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ジャン・ジャック・ルソーのその先へ

音楽は旋律か、和声か、という問題提起をし、 旋律のほうが本来の音楽だ。として、論争を引き起こしたのは、ジャン・ジャック・ルソー、民主主義を唱えフランス革命の契機となった「社会契約論」や、教育論「エミール」を書いたその人でした。これをブフォン論争といいます。

批判の対象となったのは、貴族階級に音楽を提供していた、ジャン・フィリップ・ラモーでした。

旋律か、和声か、この論争の発端と結末がとても気になって。そこにどんな根拠があるのか、どこへ向かうのか。
「音楽が生まれる場所」になぜかとても惹かれてしまう私は、このフランスに巻き起こった論争をしばらく追っかけていたことがあります。

それで、ルソーの社会契約論も門外漢ながら読んでみたのです。
「音楽が生まれる場所」は一人ひとりの内面というものが欠かせないので、個人を尊重する民主主義にも引っかかってくるものがある、それはルソーの中でもおこっていたのだろうか、と。そして読んでみて以来、これが民主主義の理想形なの?ともやもやとしたものがずっと引っかかり続けることになります。
社会契約論によると、民主的に多数決をして、多い方に従う、その多い方を「一般意志」といい、つまり貴族ではなくて、この「一般意志」が世の中を統治する。多数決は平等で、個人意志の総意であって、皆はこれに従うべきである。このパンチの効いた当時斬新で多くの人を熱狂させた思想。
当時、貴族によって統治されていた庶民が抱えていた不自由感がこれに呼応して、大きな波となり、貴族から自分をとりもどすべく人々はたちあがることになっていくわけです。民主主義はこんなふうに幕を開けたのでしょうか。
当時、民衆が貴族に立ち向かっていくのに、一丸となっていくプロセスが必要だった、その一役をこの「社会契約論」が果たしていたのはたしかです。


そして、このジャン・ジャック・ルソーという人物。

素朴なメロディを自国の言葉で生み出してくことを、音楽の発生原理とすること、貴族中心だった音楽を庶民にもっと近づけようとする、その意志には共感もします。かれの言う社会契約論も同じものがベースにあって、自由と平等へと人を駆り立てるものがあリます。教育論を人の成長になぞらえて描いた「エミール」もまた人の自然な成長を邪魔しない教育のあり方を書いていて、著作においては、一貫して彼は、自由と平等の人なのです。

けれども、なにか、私の中でどうしても引っかかってきたのは、その熱のあまりの熱さもあるし、それに、その批判の対象だったラモーの音楽を好きになった、というのがありました。私は思想家ではないから、そういう直感で捉えます。音楽をやっている側の人間なんで、それはいいかなと思うところがあります。ラモーは間違いなく音楽に愛情を注いで来た人だと思いました。彼の音楽を聴いたとき、そして実際に自分の手でそれを演奏したときに、旋律を無視したものだったわけではないと思いました。(ラモーも売られた喧嘩に大人気なく対応するので、ブフォン論争ってどっちの味方もできないけれど。)
ルソーはなぜ、素朴な旋律か、和声か、フランスの音楽かイタリアの音楽かということにこだわってラモーを引き合いに出して批判したのか。音楽的な見地からして、それは対立項ではなかったのではないか、そもそも私が期待していたような「音楽の発生に立ち会ってみる」というような対話では到底なかったということでした。


そこにあったのは、貴族という対象に対する恨みや嫉妬・・むしろ、自由、平等という以上に、そのうずくような感情があり、これが共感を呼んだ、のじゃないか。
あの時代、その突破口は必要なもので、それがあっての今の民主主義だというのは理解しているつもりです。

自由と平等、というとき、
でも、現代にいる私は考えます。

どれほど世界が平和になったとしても、個人のできることできないことの身体的な違いがあるし、生い立ちも皆同じというわけにはいきません。平等なんて言ったって、みんな違う。そして、人間生きている限り、運命ってやつに翻弄されながらいきてくわけで、自分の自由が自分に完全に委ねられることはないのです。さらに言えば、自由をとれば、平等が折れる、平等をとれば自由が折れる、この二つは共存がとても難しい奴らだと思うのです。当時は、貴族にその原因すべてをぶつけることができた。そして無邪気に貴族がいなくなれば、多数決で物事をきめていけばよい、と思えた・・でも、現代になっても、貴族とともに不平等がなくなったりはしなかったし、不自由もいまだにあリます。そう、社会契約論がヒットした時代よりもうんと解像度をあげていかないと現実は耕せないのではないか。

純粋な正義なんてものはなくて、人は幾重にも感情のひだをもっていて、人の感情というのはある種の熱でくっつきあって一つの感情の波になる、その無意識になにが眠っているのか、当事者は気が付かない。そうやって世界をひきずってきた、なにか暗い存在のようなものがあるような気がしてくる・・・

音楽の発生の場、それは人の内面があってこそ生まれる場です。そして、そこには争いの種や暗い感情の沼もあるんだと思います。綺麗事だけではそこのリアリティに近づけない。でも、だからこそ、音楽のうまれる意味もそこにあるような気がしてならないのです。


そう、もし、現代にジャン・ジャック・ルソーとフィリップラモーが生まれることができたら。立場は違っていてもなにか、出会える場所があったかもしれない。理解し合えなくても、違う人間だと、音楽も色々あっていいと、そういう現代であってほしい、と思うのです。不幸にも出会えなかった時代という壁。少なくとも私達はその先を考えたい。(加筆・ルソーとラモーは現代でも仲良くなんかならないだろう、ただ、なにか時代的なものを巻き込んだり巻き込まれたり、という前にたちおこるの生身のルソーの感情の中にあるさまざまな沼のひとつにたしかに音楽があったこと、その音楽を眺めてみたいと思うのです。)

今の世の中、「不安」が別の仮面を覆って、正義をまとって、人がひとかたまりになって一つの感情になっていき、そうした塊によって人が分断されていく感じが怖いと思います。

とはいえ、いち小さな音楽室をやっとこきりもりしている私なので、なにか大きな感情のかたまりに巻きこなれないように見を低くして通り過ぎるのを待つばかりです。いや時々巻き込まれながら、でも異物感あるので吐き出されながらいきてきた感じがします。そして、大きな感情の波がとおりすぎさったあとの荒れ地に小さくタネを蒔くことくらいのことはしたいと密かに思っています。いつも多数決で物事をきめられることに戸惑いをおぼえてしまい、だいたいいつも少数派として切り捨てられるような、ささやかなもんだからこそ。
もう少し先までタネを懐になくさないようにして生き延びよう。そうやってちいさくタネを蒔く人が一人でも多くあってほしい、生き延びてほしいと、思うばかりです。


愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!