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舞台を旅する私の居場所

わたしってどこへ行ってもなんか居場所ないんだよなぁ。
って小さな頃からずっと感じていた小さな孤独感。
ドラマとか見せてもらえない家庭環境だったからいまいち友人との会話にもついていけない。
付随して芸能人の名前もあまり知らないから話が続かない。
流行りの曲もファッションもよく知らない、とかね。
とにかくどこへ行っても、どこか座りが悪く安心してワクワクできる場所がどこにもないと感じていた。

そんなふうに感じていたから、「居場所」という本に出会った時はすぐさまレジへ直行しその日のうちに読み切ってしまった。
その本には、人が集まるとそこには必ず『土俵』ができて、些細なルールやどちらが上か下かの勝負になってしまうと。だから『土俵』ができたらそこには上がらないという選択肢もあるよ、と。
土俵に上がらずに新しい居場所を作っていけばいい、と書いてあった。

この『土俵』という言葉、私にはとてもしっくりときてなるほどぉー、とこれまでの居心地の悪さに納得できた気がした。

『土俵』という言葉を使うとすれば、わたしはどんな土俵にも立ちたくなくて、誰とも上下なんて競いたくなくて。
どちらかといえばいろんな土俵に立ち寄ってみては、みんながしている楽しそうなことを横目にみながらも、そのどこでもない場所でただただ自分が楽しいと思えることを楽しみたいだけなんだと改めて気がついた。

人生とは自分が主人公の物語だ、とはよく聞く言葉だけれど、土俵に上がらない私はつまりはみんなの人生の物語を覗くのがとても好きだと気がついた。そしてそれはちょっと落語に似ているのかもしれない。
寄席の良さは一本の長い物語ではなく儚くも短いわずか15分の舞台だと言うこと。
たくさんの芸人が15分に込めて演じ切る技を、時にうたた寝しながら時に涙しながら見ることの幸せといったらない。

寄席の空気はテレビのそれとは全く異なりどんなにくだらないことでも許せる空気があって、その優しさが好きだ。例えば15分間を永遠に軍歌を歌うおじいちゃんがいたりする。軍歌も10分を超えてくると不思議と笑いになり、そして15分経つと潔く舞台から降りていく。
お囃子が鳴ったその瞬間に、大きな拍手を送りながら寄席は観客の一人一人も含めて出来上がる舞台なのだと思う。

そしてふと。私の居場所はこの寄席の客席なのだと思いついた。皆それぞれの場所で花を咲かせている人生をちょっと覗かせてもらう。客席はそんな醍醐味のある居場所だ。
人生の長いあいだ、自分の居場所ってなんだろう?という疑問を抱えて生きてきた私にとってその答えは至極心地よかった。

試しにこれまで出会ってきた心地がいいなぁと感じる人たちの顔を思い浮かべてみると、みんな『土俵』なんてものを持たずに舞台に立っているような人たちだと気づく。
ずっと自分が勝負する土俵(居場所)を探していたように思う。けれど実は土俵を降りた誰かの人生の舞台の観客席で私の居場所は出来上がっているのかもしれない。
いや、ちょっと欲を出していえば。
誰かの人生の舞台のほんのひとときでも私が登場人物として出演することが叶うなら。
それが客席で座って拍手をしている私だとしても、
それは素敵な居場所じゃないか!と思う。
そんなふうに人生はお互いの舞台の登場人物になったり招いたりしながら呼吸しているものだと思う。
広大な宇宙の長い時間の中で、今この同じ時代を生きている奇跡的な命が無数にある中で、交わる命はどれくらいあるのかと想像すれば。
出会った誰かの人生のほんの一コマでも登場できたのなら。なんだかそこに居場所はあるのだと思えて嬉しくなった。

2年前に他界したとても大好きな友が送ってくれた言葉がある。
「動けないと何もできない人って思われるけど、いろいろ感じてるじゃない。いろいろ感じてるってことは、何かを受け取り続けてるんだから、何もやってないわけじゃないのよ。けっこう忙しいのよ(笑)そんな命に乾杯だよ(笑)」
そして暖かくなったら芝生でゴロゴロしながらおしゃべりしよーねと話していた。その願いは叶わなかったけれど今でも彼女と言葉を交わした人生の一コマを時々に振り返り、勇気をもらっている。
彼女の生き抜いた人生のほんの瞬間に、私は時間を共にしたんだという喜びと共に。

だから、やっぱり今日もわたしは。「土俵」なんて微塵も感じさせない友達にまたメッセージを送ってみたりする。
心地よい友たちがそれぞれに生きている舞台を旅して回る観客として。
ほんの少しでもその人の人生の一部になれたらいいななんて淡い願いを抱えながら。


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