見出し画像

1月の音楽室

生徒のお母さんたちが、わんこのことを悼んでくださるその優しさに胸がきゅっとなる、玄関先です。わんこはほんと、みなさんに愛されて幸せだったと思います。わんこも、辛いところは生徒に見せないで、(見事に年末年始を挟んでおお仕事を成し遂げたから)えらかった。寂しさは否めないけれど。

ピアノカレンダー

さて、年末年始にかけて、生徒たちには自分でピアノの前に座れるようにと、やった日に丸やシールなどをつけるカレンダーを渡して、まあ、やってくるこは、いつもやってくるし、やってこない子はやってこない、そんなもんせ。まあ、でも、みなさん、お家正月が多かった分、まあまあよく頑張っていたと思います。そして、今年はもうひと押し、できた子もできなかった子ももう一週間チャレンジして、2つ目のプレゼントをゲットしたまえ、という二段構えでやってみることにしました。年末年始にうっかりさんだった子も、よっしゃ、と勇ましい掛け声で、頑張っていて。それでも忘れてしまった子は「おねがいやから夏休みもやらして」というから、じゃあ、また機会があったらやってみようということに。

今回は、あいだでビデオ電話などで様子を尋ねたのもよかった気がします。
生徒たちもちょっとしたイベント気分、そういえば、学校の先生の家庭訪問、嫌いじゃなかった、生徒たちもあの感じにちょっとにているかもしれないと思ったりしました。

それで、あらためて思ったのは、この仕事、毎週1回年間四十何にちか、とレッスンが一定にあって、まるで時間給でやっているようにずっと思っていたし、それをこなせばよい、という頭でやってしまっていたところもあったように思います。保護者さんにしても、お休みのない先生のほうが真面目で良い先生、ときっと思われるだろうし。でも、よく考えてみたら、時間給で雇われているのではなくて、生徒たちに音楽をちゃんと手渡しするのが我々の役目。もっといろんな形があってもよいのかもしれません。

冬至の会からこの新年のイベントにかけては、離れてるけれどつながっている、という線をえがけたのではないかなと思います。強制ではなく、信頼でつながっていたい。

日が長くなってきたこと

手洗いを最近はできるだけついていないで、自分でやってもらうようにしています。

生徒の何人かが、手を洗いながら手洗い場の窓をみて、日暮れがおそくなってきたよ、と報告してくれます。
それは冬至の会の続きの話ね。
中には、今年は参加できなかった、という生徒も口にしてて、毎年やるって、そういうことだな、と。


繰り返し、一年という大きな拍(パルス)を体験的に理解していく。

学校などでは、多くのものを知識として学習させざるを得ないから、体験的に理解する、というのがどういうことか、わからないまま日々を過ごしていってしまうでしょう。

「体験」に含まれるのは、その人の身体、意識だけではなく、無意識。

体験は教えられない。それがわかっていないと、体験には触れられないと思います。

・・・・

今朝、友人に生徒がゆう暮がおそくなってきたと口々にいうよ、とLINEすると、
「先生がそういうのが好きってわかってるのね」と。
そうだねー。いろんなものをやりとりする。

線はつながっていて、どちらが優位だったりもしないで、私は生徒になめられつつ愛されてるのかもしれないなあ。






愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!