに書かれている「歴史」があたかも元から存在していたかのように思えてしまう。しかしそれは、先の歴史研究者が何かをきっかけに注目し、史料を紐解いたことで初めて生まれた「歴史」だったのだ。待てよ。そうすると、自分が書こうとしている卒業論文も、当然史料を読み解いて先行研究が注目してこなかった事象を発見し検討しなければならない。いくら自分一人の卒業のためとはいえ責任重大である。

 4万円近い報酬を手に入れ、「歴史」を一歩離れたところから眺めて卒業論文の重大さにも気付かされた。なるほど。オンキャンパスジョブは、お金ももらえて勉強までさせてくれるのか。

 それにしても、自分が「歴史」に残らないのは少し寂しい気もする。「だったら卒論で結果を出せばいいじゃないか」と自分に言えないのが、不勉強な学生の悩みである。

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