見出し画像

テナガザルから、コタキナバルのテングザルへの手紙 〜その2


メンバーのたわむれ創作、連載第2回をお送りします。
「その1」は次のリンクから。

 きみの家族構成についてはもう何度か議論している。前にも書いたけど、わたしはひとりのパートナーと子どもたちと暮らしている。わたしたちはふたりでなわばりの管理をし、ふたりで子育てをする。だけど子育てに関わらないきみは、たくさんの妻と子どもと家族をつくる。さらにその家族が複数集まってさらに大きな群れになることもある。当然パートナーのいないオスもいて、それがまた独身の群れを作る…。いちばんの違いは、家族ではないものと生活を共にすることだろうか。これが自分にはなかなか想像できない。テナガザルは家族だけで暮らして、それ以外の集団には属さない。でもテングザルは家族ではないたくさんの仲間と暮らしている。パートナーが他の群れのメスと簡単に入れ替わったりするのだから、そもそも家族のつながりが弱いのだろうか。なぜこんな違いが生まれるのかはっきりとはわからないが、ひとつだけ言えるのは、自分はここで天敵に襲われることも、食べ物に困ることもないし、なわばりから動くこともない。でもきみたちは日夜森のなかで暮らしていて、安全とか栄養とかの必要にかられて移動しつづけている。そのときには家族以外の仲間とも協働したほうが都合が良いのだろうし、オスメスで役割に差をつけることも道理にかなうと思うのだけれど、どうだろう。
 そちらの生活を思い描くことが日課だ。ずっと暑い森のなかに、どんな日常や退屈があるのかしら?みなで樹から水に飛び込む遊びをしていれば、時間などはきみのいうところの「心地よい疲労感のもたらす幸福」や「森が求めてくる持続的な注意力」のうちに溶け出してゆくものなのか?
 近ごろははやくも夏の兆しが感じられる。老飼育員が顔から水をたくさん垂らしているが、これには飛び込むことはできない。この季節は、バナナの皮が乾く前に臭ってしまうので干し皮づくりはいったんやめて、りんごを食べることが増える。毎日りんごでも良いくらいなのに、なぜか老飼育員はときどきゆで卵を持ってくる。これが自分には大の苦手で、というかこれを好んで食べるサルなんていないのだけれど、クジャクが言うにはゆで卵のときは「ダイエット」というおせっかいなのだそうだ。老飼育員のことは信頼しているが、「ダイエット」だけはなかなか受け入れられない。

***

 自分もたしかに「心地よい疲労感のもたらす幸福」を知っている。樹に片手でぶら下がって、勢いをつけて枝から枝に飛びうつる。そうしてパートナーや子どもと遊んでいるあいだ、過ぎ去る時間を平然とした顔で見送っていられるのは、確かに幸福なことだと思う。だけど夏のうだるような暑さのなかで時間が重くわたしの肩にのしかかってきて、それを水で洗い流すこともできないのだから、本腰入れて考え事をするしかないような日がある。考え事といっても、ケージから外を眺めてヒトたちがやってきては去っていくのを見ているだけなのだけれど。こうして暑くなると突然ヒトの数が増えてくるのは、彼らも本当はきみのようにずっと暑いところに住みたいってことなのだろうか。
 よく目にするのは家族で生きているヒトで、大人のつがいとまだ小さな子どもでひと群れをなす。自分たちと同じようにふたりで子どもの世話をしている。しかし不思議なことに、ヒトの場合家族でいちばん上の立場にいるのは子どもなんだ。先頭を切って道を歩いていって、興味を惹かれたケージの前に好きなだけとどまるのに、大人はただつき従っていることが多い。もしも大人が命令に背こうものなら、子どもは喚き叫んで彼らをおおいに怯ませ、結局は自分の思い通りにさせるという術を身につけているのだ。
 もうひとつこちらと違うのは、彼らの話し方だってことに気づいた。だいたいの大人たちはあまり抑揚のない言葉でやり取りしている。子どもたちにも同じように話しかけるが、帰ってくるのは歌だったりする。僕らはふつう歌をうたって会話するから、ヒトの子どもにより近いのかもしれない。なぜ成長したヒトがあのように抑揚をつけずに話すのかわからない。それで感情を伝えられるだろうか?
 とはいえ、わたし自身きみと文通するうちに、抑揚のない書き言葉にもやっと慣れてきたのだ。書き言葉の方が何かをつぶさに伝えるにはもってこいだと思うから、ヒトは感情よりも正確さに拘っているということかもしれない。あんがい神経質な生き物なのだ。

***

 パートナーに何かを語りかけたいときは、感情が自然と歌になって出てくる。向こうも歌を返してくれて、通じ合っていることがわかる。わたしたちが歌い始めると、向かいのケージにいる不眠症のゴリラが嫌がって泥団子を投げつけてくることがある。不眠症っていうのは、夜うまく眠れないかわりに、昼間も半分眠ったような状態になるらしい。ヒトのほとんどがそうなんだって、クジャクの言葉だ。彼は相変わらず色鮮やかな衣装で走り回っている。冬がきて彼がまともに戻ったら、またたくさん話をきくつもりだ。ヒトについての質問がたくさん溜まっているから。
 面白いものを見た。二、三十人ものヒトの子どもたちが整列してケージの前まで歩いてきたんだ。それをふたりの大人が率いていて、なんとも奇妙な図だった。右の列はオス、左の列はメスで、両者の外見は装いではっきりと区別されていた。そうして大人の進めと止まれの合図にしたがっている。どうやらヒトは大勢の子どもをひとくくりに育てていて、効率を上げるために雌雄の区別を明確にしているらしい。両親に対しては無類の権力を発揮する子どもたちも、こうひとまとめにされてしまうと簡単に支配されてしまうようだ。大人たちの、自分たちの秩序を守るためのある種の戦略なのだろう。
 また違う日には、もう子供とはいえない若いオスが数頭連れ立って、僕のいるケージの前にきた。なんだか不思議な奴らだった。自分たちにだけ聞き取れそうな声でボソボソ喋ったかと思えば、周りに見せ付けるみたいに大声で笑い出したり、同じくらいの背格好に似たような暗い毛色をして、わざとくたびれたような歩き方でいる。自分たちだけの世界を作っていながら、常に誰かに見ていてもらいたいって感じだ。なら自分が見ていてやろうと思ってしばらく眺めていたが、こちらにはあまり興味を示さずゴリラの方に行ってしまった。笑い声がうるさかったから、泥団子のひとつやふたつ投げつけられたかもしれない。きみの国のことを考えれば、このヒトたちはパートナーのいないオスの集団なのだろうか?テングザルのようにヒトにも家族を超えた集団があるのは、何かの欲求にかられてそうなっているのだろう。同じようなオスだけで集まっているが、互いへの競争心も垣間みえて、それほど穏やかではないのかもしれない。想像するに、彼らは同質性の枠をつかった遊びをしているのだろう。群れからひとりで飛び出ることは禁止されているが、反対に残ったひとりになると負けっていうルールに違いない。わたしたちの縄張りから外に出てみる遊びに似て、なかなか知的な駆け引きが繰り広げられているのかもしれない。

続きはこちらから↓


当団体は、学生メンバーの自費と会報の売上によって運営されています。更に活動の幅を広げるには、みなさまからの応援が不可欠です。 あなたの思いを、未来の人文学のために。 ワンクリック善行、やってます。