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演奏に近い体験をひきだす

楽曲の解釈は、

その楽曲が解き放っているものを
いかにこちらが、それを受け止めるボキャブラリーと器の深さを持っているか、
にかかわるものだとおもいます。

解釈とは、ぱらぱらをめくる本のようなものではなくて、体験です。

そして、解釈は演奏を後押しする、いや、演奏する必然性にまで高めていくもので、普遍的体験であり、同時に個的な体験となって初めて、その解釈が血肉になっていきます。

昨日は、本当に久しぶりの愛媛でのワークショップ。

結局、すごく大事なのは、私がそこで扱う曲をどれだけ、理解しているか、ということだったと確認させられた一回でした。

そこをきちんと伝えることができたら、参加者はそれぞれがここまで積み上がった体験のなかから、この曲の、その伝え、耳を澄ましてもらったフェーズを自らの感覚に従って、描きだしていく。

それが、できた、とおもえたワーク。

なにより、参加者さんたちの柔軟さに驚きます。成熟していく、体験。

動画を撮っておけばよかった、とあとで残念に思いました。

写真は私のワーク前の模索の動線たち

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それぞれ私の解釈を私ごととして受け止め、フェーズをききとり、音楽として一つの体験に集約させていくと、同じ動線になはっていかない、でも、その人のをみても、とてもそれぞれ納得がいくようすでした。

そう、結局、どんな動線を描くかではなくて、どんな体験をするか、音楽とその人を引き合わせることができる、理解できる解釈を伝えられるか、そこが私の生きる場所なんだな、と。

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それぞれの導き出した動線をみていると、熟練し、年を経た演奏家のそれのようで、もしかしたら実際、それに近い体験が引き出せてるのかも知れない、と思いました。皆さん、私より年上で、更にその奥の深みの人生としての体験の湖はそもそも深い。

それから、久しぶりのアメンボのワーク。

参加者さんに演奏してもらって描いてみました。

まだまだ、難しい、音がクレヨンに同調してても、ふと離れていきそいうで、よく聞く、よく聞く、と念じつつ。

でも楽しい。音が身体化していくこのかんじ。

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昨日のワークの大きなヒントになっていたのは、一つには音楽リテラシーのテキストを作っている中での、音楽が生まれるプロセスをずっと思い描いていたこと。

もう一つは「奇跡の教室」をワークの前に読んでいたこと。

それぞれ、また、書きたいです。

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ワークショップは300円で、近い体験できます。



愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!