見出し画像

テナガザルから、コタキナバルのテングザルへの手紙 〜その1

メンバーのひとりがたわむれに書いた、かわいらしい創作です(東大の講義で提出したレポートをもとにしているそうです)。
どうぶつの森をもってしてもおうち時間のヒマをぬりつぶすに至らなかったみなさんに、おすすめです。シリーズで続きます。

ヘッダー画像 ©︎2020 Yuri Shu
(Instagram) https://www.instagram.com/shumame_/

 今年もツバメがやってきて、きみの手紙を届けてくれた。
 太陽が池の向こう側に沈んであたりを朱く染め上げ、いよいよ寝るという段になったとき、冬のあいだは冷えきっていた樹上の寝床が、昼のうちに蓄えた日光のあたたかみを少し留めていて、まるで便座のような意外な温もりを感じさせてくれるようになると、はやツバメの到着が待ち遠しくって、彼らの不眠不休の海上飛行を思い、南には足を向けて寝られないなどと無用な心配をしながら浅い眠りに入ってゆく。

 朝には穏やかな日差しがケージの隙間から差し込んで僕をやさしく揺り起こすと、はやくも老飼育員がくれるバナナとりんごの時間。仲間たちと木の上に並んで、彼が下から放り投げてくれる果物をタイミングよく捕る。自分はバナナをもらえるように列に入る順番をうまく工夫して(というのも老飼育員は決まってバナナとリンゴを交互に投げるから)、きみに書く手紙のための干し皮のストックを切らさないように気をつけている。

 バナナの食べ方には注意が必要だ。仲間たちのように気ままに剥いてむさぼるわけにはいかない。まずは一本縦に切れ目を入れて、そこから左右に、樹皮みたいに剥がしていく。実を取り出すと、袋状の皮だけになる。それをケージでいちばん日当たりの良い箇所に広げておいて(そこは自分の寝床でもある)、もし晴天続きならば3日もすれば干し皮ができるという具合だ。きみのところのマングローブの皮みたいにはいかないけれどそれなりに丈夫なものができるし、冬のあいだも気を抜かなければ、きみへの手紙にはじゅうぶんなくらい溜め込むこともできる。きみに話したいこともたくさん溜まっているんだ。この1年もいろいろな事があったからね。

 ***

 ある冬の朝、ケージで一番物知りなマクジャクの話を聞いていた。彼はヒトの家にすんでいたことがあるとかで、いろいろなことを教えてくれるから、毎日のように木のいちばん低いところの枝に座って(そこはヒーターが近いから暖かい)、長広舌に耳を傾ける。(といっても落ち着いて話ができるのは冬のあいだだけ。春になるとあのクジャクはド派手な衣装に身を包み、ただ女の子を追いかけるだけの困ったやつになってしまうのだ。その追いかけ方は凄まじくって、激しいアタックで女の子を怪我させてしまうときさえある。愛する相手に近づきたいがあまり傷つけてしまうなんて、どれほど向こうみずなのだろう?)

 それはさておき、あるときクジャクは便座というものの話をしてくれた。ヒトが持っている腰かけのひとつで、とてもあたたかいものらしい。でも彼によれば便座が優れているのは、あたたかいってだけじゃなくて、それが「意外にも」あたたかいってことだ。ヒトも頭の回らないもので、その腰かけに座るときいつも冷たい思いをするんじゃないかと内心おそれている、つまりは自分の便座があたたかいってことを忘れてしまうのだが、座った瞬間に、その「意外な」あたたかさに包まれて、「予想通り」あたたかいよりも幸せな顔をするんだそうだ。なんて愛らしい動物なのだろう。

 でもその数ヶ月後、春が近づいてきたある夜に思ったのだけれど、「意外な」あたたかさというものを、自分も知っていたんだ。わたしの寝床はいちばん日当たりの良い箇所に拵えてあって、春になると昼間の日光を浴びた熱をすべては逃してしまわずに、夜までほんのりあたたかい。冬のあいだは我慢して入り込んでいた寝床が「意外な」あたたかさを持っていたときの幸せったらありゃしないって、クジャクの話を聞いた後だからなおのことそう思ったのかもしれない。きみのすんでいるところはずっと暑いそうだから、「意外な」あたたかさを感じることってあまりないのだろうか。ずっと暑いって、どんな感じだろうか。わたしはこのケージにしかすんだ事がないからわからない。うだるような気候が続くと想像しただけでうんざりしてしまうのだが、きみはそんなところにいて平気でいられるのかしら。

***

 きみがくれた手紙で印象に残っているのは、暑さのこと、マングローブのこと、川のこと、ワニのこと、それから家族のこと。とにかく毎日いろいろな出来事が起こっているようで、羨ましく思う。わたしはまだ川というものを見たことがない。ここにある水といえば、老飼育員が1日に2度取り替えてくれる桶だけだ。その水は動かないし、あまり美しいとも思わない。そこに入ろうだなんて、考えたこともなかった。

 樹上から水のなかに飛び込む遊びのことをきみの手紙で知って、自分でもやってみようと思わないではない。でも、まず、あの桶にうまく入れるのかがどうしても不安なんだ。あやまって床に体を打ちつけたらたまったもんじゃない。それに家族も見ている。万が一桶の中にうまく飛び込めたとしても、そのあとどうやって這い出るのか、もし一生水桶のなかにいることになんてなったら笑い者だろう?

 近ごろはいちばん最初に生まれた子どもが体も大きくなってきて、それを見ていると、得も言われぬ脅威のようなものを感じることがある。1日のうちに何度か、ふと目があってはお互いに避けるようなことがあって、向こうが何か企んでいるのだろうかと勘繰ってしまう。もしわたしが桶から出られないなんてことが起こったら、別にあいつに大事なものを奪われてしまうというわけでもないのだけれど、想像しただけで気が気じゃなくなってくるんだ。どうすべきかしら。きみはこういう気持ちになったことがあるだろうか?

 手紙を読む限りきみはわたしなんかよりもっともっと俊敏で力強くて生気に溢れていそうで、水に飛び込んではワニに食われないようにあっという間にまた樹上まで駆け上がるそうだけれど、そんな強靭なきみならこんなことで少し落ち込む日があったり、何も手につかずただ外を眺めている日があったりなんてしないのだろうか?クジャクが言うには「そろそろ子離れの準備だね」ということらしいのだけれど、わたしにはまだその意味がよくわからない。

続きはこちら。

当団体は、学生メンバーの自費と会報の売上によって運営されています。更に活動の幅を広げるには、みなさまからの応援が不可欠です。 あなたの思いを、未来の人文学のために。 ワンクリック善行、やってます。