パブロ・カザルス「鳥の歌」(ちくま文庫)
人の心の中には、たくさんの相反する感情が潜んでいて、
天国も地獄も実のところ、内面に全て抱え込んでいるのではないかと思う。
中には、自分自身ですら未知の感情や記憶の傷やらが跋扈していて、
かと思うと、思いがけず小さな綺麗なカケラを拾ったりもする。
私、という顔のその奥に潜む何万の貌。
ありえない無意識の奥から、手が伸びてきて、良心を食らう鬼。
戦争を起こすのは、誰か心ない人たちではない。
誰かの無意識と別の誰かの無意識が癒着して塊になり人格のふりをし、
人の手綱を逆向きに引っ張り始める、
その、誰しもが抱え込んでいる、心に違いなかった。
元は寂しさであったり、幸せを求める思いであったりしたのかもしれない。
その素朴な感情にコーティングされていく何かをも人は既に持ち合わせて生まれてくる。
音楽にそれに対抗できるか、と問われれたら、戸惑う。
私は、音楽を「いいもの」だとは思ってはいない。
音楽は権力にだってなるし、
無意識に低く溜る集団を作る。
音楽によって、思考停止もできるし
優越感や劣等感の巣窟だし。
不屈のチェリスト、パブロ・カザルスは言う。
カザルスほど、音楽そのもので戦争に対抗した人はいないのではないか。
こんな話もある。
もはや、音楽ではなく、カザルスという人格が不屈なだけではないのかしら、と思うけれども、少なくともカザルスは彼の想いを伝える手段として、言葉にならない心の代弁者として音楽を生かすことができた。
でも、彼の音楽を聞こうとプラドに集まった数千人から万に至る人が静まり返って耳を傾けるなか、音色の中、響きの中、メロディの上がり下がり、楽曲の解釈、それをこの世で展開してみせることで、何か誰しもが、納得し、諦め、救われ、歓喜し、喜びを、痛みを分かち合う場をうむ。それはやっぱり、カザルスのきゃらくたーではなく、カザルスの音楽だったんだろうと思う。
CDに残る彼の音を、今に生きる私の暮らしの中、ふと思い立って立ち上げると、そんなすごいことをやった人、というより、素朴にそこに暮らしというスケールにちょこんと収まって、何か溶け込んでいってしまって、ちょっといいことあったな、みたいな読後感が少し尾を引いている。そういう音楽だ。
整体の創始者、野口晴哉は、カザルスを敬愛していた、と聞く。ライバルと思っていた、とも。
http://noguchi-haruchika.com/gallery_7.html
思考も行動もぶれることのないように見えるパブロ・カザルスは、音楽の「正しさ」をどう捉えていたのだろうか。
時には、厳格に、別の曲では子供のように音と戯れるように、そして、スーと引いた弓がどこまでもどこまでも続いていくような、彼の音。
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今年初めにこの小さな本を手に取ったのは、個人の体験としての音楽と、音楽の深みとの壁のことをずっと思い巡らせていたからでした。
一つ、わかったことがあります。
音楽の先があるのだ、ということ。
音楽が到達点ではなく、その先。
その時には、人の感覚も身体も心も丸ごとつれていって初めて成就するものなのかもしれません。
カザルスはその音楽の先を見据えていた、稀有な人物だった気がします。
愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!