短編 骨まで美味しくお召し上がりいただけます
金魚の骨を見たことがある。しかも、それは自宅の水槽の底に沈んでいたのだった。
当時わたしはおかっぱ頭の小学生で、金魚を四匹、飼っていた。縁日ですくってきた子たちだったので、揃いも揃って小ぶりで、一様に目の覚めるような朱色の身体を持っていた。それでもわたしはどうしても見分けをつけたかった。それで、わずかな体格差を頼りに小さい方からハル、ナツ、アキ、フユと名付けた。一旦名付けてしまうと、自分が昨日よりひとまわり誠実な人間になったような気がして安心したのを覚えている。わたしは、そういう可愛がり方をしていた。
ある日学校から帰ると、金魚は三匹になっていた。一匹足りない。おどろいたわたしは玄関にランドセルを投げ捨て、ハル、ナツ、アキ、フユのうち、いったいだれがいなくなったのかを確かめようとした。けれどいつも相対的に個体を見分けていたので、一匹いなくなるだけで、だれがだれだかまるでわからない。今ここにいるにはハル、ナツ、アキなのか、ハル、アキ、フユなのか。いやナツ、アキ、フユなのだろうか。わたしの呼吸は浅くなっていた。水槽に鼻をくっつけて、それはもう熱心に、残っている三匹を目で追った。夏休みが終わり二学期が始まってすぐの、べたべたした残暑の季節だった。開けっ放しの玄関から、背中にまっすぐ西日が当たっていた。冷や汗で前髪がべったりとひたいに張り付き、とても不快だった。
ふと、水槽の底の白い玉砂利の中に、白くてうすいかけらがいくつも紛れているのを見てしまった。わたしは手足がつめたくなるくらいゾッとした。金魚たちが勢いよく水を掻いて旋回するたびに、骨のかけらは雪のように舞った。なぜだか目を背けてはいけないような気がして、わたしはそこを動くことができなくなってしまった。部屋の空気はどんどんオレンジ色に染まり、わたしの影はますます濃く、水面に落ちた。遠くの方でアブラゼミが鳴いていた。わたしは悲しくて、悲しくてたまらなかった。悲しみで、全身の骨が軋んでいるような心地がした。
それなのに、どうしても一歩もそこを動くことができなかった。
「ゆうこらしいよ」
ここまで話を聞いた彼は、満足そうに頷いた。わたしの恋人は、毎週末にかならずわたしの部屋に泊りにくる。だから土曜の九時には毎週こうして、電気もつけず、服も着ないで、並んでベッドに寝そべるのが当たり前になっている。今日も彼の予定通りというわけだ。わたしたちは毎週、ぐちゃぐちゃに乱れたシーツの上にだらしなく横になって、過去のことも未来のことも、ほんとうのこともそうでもないことも、口から溢れ出るままに語り合う。歌のような調べが部屋を満たす。カーテンの隙間から差し込む車のヘッドライトが、時折さあっとふたりの肌を撫でる。ふたりの視界はたちまち幸福な肌色で満ち、彼の薄い色の瞳がぱっと見開かれる。わたしたちは微笑み合い、また話し始める。わたしはいま、そういう可愛がられ方をしている。
「要するに死骸だろ、それを見つめられるなんて、なんていうか、勇ましいよ。小さい頃からそうなんだな」
彼がわたしの背中を撫でる。汗が引いてぺたぺたしている肌の上から、背骨をやさしくなぞるようにして。わたしはこの仕草が好きだから、いつまでも服を着ることができない。
「怖かったけど、骨そのものはきれいだったの。カタヌキみたいに薄くて」
「カタヌキ? 縁日の、へんな味がするあれだろ? 懐かしいなあ。俺あれ得意だったんだぞ」
彼はぐるりと寝返りを打ち、文明の利器、とご丁寧に笑って見せてから(こういう言動がいちいちおっさんくさい)、スマートフォンでカタヌキについて調べ始めた。彼はひとくちに言うと、とても知的好奇心が旺盛な人だ。わからないことがあれば誰にでも気軽に質問するし、その場ですぐに納得するまで調べ上げる。納得したら、調べたことはからりと忘れてしまう。計画通りに動く人で、規則正しくわたしの部屋を訪れては、規則正しく帰ってゆく。食事は腹八分目で、平日の睡眠時間はきっかり5時間。そのくせ、こうやってわたしといるときは、話し疲れるところりと眠ってしまう。さっきまでカタヌキについての思い出を熱心に語っていると思ったら、もうぐうぐう寝息を立てている。手にはスマートフォンを持ったまま、いかにも高価そうな腕時計をつけたまま、脱いだワイシャツをフローリングに投げ出したまま。やんちゃで感じのいい少年を、縦に引き伸ばしたような人なのだ。やんちゃで感じのいい中年男性は、人にも運にもお金にも好かれている。もちろん女の人にも。
真っ白な朝の光。ほんの少し肌寒い。窓をうすく開けたまま眠ってしまったらしい。部屋の中を見渡すと、日曜の朝七時だというのに、すでに彼の姿はなかった。それもいつものことである。わたしは上体だけ起こして、明るいフローリングの床を見た。そこには彼が昨日着ていた白いワイシャツがとり残されている。だけど、これもいつものこと、彼にとって予定通りのことなのだ。
わたしはシャツを拾うために、ゆっくりとベッドから降りる。慎重にフローリングを踏みしめて、自分の身体がここにあると確かめるように背筋を伸ばす。初めて会う人はたいてい、わたしの動作がひどく遅いことに気づいて怪訝な顔をする。丁寧な所作だ、と口に出して感心されることさえある。他人に観察されるのは慣れっこだけれどくすぐったいので、わたしは先回りして病気について明かすことにしている。
病名を知ったのはまだ物心着く前のことだった。母が、先天性骨形成不全症、という長い文字列を、幼いわたしにひたすら覚えさせようとしていたことをよく覚えている。外で何か——みんなにとっては「転んだだけ」、わたしにとっては大事故——があったときに、きちんと説明できるように。せんてんせいこつけいせいふぜんしょう。それはまだ幼稚園児だったわたしにとってそれは、外国のお菓子の名前のように、遠い遠い響きを持って響いた。
初めて彼が泊まっていった日、わたしはてっきり彼がシャツを忘れていったのだと思った。翌週きれいにアイロンをかけて渡したら、彼は「わざとだよ」と笑った。
「すぐ帰っちゃったからさ、置き手紙みたいな。俺の匂いがして、さみしくないでしょ」
少し面喰らったものの、そこまではまだわかった。けれど、彼はそのシャツを受け取らなかったのだ。それどころか、その日着ていたものも脱ぎ捨て帰ったので、うちにあるシャツは二枚になった。泊まりに来るたび、彼はわたしよりもずっと早く起きて、着ていたシャツを置いて勝手に去っていく。そういうわけであっという間に溜まってしまって、今日のでもう十五枚目になる。白紙の置き手紙たちが、一人暮らしのクローゼットをどんどん圧迫してゆく。でもわたしはそれをどうすることもできない。わたしはこういう、ちょっと変わった可愛がられ方をしている。
とても奇妙な夢を見た。わたしはとある海岸で——仄暗くて音のない海岸で目を開ける。本能的に身体を動かそうとするも、膝を折った格好のまま動くことができない。夜明け前独特のきめの荒い暗闇が、視界をぼんやりと覆っている。だんだん目が慣れてくると、自分が透明な硝子のようなものでできた箱の中で眠っていたのだと気づく。いやどちらかと、本来眠り続けていなければならないのに、何かの手違いて目が覚めてしまったような決まりの悪さがあった。箱は完全な立方体で、蓋などは見当たらない。硝子は分厚くて押してもビクともせず、とても外に出られそうもなかったけれど、なぜか呼吸は楽だった。そして何より、そう怖いものでもなかった。
あたりを見渡すと、わたしが入っているのと同じ寸法の立方体が、同じ角度で、等間隔に、ずらりと並べられていた。碁盤の目のように規則に。砂浜の上だけではなく海の上にまで立方体は規則的に浮かんでいて、その果ては水平線に飲み込まれている。きっとどこまでもどこまでも続いているのだろう。風が全く吹かない場所なのだろうか、海面には波一つなく、すべてが完全に静止している。どの箱の中でも、人間が四肢をぴたりと折りたたんで眠っている。箱の頂点の一つを淡い珊瑚色の砂に埋めて、静かにただ眠っている。
わたしは息を呑む。壮観だった。風ひとつ吹かず、音のない海岸。それはまるで、グリッドを引いて描いた一枚の精緻な絵のようだった。時間が凍りついて、止まってしまったような場所だ。気持ちがすう、と澄んでゆくのがわかった。起きているのはわたしだけだったけれど、不思議と怖いものでもなかった。なんというか、安らぎさえ感じた。
しばらくぼうっと見惚れていると、右隣の立方体の中にいるのも「わたし」であるということに気づいた。ただし、その「わたし」は、このわたしよりも若い。高校生くらいだろうか? 髪がまだ真っ黒のバージンヘアだ。その右隣にはおそらく中学生くらいの「わたし」、さらに右隣は小学生の「わたし」、園児の頃の「わたし」、歩き始めた頃の「わたし」、そのさらに奥には……おそらく胎児の頃の「わたし」。右の直線上にいろんな時間の「わたし」がいる。他には誰がいるんだろう。夜明けの空の下、目を凝らして周りをよく見渡してみる。わたしのちょうど目の前の箱では、見知らぬ白髪混じりの女性が眠っていた。彼女の右隣のはもう少し若い彼女の身体があって、反対に左隣には皺が増えた身体がある。しかし、そのさらに左隣には、まったく別の人間の胎児がいた。
そうか、死か。彼女は最後、あの身体で亡くなったんだ。わたしはぼんやりとした頭で考え始めた。彼女の身体は胎児から数えて、全部で十七体あった。その奥の別の胎児の身体は、中年に差し掛かった男性の姿で終わっていて、全部で十一体しかない。どうやらここにはあらゆる人間の、あらゆる時間の姿が同時に存在しているらしいことがわかってきた。それを悟ると、わたしは一瞬にして怖くなってしまった。
左側を振り返れば、未来の「わたし」がいるということになる。これから自分の未来という、人生の秘密を知ることになるのだ。それは、許されるのだろうか? いわゆる、神の領域のようなものなのではないか? これまで生きてきた「わたし」の身体は七体だった。このわたし自身を含めて八体ということになる。一体全部で何体の身体があるんだろう。どんな風に歳を重ねてゆくのだろう。……そして、いつ死ぬのだろう。結局わたしは好奇心に負けて、ゆっくりと左を振り返った。
目を見張った。もし立っていたなら、膝から崩れ落ちていたかも知れない。そこには、赤く透きとおった胎児がいた。そのさらに左奥には、わたしが会ったこともない、金髪で抜けるように肌の白い赤子がいた。彼の身体は全部で十四体、わたしの人生の直線のその先に、配置されていた。
この場所では全てが完全に静止していて、決して夜が明けることはない。わたしは震えるまぶたをそっと閉じた。
「……それで」
しばしの沈黙の後、彼はやっとのことで声を絞り出した。いつもと変わらない、土曜の九時半。シーツが擦れる音と、時計の針が刻む音とが、清潔なこの部屋に低くたれ込めている。彼の声音は問いかけるような、それでいてほんとうは何も問いたくないような、切ない灰色をしていた。
「終わり。目が覚めちゃったの。べつに起きても怖くなかったよ」
実際、不可解な夢を見ること自体は、それほど珍しいことでもなかった。他人よりも日常生活に神経を使うせいだろうか、わたしは数年前に軽い不眠症を発症している。以来ずっと睡眠導入剤を服用していて、たびたび不可解な夢を見る。
「怖くなかったってば」
言い終わらないうちに、彼はわたしを抱きしめた。衝動的な動作だったわりに、その腕が触れるか触れないかのやさしさだったので、わたしは悲しくてたまらなくなった。
「ほんとだよ、わたし、死ぬのなんて怖くないもん。ぜんぶ折れて生き延びるなら、いっそ死んじゃいたいくらいだもん」
彼はわたしをそっと抱きしめる格好のまま、黙り込んでしまった。普段の彼は、友達の肩をばんばん叩いて笑い転げるような人である。ビールを飲み干したグラスを机にだん、と叩きつけるような人である。それなのにこの部屋に足を一歩踏み入れた途端、指一本でもわたしに触れた途端、痛々しいほど神経質になる。心持ち眉根を寄せて、息を詰めて、わたしの仕草のひとつひとつに目を光らせる。セックスのときもその調子で、触られているのか触られていないのかよくわからない。妙な話だけれど、抱かれているのか抱かれていないのかさえ、ぜんぜんわからなくなってしまうのだ。指が、唇が、つまさきが、わたしに触れるギリギリ手前で虚空に飲み込まれていくのを感じて、いったい何度絶望したか知れない。彼の動作が、目線が、肌がやさしければやさしいほど、わたしは悲しくなってしまう。彼が慎重になればなるほど、彼は彼ではない何者かになって、わたしの上で空気に溶けて消えてしまう。
かつてわたしは骨が弱いことを、悲観するどころか誇りに思っていた。些細なことで骨折して車椅子生活になると、家族全員が世界でいちばんやさしくなるからである。そういう可愛がられ方で満足していたのだ。小学生になり中学校に上がっても、わたしと話しているときは誰もが世界でいちばんやさしくなった。それどころか、羨望の眼差しを向けられることさえあった。
——ゆうこちゃんは体が弱いのに偉いよねえ。
——ゆうこちゃんみたいに、強くなりたいなあ。
わたしがクラスのカリスマ的存在になるのに、そう時間はかからなかった。骨折した回数はそのまま武勇伝になり、主治医にもらったレントゲン写真は宝物になった。わたしはレントゲン写真を時折机の奥から取り出しては、日光に透かしてうっとり眺めた。半透明のレントゲン写真を透かして見る世界は、何もかもが外国のお菓子のように甘かった。これはわたしだけの、特別な骨。やわらかい骨、愛しい骨。幼いわたしは「弱さ」が何もかも与えてくれるのだと信じて疑わなかった。水槽の中の金魚とおんなじで、弱くて無力だから、こうして可愛がってもらえるのだと。その勘違いは、地方の短大を出てもなお続いた。両親は弱いわたしを外で働かせる気にならず、社会に出るのを先延ばしさせるようにして、東京の大学に送り出した。そこで暇を持て余していたわたしは大学に客員教授で来ていた彼に恋をして、そのときようやく目が覚めた。
この身体は、男の人に力いっぱい愛されるには、不便なつくりをしている。彼とはじめてホテルで寝たとき、わたしたちは興奮し過ぎていた。お酒が入り過ぎていた。酔いにまかせてくすくす笑って身体をよじらせ、取っ組み合うように睦みあって眠ったところ、翌朝には肋骨が二本折れていた。愉快なワンナイトラブを楽しむつもりだった彼はすっかり青ざめてしまい、罪を償うようにわたしのところに通うようになった。彼は贖罪のように、義務のように、毎度わたしをおそろしく丁寧に抱く。わたしは彼の贖罪に対しての贖罪をするかのように、彼の義務を和らげる義務があるかのように、彼に可愛がられているふりをする。
朝日がまぶしくて目が覚めた。今週も彼は、窓を開け放したまま出て行ったのだ。わたしは大きく伸びをして、転ばないようにゆっくりと立ち上がる。そして床に落ちた十六枚目のシャツに視線を落とす。フローリングにくしゃっと落ちているそれは、洗っても落ちないシミのようだ。わたしの人生に付着した、真っ白い、でも洗っても落ちない巨大なシミ。十六個目のシミ。わたしは途方に暮れる。もう五カ月近くも、こんな曖昧で不毛な関係が続いているということに。袖の部分を指でつまんで拾い上げると、くたっと垂れていかにも弱々しい。まるでやわらかい骨のようだ。
ほんとうは、彼がシャツを置いていく理由なんてわかっている。わたしの匂いを、彼の家に持ち帰りたくないのである。奥さんがどんなに鼻の効く人物でも、シャツごとここに置いて行ってしまえばなんの心配もないだろう。一方で、「ゆうこがさみしくないように、」というのも嘘ではない。例えばもしわたしがさみしがって不満を爆発させ、例えば彼の職場にでも訪ねていったら大問題になる。何より揉めるようなことがあれば「骨折するかもしれない」という不安がつきまとう。リスクに、不安、責任がつきまとう。
それからもうひとつ。彼が何度わたしを細心の注意を払って抱いたかを、わたしにわからせることができる。数を愛だと主張することができ。なんて単純明快で、効率的なんだろう。すべて彼の予定通りというわけだ。わたしはとても理にかなった、乾いた可愛がられ方をしている。
さて、やっとのことでベッドから起き上がったところで、わたしにはあまりすることがない。夏休みだから講義はないし、アルバイトは危険だからという理由で親に禁止されている。だからおそらく、これから彼のことを考えながら、シャツを洗濯してきれいにアイロンをかけて、律儀にクローゼットにしまいこむのだろう。そして来週、彼が訪ねてくるのをおとなしく待ち続けるのだろう。大学生にはいささかきれいすぎる、このマンションの一室で。わたしにはあまりすることがないし、あまりできることがないのだから。
あまりすることがないと、自然と泣けてくる。これはわたしが人生で学んだひとつの事実だ。あまりできることがないと、とても淡い涙がゆっくりと流れ落ちるのだ。いつからこんなことになってしまったのだろう。いつから彼は、わたしの孤独な水槽に紛れ込んで、一緒に同じところをぐるぐる泳いでいるのだろう。
俺はテキ屋泣かせとして、町内会じゃ有名だったんだ。ゆうこの金魚の話を聞いてから、ずっと縁日での思い出を反芻していたんだよ。手先が器用だったからカタヌキなんてお手の物で、おっちゃんにもう勘弁してくれよ、なんて言われるまで賞金稼ぎをしたものだ。
その賞金で、金魚すくいをしたんだ。浅い水槽の中を逃げ回る俺の目には、金魚たちはプールでビート板を使う奴らみたいなのろまに見えた。またもやテキ屋を困らせるくらいたくさん捕まえて、両手にあのちゃちなビニール袋をいくつもぶら下げて歩いたよ。こぶし大の水の塊は、ちょうちんの灯りの下でてらてら光って、すごく人目を引いた。
俺は大得意だった。とはいえ金魚の世話には少しも興味がなかったんだ、だから祭りにきていた近所の子どもたちにみんなあげてしまった。彼らは目をきらきらさせて喜んで、俺を賞賛した。けれども、彼らに感謝されればされるほど、俺の喜びはみるみるうちにしぼんでいった。何が彼らの瞳を輝かせるのか、俺には少しも理解することができなかった。それは自惚れ屋の小学生男子が初めて出会う、ちょっと戸惑うくらい生々しいさみしさだったんだ。
「何かをわからないって、こんなにさみしいんだって初めて知った。それまで俺、悩みなんてなかったからさあ」
わたしはカーテンのすきまから差し込む月明かりだけを頼りに、彼の大きな瞳の表面を見つめていた。それは水を含んでてらてら光り、今の話に力強い真実味を加えていた。いつも通りの、土曜の九時二十分。
「ゆうこ、さみしい?」
瞳が、ぐるりとこちらに向けられる。わたしの呼吸は細くなる。彼の胸に寝そべっているので、きっと心臓が早鐘を打つのが伝わっているはずだ。
「変な夢を見るくらい、さみしいんだよな? 」
肌を滑る短い沈黙。きれいすぎるこの部屋を、時計の音と心臓の鼓動が駆け回る。わたしはやっとのことでかすれ声を絞り出した。
「……うん、さみしい」
彼はこういうとき、決して無駄に謝ったりしない。はだかのままで素早く起き上がり、仕事用の革製の鞄から、手のひらサイズの小箱を取り出した。暗がりの中で、わたしは息を飲んだ。ついにわたしの番がきたんだ——噛み締めた歯が甘く軋んだ。
その直後に彼が差し出した箱をよく見たときの、わたしの失望はとても言葉にすることができない。目の前に差し出されたのは、硝子の小箱に入った金魚の標本と、彼の少年のように無邪気な笑顔だった。
「妻の買い物に付き合ってたら、偶然見つけたんだ。一眼見たらどうしてもゆうこにあげたくなって、今日こっそり買いに戻ったんだよ」
金魚の骨の、淡く繊細な影は硝子の小箱を突き抜けて、彼の手の中に落ちている。そこに、ぬらぬらと濡れたような硝子の影が重なって、水面のようにきらきらと揺れた。まるで、彼が両手の中で骨でできた金魚を飼っているかのように見えた。そんなものがあるとすればの話だけれど。どちらにせよ、それは皮肉なほど美しい光景だった。
わたしは何も感じまいとして、作り笑いの下でいつか夢で見た海岸のことを思い出していた。硝子の立方体の中で眠る金魚の標本は、あの立方体の中で眠っていた、夢の中のわたしにあまりにもよく似ていた。涅槃。わたしはとっさに考える。あの海岸は、もしかして、涅槃だったのではないだろうか。
金魚の骨の記憶には、実はまだ続きがある。
「ゆうこ、帰ってたの。どうしたん」
幼い夏の日に引き戻されたわたしは、水槽の前でビクっと我に返る。奥の座敷の方から、おばあちゃんが呼んでいる。わたしは小さな魚たちの残忍さを、それを目撃したわたしの悲しみを、彼女に悟られたくなかった。それで、とっさに水槽に手を突っ込んだ。はやく、骨をかき集めなくちゃいけない。ぬるくてむわっと匂いを放つ水が、手に絡みつく。はやく、はやく。おどろいた生き残りたちの尾ひれが、手首をさらさら撫でてゆく。砂利が、おそらくは骨もいっしょに、爪の間に挟まる。遠くで風鈴が、間抜けにきれいな音を鳴らす。おかっぱにした髪の毛が、汗とでぐっしょり濡れて首に張り付いている。あまりにも不快で、とっても悲しくて、わたしは気がつけば顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
「ゆうこ、どうしたん」
おばあちゃんは、泣きながら水槽を搔きまわすわたしを見てぽかんとしていた。でもそれからやさしく抱きしめてくれた。わたしの右腕が水槽の水で濡れていることは気にもとめず、触れるか触れないかの強さで。わたしはそのやさしさが悲しくて余計に泣いた。ほとんど憎しみに近い悲しみで破裂しそうだった。でもどうしてだろう、さっきから声が出なくて、泣き叫ぶことができない。
そうか、いまわたしは夢をみているのだ。そのことに気づくと、おばあちゃんの腕はたちまち彼のたくましい腕に変わる。でも腕に込められた力は変わらずに頼りない。どうして強く抱きしめてくれないの、どうしてそんなにやさしくするの。そう訴えたいのに声が出ない。そういえばわたしは彼の前で、泣いたり叫んだりしたことが一度もなかった。どうしてなんだろう、どうしてわたしを取り巻くすべては、わたし自身は、外国のお菓子のように遠くにあるんだろう。
すると、急に場面が変わった。彼とわたしはいつの間にか、やけに狭くて薄暗い場所にいた。コンクリート張りの、地下室のようなところで向かい合って座り込んでいる。全体的に灰色で、なんだか埃っぽいところだ。あまりにも天井が低いので、彼もわたしも頭を低く垂れ、額を付き合わせている。彼は手のひらに赤いものを持っていて、それをわたしにどうにか見せようと苛立っている。わたしはなぜか、どうしてもそれを直視したくない。見たくないのだ、と彼に目で訴える。しかし彼はにこりともせず、わたしと目を合わせたまま、その赤い物体をわたしの両の手のひらに無理矢理握らせた。
ひんやりしていて、どきりとする。暗闇に目を凝らしてよく見てみると、ただのブリキの缶詰だった。わたしは安堵する。どうして安堵するんだろう、いったいなんだと思っていたんだろう。缶詰の側面には赤いラベルが貼られ、秋刀魚の絵が入っている。そして、絵の下に何やら注意書きが入っていることに気づく。何しろ薄暗いのでよく見えないのだ。彼はその印字をわたしに読ませようと、ますます身を寄せて缶詰をわたしの目の前に突き出す。
前髪が膝小僧に影を落とす——なになに——「骨までおいしくお召し上がりいただけます」。呼吸が止まる。視線をあげるとすぐ目と鼻の先で、彼がまだこちらを凝視している。彼はにやりと笑う。彼の瞳の表面が、てらてらと光っている。その中を骨だけの金魚が泳いでいる。わたしはそれでもどうしても、どうしても叫ぶことができない。
泥のような眠りから覚めた。ひどく体が凝っている。夢の中で叫ぶことができなかった代わりに、たくさん汗をかいたようだ。今朝も窓は開け放たれていて、外で遊ぶ子供たちのにぎやかな声が聞こえてくる。夏も盛りの日曜日はあまりにも爽やかで、わたしはすっかり打ちのめされてしまった。どうして結婚を申し込まれるなんて、ばかな期待をしてしまったんだろう。わたしと寝た後に、平気で「つま」と発音するような男に。
重い瞼を持ち上げて床に視線を落とすと、十七枚目のシャツが落ちているのが見えた。なんだかシャツもわたしも、ひどく疲れているみたいだ。くたびれてしまったね。わたしは脚だけを伸ばして、つま先でそれをもちあげてみる。蝉の大合唱も、子どもの声も、遠い遠い所にあって、わたしの内側にはぜんぜん届かない。何もかもが、水槽を隔てているかのように遠くに感じられる。せんてんせいこつけいせいふぜんしょう。ただ彼を待って、彼と寝て、シャツを洗って。今朝は彼さえも、外国のお菓子のように遠くに感じられる。シャツは左足の親指の先から滑り落ちて、ぐしゃりと床に落ちた。しわをたっぷり抱えた白いシャツは、脆くて物悲しいもののように見える。まるで、金魚の骨——いや、わたしの骨のように。
ベッドサイドのテーブルの上に置きっ放しになっている金魚の標本をちらりと見る。中身が指輪ではなかったショックで目を背けていたけれど、よく見ると金魚の骨には親しみが感じられた。わたしは寝転んだまま、硝子の立方体を手に取る。見かけによらず、ずしりと重い。手のひらサイズの標本は、何百という数の小骨で構成されている。そのひとつひとつが繊細な曲線を描き、乾燥して少し黄ばんでいる。つまんだら、崩れてしまいそう。齧ったら、ぱりぱりと壊れそう。カタヌキが割れてしまうときのように。わたしは惰性に仰向けになって、硝子の小箱の蓋をそうっと開けた。
むかし、金魚を四匹飼っていた。小さい方からハル、ナツ、アキ、フユ。そのうち一匹が他に共食いされた。四匹を相対的に見分けていたので、わたしには一体だれが食べられてだれが生き残ったのか、皆目わからなかった。自分が一夕のうちに酷くばかになったような気がして、もう「特別なゆうこちゃん」ではなくなったような気がして、怖くて怖くてたまらなかった。
おそるおそる、小さな骨をゆびさきでつまんだ。やわらかい骨はみし、と不吉な音を立てる。眼のくぼみにあたる空洞に人差し指をかけて、ぽき、とかけらをむしり取る。身体の中で、孤独がしんと音を立てる。わたしは骨のかけらを、舌先でつついてみた。それは、古着屋や骨董品店の空気のように、すえた独特の味がした。ほんの少し舐めただけなのに舌がひりひりして、得体の知れない罪の意識がどんどん押し寄せてくる。金魚の共食いを知ったときのように、いやまるで、わたしがあのとき金魚を食べた犯人だったかのように。わたしは自分の考えの跳躍ぶりにゾッとした。あまりに冷静さを欠いている。心臓がどくどくと跳ねる。手が震える。手の震えは見つめるほどに激しくなって抑えが効かない。わたしはついに、硝子の小箱ごと、金魚のほねをとり落としてしまった。
かしゃん、ごと。
わたしは「それ」を直視することができなくて、咄嗟の判断で、逃げるように寝室を後にした。何か落ち着けることはないだろうか、なにかわたしらしいことはないだろうか。その足で迷わずクローゼットに向かう。無数の小骨が砕けたときの小さな音が、まだ頭の中で何度も何度も繰り返し再生され続けている。がしゃん、ごと。がしゃん、ごと。それは鳴り止まない電話のベルのように、わたしを部屋の隅へと追い立てる。
クローゼットを開け、ずらりと並んだ彼のシャツに手を伸ばし、一枚一枚ゆっくりとめくってみる。洗っても取れない彼の匂いと、うちの柔軟剤の匂いが香る。その動作を何往復か繰り返すうちに、徐々に呼吸が整ってきた。
しかし、頭が異常に冴えた状態でそんな行動をしていたら、別の余計なことに気づいてしまった。彼の置いて行った白いシャツは全て同じブランドの、同じ型のものだったのだ。つまり彼の中で、「わたしの部屋に置いていく用のシャツ」は決まっているのだ。彼の普段の生活と、家庭と、わたしとの土曜日が混ざらないように、彼は同じものを毎週買ってからここに来るのだ。なんて単純明快で、理にかなっていて、彼らしいのだろう。すべては彼の予定通りなのだ。わたしはその事実に、またもや打ちのめされた。真夏のプールのようにぬるい絶望が、ゆっくりと広がるのを感じる。わたしの人生に落ちた、白くて巨大な染みのように。わたしはその場に座り込んでしまった。
涅槃。いまとてもあの海岸が恋しい。わたしは縋るように空想の世界に逃げ込む。わたしにとって立方体の並ぶ海岸のイメージは、もはや帰るべき場所のように思われる。全ての人生とともに、あらゆる時間の「わたし」とともに、あのすてきな珊瑚色の砂の上で、永遠に眠っていたい。それはたちまち抗いがたい誘惑となって、わたしをすっぽり包み込んだ。
あっちの世界で目を覚ましても、こっちの世界で目を覚ましても、どちらにしろ閉じ込められているのだ。箱の中に詰め込まれて、自由に動くことができないのだ。だったら大して変わらないではないか。どちらにせよ未来の方角に、未来の「わたし」はいなかったのだから。
そう考えると、炭酸飲料を開けた瞬間のように、ぷしゅっと身体から力が抜けていった。わたしはすっと楽に立ち上がり、寝室へと向かう。金魚の小箱は見ないようにして、ベッドに腰掛ける。まだシーツを洗濯していないから、ほんのり彼の匂いがする。でもそんなことももうどうでもよかった。
ベッドサイドの引き出しから、睡眠導入剤のシートを取り出す。錠剤を包むプラスチックのシートは光にかざすと、てらてらと光った。はやく。はやくあっちの小箱に、ひとりぼっちの安全な水槽に入りたい。そうして身体を丸めて、ずっとずっと眠っていたい。どうせもうすぐあっちに着く運命だけれど、今から眠り始めたら、もしかしたら予定よりも早くあっちに着けるかもしれない。
そうなったら万々歳だ——わたしは床で崩れた金魚の標本のことも、クローゼットのシャツのこともみんな頭から追いやって、浮き足立って遠足の準備をする小学生のように、せっせと薬のカプセルをいくつもいくつもシートから取り出した。薬を見境なく口に放り込みながら、ほんとうに幼い頃に戻ったように、ころころと無邪気に笑った。金魚の共食いなんて見たことがないかのように、無責任に笑い続けた。笑いながら、身体がどんどん押さえつけられるように微睡んでゆくのを感じる。睡眠、死、それから涅槃。でもそんなことはもうどうでもいいのだ。意識が遠のいて、現実の輪郭が曖昧になってもなお、わたしは笑い続けた。
だってあの場所についたらもう、骨の心配をしなくて済むのだから。好奇の目に晒されたり、奇妙な可愛がられ方をすることもないのだから。恋人の速さについていけなくても構わない。彼の予定が崩れても構わない。だいいちあそこでは男と寝る必要も、恋をする危険性すらもないのだから。
最後まで読んでいただきありがとうございます。大変嬉しく思います。よろしかったらサポートしていただけませんか? いただいた支援は、本の制作費や勉強のために使わせていただきます。よろしくお願いします