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人と音楽のあいだを満たすものについて

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人たちのかけがえのないいとなみと連動する音楽のことを考えたい。 音楽学者ではないけれど、いえ、だからこそ見えてくる音楽があるはず。音のない音楽のことや、自然のなかの音楽のことなど… もっと読む
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記事一覧

森と微生物の対話は音楽的なあり方をしているに違いない

音楽と土に通じるもの 土中環境(忘れられた共生のまなざし、蘇る古の技)の著者、高田宏臣氏によると、森と微生物は常にコンタクトをとっているのだという。 私は先週都会から帰ってきて、一転、実家の土に触れながら思った。 その微生物と草や木のコミュニケーションの方法は音楽的なあり方をしているのかもしれない、と。 それは、その「音楽的なるもの」が何か、という定義から掘り下げて語らなければ繋がらないことなのだけれども。 相互のやり取りに活性化される 今週木曜日まで東京でワークショッ

あそびは日常か非日常か。

子どもたちの遊びと音楽のことを昨日書いた。 その連想ゲームみたいなもので、 ふと、 遊びっていうのは果たして日常なのか、非日常なのか、 というどうでも良いような、とても大事なことのような といが生まれてきた。 暮らしの中に息づく遊び・・なんていうじゃないですか。 わらべうた、とか。 私も子ども向けのワークをするときには、 日常に出会うもの、小さな虫や、動物や、お母さんの仕草や 隣のヘンテコおじさん、そんな題材を大事にしている。 でもな。 取り上げている題材は確かに暮らしの

小さい声に、小さい声で答えること。

ピアノレッスン生のグループワークの時。 幼児さんクラスは 生徒の一人が即興で何か歌い出したかと思えば、 それをいつしかみんなで歌っていたり、 クレヨンを人に見立てて友達とごっこ遊びをやったり、 好き放題やっているようだけれども、 私が小さい声で話し始めると、同じようにトーンを落としてくるようになった。 場を読み、場を作るのが上手くなってきてるなと思う。 そういう遊びの言語をだんだんとこの子達は身につけてきている。 歌はいつも手遊びや、ドローイングと一緒に。 歌を歌だけで歌

一枚の写真から音楽を読み取る試み

ある霧のたった朝の河辺の風景です。 ちょうど一羽の白サギが飛び立ったところ。 ここにある音楽を聴いてみよう、という試み。 あるいは、ここにある音を音楽に変換して感じてみる。 この瞬間の前後も読み取りながら。 音楽は音とは限らないくて、動きや、形。 また、そこにあるさまざまな質感を味わってみる。 そしてあらためて音楽を思い起こしてみる。 岸の直線、石積みの硬さ。 拡大してみて、水の方向や、質量 人の手によって密植された木々のミニマムな連続。 そして、さながらメロディのよ

レントな母とアレグロな私

実家での食事がまだるっこしい。 もうやがて90になる母の偉いところは 腰が痛くてもゴミ出しに自分で行く。 段差のあるところで手を貸してもはねのける。(気が強い) 必ず、花瓶に花が飾ってある。 夕方農作業(というより野原遊び)から私が帰ってくる頃に お風呂を入れてくれている。 花壇の手入れは欠かさない。(もうできません、と言いながら) お年頃故、同じ話をなん度も繰り返すが、 記憶はちゃんと更新されている。 とにかく元気でいてくれることに感謝しかないけれど、 ただ、食事の支度

人前で歌えなくってもいい

義母が病床で 「美香さん、何か歌って」 と請われたとき、 私は歌えませんでした。 いろんなものがつっかえていて。 それは音楽大学へ行く前から ずっと患っていてた、 コンプレックスやプライドや そもそも人前で「聞いてもらう」 ことの、性格的な不一致や。 さらには、大学でなまじ音楽ばかりやってきて その音楽の領域に枠ができてしまっていて。 それはそんなに大きい出来事だったわけではないけれども、 義母が亡くなってから 歌ってあげればよかった、と。 義母が亡くなってすぐ、 芸術

音と音のあいだに音楽がみえる

どうして音楽に心揺れるんだろう音楽って、私たち、わかっているようで、結構謎なところもありますよね。 謎も人それぞれなのかもしれませんが。 ”音楽ってなんやろうなあ、どうしたらもっとなかよくなれるのかな・・”と思い巡らせて、結局私がたどり着いたのは、音楽って音の点のところではなくて、音と音の間にあるんだということでした。 そこ、音と音のあいだって、人の感覚や体験があるところでもあります。 実際何か音楽から直感的に受け取っているのは、音一つ一つではなくって、そういう体験の

手放すことはじぶんにしかできない

マガジン・"音楽"を伝える音楽教室に 前回に書いた記事、音程感を補修していくことをかいたものの中で、「掴むことより手放すことのほうが難しい」、と書いて、あれから手放すっていうことについて、つらつらと考えています。羅列というか覚書みたいな感じで書き出してみました。これは正しいと思っているわけではなく、「手放す」という言葉に対する私の中の情報を引き出してみよう、という試み。辻褄はあっていないかもですが、とにかく書き出してみました。 教える側は「掴む」ことを前提としている 何

道具を奏でる

紫陽花の剪定の時期なので 今朝、久しぶりの晴れた朝で、紫陽花の花を刈り込みをしていて、 剪定鋏に力を入れすぎていたことに気がついて、ハサミの重みに任せて細く少し早く描くように、力を入れずに、動きだけで紫陽花の茎に触れてみたら、す-っと空気をきるように紫陽花が切れました。 紫陽花は茎が空洞になっているから、実は本当に力なんかいらないんです。 でも、とっても切れないハサミだったし、「力で切る」ことを習慣にもしてきてしまっていたのだと思います。 す-っ この感じ。 ああ、こ

演奏につまづく人に・・

楽器を演奏するとき、間違うから、迷うから、と、どうか悲観しないで。 いろんなシーンで音楽と関わって、 また、生徒さんや、ワークショップの受講者さんと関わってきた経験から、 お話ししたいことがあります。 間違わない演奏が正解? 間違いなく演奏できていても大事な何かが遠いなっていうこともあるし、 たどたどしくってもそこに美しい脈があって、それを届けてくれて嬉しいなと思うこともあります。ちゃんとそれは聞こえているんです。 音楽に正解はないです。 たしかに。 でも、もしかし

わかりやすく見えるものと見えないその奥のこと

土いじりとピアノの両立の無理さに関わらず、 私が必要としているのはその両方、なぜなら・・ 音楽というものを生業にし、少し変わったワークショプをしながら、その中でであっていくもの、関わっていくものがあります。 もう一方で、実家の荒れた土地に関わりを持ち、2年かけて少しづつ自然とやりとりしているもの。 音楽するということと、農地で作業するということは全く違うものなので、身体的な面から言うと、かなり無茶なのかも。草刈りのあとの手のむくみはしばらく確実に演奏の細やかさを奪っていき

旅のおわりに

子どもたちのコンサートが終わって、ひとフレーズの小さなピリオド。 旅にでかけた。 初めての車中泊道具を空色のフィットに乗せて。 とはいえ、出発は実家の庭キャンプから。 感覚に出会う旅。 味わう 音。 色 かたちと時間のプロセス 植物 覗く 見渡す 道をゆく。良い香りがしたところ 見上げる 旅を終えて、ピアノ。 家にたどり着いて、一眠りしたら、ピアノ。 4日ぶりの。 ベートーヴェンのピアノソナタ「悲壮」の2楽章、先月講座で使った曲を 少し疲れた手に乗せて

音楽を描く?

興味が尽きないのは、音楽が生まれるところ 音が一つ。 * もう一つ増える *     * そうすると、その間に音楽の動きが生まれて それが流れをなし、いくつか合流してきて、本流になって、やがて、またどこかへ去っていく・・・どこにもないのに、確かに存在している、音楽。 感じるところから始まる音楽体験と演奏へのアプローチ 音楽と仲良くなるためにすることは、 演奏をきく人、楽器を奏でる人の自然なしぐさと音楽とを 感覚を通して結ぶこまやかな作業。 私は音楽を教える仕事を通

名前のないものの方から教える

音楽を教える、というとき、 リズムとか、拍子記号とか、五線譜の読み方、 伝えなきゃいけないものがたくさんあります。 ト音記号のドの位置や、ヘ音記号のソの位置 二分音符は2拍のばす、(そもそも一拍ってなんだ?) ドはハ長調の主音。 付点四分音符は一拍半のばす。 でも、ものには名前より先に存在があります。 「拍」にも、「主音」にも、音楽、というフィールドで息づいているもので、名前を知らなくてもそれに触れることができます。 それにふれて、その実感があって それにいつか名前がある