チェーホフ論を斬る(第1回)下村正夫『ワーニャ伯父さん』をめぐって

今回扱うのは、劇団東演で演出をしていた下村正夫が書いた「チェーホフの『ワーニャ伯父さん』をめぐって」という文章です。

さて、下村はこの小論で、「異次元の対立」という木下順二のドラマの思想によって、「人間と超人間との対立」という視点からワーニャ伯父さんを読み解こうとしています。

この思想はどのようなものか、簡単に説明すると、
ドラマに必要なのは登場人物AとBの二人のあいだの葛藤や緊張関係ではなく、劇作者と超人間的な何か(広い意味での社会かな?)の対立を描くことだ
というものです。

そこで下村はチェーホフが全生涯を賭けて、闘った「人間以上の対立物」は何だったのかという問いかけます。
(もう作品を解釈するのに作家を持ち出してくる時点で怪しいのですが)
そして、下村が出した結果は、チェーホフが戦っていた相手は「ツァーリ・ロシアの80年代、この「暗い谷間」といわれる時代が象徴する転形期の市民社会」だというものです。

正直、意味が分からないのですが、下村は大真面目にそんなに重い十字架をワーニャ伯父さんの背中に括り付けてしまいます。こうして時代を代表する被害者としての英雄であるインテリゲンチャ・ワーニャ伯父さんが爆誕します。

さらに下村はこの時代の問題を〈人間疎外〉というキーワードに落とし込んでいきます。

チェーホフ戯曲の〈ドラマ〉の根源は、登場人物=インテリゲンチャの心の内部の〈疎外感〉と、それから脱出することへの渇望――つまり〈人間性〉の回復への熱望とのあいだに生じる普段の〈緊張〉・〈対立〉のうちに潜んでいることがよくわかる。

なんかうまいこと言ってるような感じですが、よくよく考えてみると単に承認欲求が満たされるか、満たされないかをカッコつけて言っているだけです。

そして、この視点でワーニャを解釈していくと、ワーニャのエレーナへのアプローチは、

「エレーナへの愛情の告白は、ワーニャの心にすでに内在していた、あの〈緊張〉・〈対立〉・〈矛盾〉が露呈し、外在化し、必然的な〈行動〉に出るまでに昂まった結果なのである」

ということになってしまいます。これはチェーホフが書いたドラマでもなんでもなく、読み手が勝手にドラマチックにしているだけです。

つづいて下村は、ワーニャは、じぶんの〈疎外〉の回復をエレーナに求めたのだ、エレーナ自身も教授との夫婦関係において〈疎外〉された人物であるから、ワーニャも彼女に自分を投影したのだと考えます。

しかし、ワーニャとエレーナのやり取りのどこをどう読んだらそうなるのかわかりません。

一方で下村は彼の〈疎外〉を発生させる根源として老教授セレブリャコーフを当てはめていきますが、セレブリャコーフについても、「この大学教授もまた、市民社会における、知的労働と肉体労働との分離が生み出した〈疎外〉されたる者のひとりに属する」と同情を寄せたりします。

いやいや、作品の中でいちばんに同情されるべきのソーニャはどこに行ってしまったのでしょうか。驚くべきことに彼の論考にはソーニャは全く言及されていないのです。

下村が読んでいるのは本当にワーニャ伯父さんなんでしょうか?

ワーニャのピストルは、正しく的に志向されているとはいえない。弾は、必然的に外れる。なぜならば、対立は「人間と人間以上のものとの根源的な対立」にあったから。したがって、真の〈クライマックス〉は、終幕で、ワーニャが、アーストロフからいったん奪ったモルヒネのビンをこの友人との口論の末、ソーニャの願いによって返すところにあるように、わたくしはおもう。〈急転〉は、むしろ、この〈クライマックス〉と結びつき、かれが自殺をおもいとどまるところにある。
 そして、この〈急転〉は、かれが、すでに死ぬことすらも許されないこの過酷な80年代の〈現実〉を〈発見〉することによって生じるのだ。

最終的に、下村はこのような結論を導き出すのですが、ある意味ですごい想像力だと思います。

ワーニャ伯父さんを読むため、演出するための補助線として木下順二の考えを引用するならば、こんなことにはならなかったのでしょうが、下村の中で先に自分が思う結論を設定してから、ワーニャ伯父さんからそれに当てはまりそうな部分(いや当てはまってもないんだけど)を無理やり引き伸ばして、何かそれらしいことを取ってつけたので、こんな訳の分からない結論が導き出されてしまったように思えます。

参考文献:下村正夫『下村正夫演劇論集・転形期のドラマトゥルギー』未来社、1977年

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