河原の流木_これも音楽_

自然を心に映しとる

音楽と自然現象

例えば、麦の穂を渡る風とか、
水がさまざまなシーンで描く動きとか・・・

そんな自然現象と、音楽、ってなにか相通じるものがあるのではないかな、
という考えはもしかしたらそんなに突飛ではなくって、誰もがふっと思ったりするもんでしょうか。

質の違い

ただ、それはなんとなく、ということで、根拠とかはないし、それに、例えば

「モーツァルトはもっと風のように演奏するのよ。」

という先生の言葉に、それはどうしろと・・・?と戸惑って余計わからなくなって、むしろ、体が固くなってしまったり、ってことは往々にしてあって、そんな簡単に直結できるもの、とも限らないってことは、ないでしょうか?(だいたい、風って言ったっていろいろあるわけで、こんなことを言う先生は想像力はすてきだけれども、生徒側から見たら結構無茶振りだとおもう・・・)

むしろ、自然現象のほうが音楽で、あの楽譜に書かれている図式はもう死んでる。みたいな、案外、そう考える人もそんなに少なくないのかも。(それは、そのくらい、自然現象と人間の感覚って、つながってるということなのかもしれない。)

音楽と自然現象との関わり。
どこかでわかっている気がするのに、でも、わからない、ファンタジーみたいなもので。

ノコンギク

自然の動きを一旦心に映す

その、なにかおぼろげながら感じる”それ”の現象のひとつは「質感がある時間的な動き」だということに もし、共鳴していただけるなら、お話がしやすくなります。

音楽の中に自然現象に似た、というか多分自然現象そのものが反映されているとして、でも、それを結びつけることができるのは、人の心の中にも、自然現象・音楽にあるその「質感のある動き」が見えるからだと思うんです。
自然の動きを心に映す、ということ。

心に映したものが音楽になる、ということ。

逆も。
音楽の中にある自然を心が映す。

それを自分が同じ質感で受け止める。


この心の中にある動きが具体的であればあるほどに、ファンタジーはリアリティに目覚めていくんだと思うようになりました。
それは、私が子どもたちに、音楽ってこんなこんなだからね、と言葉にならないところをクレヨンで描いたことを発端としてうまれた、音楽を描く、(あるいはutena drawing ともいう)の観察をしていく中で、情報を手繰り寄せていった先に徐々に見えて、聞こえて、きたことでした。


音楽を描く、ということは心に動きを映しとっていくこと


u.d(utena drawing )というのは、音楽の中の言葉では伝わりにくい時間のプロセスや音の高さのプロセスを具体的に描いてやり取りする「言葉」みたいなものです。

ハイドンソナタ

u.dは音楽の要素を動線で描き出していくものです。
でも、描いた線、という結果を云々していくのではなくて、その描いていくプロセスのところにある、心に映る、映す、という作業を大事にしていきます。

例えば、の話で出てきたモーツァルトの曲なんかも、実際描いてしまうんです。細かに、どんなに立ち上がって、どこへどのくらいの速度で向かってくのか、どんなふうに収束するのか・・・

それは、絵ではない、
さらには、映像というのもちょっとちがってて
主体は、”体験”なんです。

心に映す

視覚的要素だけでも、聴覚的要素だけでもなく、触覚や、重力感覚、運動感覚、いろんな感覚が音楽に参画してきます。

体験のなかで何かが動いていくと、そのプロセスの延長に音楽への実感の変化があり、演奏が楽になったり、聞き取れなかったものがきこえるようになったり、ということが時々起こったりします。それは自然現象と音楽を結びついていくように、心が受け取って映し結んでいく、という現象が起こってくるからだと思うようになりました。

だから、主として、行っていることは、心にある鏡(質感も時間経過も映す鏡)を自分で育んで行くことなのです。

*この記事はマガジン「音楽を描くことはじめ」に入っています。

こんな記事もあります。



愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!