応援って、難しいね
私の応援しているCrazy Raccoon VALORANT部門が旅路を終えてから、約5か月が経った。
未だに傷は完全には癒えず、かさぶたの下で傷がじくじくと痛む時はあれど来年度の彼らも全力で応援しようと思うくらいの心の余裕は生まれてきた。そこで敗戦直後の悲痛な胸の裡を綴ったnoteを読み返した。そして改めてしみじみと思ったことがあった。応援は、難しい。
生身の人間を応援する難しさを、ここ2年間でまざまざと味わった。まず、ファンという在り方に悩んだ。ファンと言えば聞こえはいいけれど、ファンは結局は勝手に好きになって勝手に応援して勝手に離れていく、そんな勝手気ままな存在だ。しかもできることは応援だけ。深い悲しみに沈む彼らの背を擦ることも、彼らの心にたまった澱を受け止める捌け口になることすらできない。ちっぽけで無力な応援しかできない存在、それがファンだ。
それなのに応援しかできないファンという存在を、彼らは泣きたくなるほど大切にしてくれる。勝手に応援している存在に「応援ありがとうございます」なんて言う必要はないのに、試合やイベントがあるたびにこちらに感謝の言葉を述べてくれる。応援が力になると、応援があるから頑張れるとたびたび言葉にしてくれる。応援しているはずの私が、その言葉に何度救われ勇気づけられてきたかわからない。応援しているはずが、逆に励まされている。
だから私は、彼らの望む、彼らが誇れるファンでありたいと思った。そう思って応援を続けてきた。けれど時折、酷く怖くなる。私はいつまで彼らを応援し続けられるのだろうか、と。
一つは選手生命の短い彼らはいつ表舞台から去ってもおかしくないという恐怖、もう一つはもともと飽き性の私が年単位で応援を続けているのは稀有なことだからこんなにも心血を注ぎ、数えきれないほどの素敵なものをくれた彼らのことをある日突然興味をなくしてしまうのではないかという恐怖。その恐怖が今も私をじわじわと蝕んでいる。
その人やチームを好きでい続けられる保証なんてない。なのに「ずっと応援しています」「いつだって全力で応援しています」と本心とはいえ軽薄な言葉を吐く自分自身が、酷く醜悪に思えて吐き気がする。前提として私が好きだから、望んでいるから応援している。しかし応援しか、それだけしかできないから、言葉で自分を縛って呪って彼らの望む存在であれるよう、少しでも彼らの役に立てるように誇れるファンであろうとしているのも事実だ。その在り方が普通とは異なることも、理解している。
次に応援の方法にも悩んだ。よくこんなお悩みが寄せられる。イラストが描けず目立った形で応援できないことが苦しくこんな自分がファンと名乗っていいのか、と。イラストという形で応援できない苦しみは痛いほどにわかる。今でこそ自分の気持ちに少しは折り合いがつけられるようになったが、ファンアートタグがあって、イラストは選手に喜んでもらえて。だからどうしてもそれ以外の応援の形がないがしろにされているように感じて劣等感を抱いたこともある。私はイラストが描けない。だから、文章を書くという方法で応援をしている。けれども私だってイラストが描けたら、イラストを描く努力を楽しめたら、間違いなくイラストを描くという形で応援していた。
でもそれ以外の応援の形が劣っているなんて今の私は決して思わない。これは持論だが、応援している人の幸せをそっと祈ることも、応援の気持ちを言葉やイラストといった形にするのも、金銭的に支援するのも、全部全部そこには「好き」の気持ちがある。どれが正解なんてなくて、応援するという行為自体が素敵だし、誰かを応援できる自分を誇りに思って欲しいと思う。
貴方が贈ったコメントも、リプライも、祈りもきっと選手の糧になっている。イラストのようにリツイートされることも、リプライが届くこともない。けれども、貴方が紡いだ言葉や祈りは決して無駄ではない。「好き」という気持ちから生まれたものは、等しく尊い。
そんなこんなで時に彼らのプレイに熱狂し心から楽しみ、時に正解のない応援という形に悩みもがき苦しみながら、私は今日も彼らを応援する。応援って、とびきり楽しくてとびきり苦しいね。