マガジンのカバー画像

人と音楽のあいだを満たすものについて

84
人たちのかけがえのないいとなみと連動する音楽のことを考えたい。 音楽学者ではないけれど、いえ、だからこそ見えてくる音楽があるはず。音のない音楽のことや、自然のなかの音楽のことなど…
運営しているクリエイター

記事一覧

音を造形していく力

ひとつの音の楽曲の中の役割が見えてきたら、 それが全体の中で、その意味がなせるように 音の粒、ひとつひとつ、音の流れやいろんなフェーズで 音を形作っていく、造形していく力がいる。 それは彫刻のように立体的で、時間経過の中を生きる。 統合していくのが”私”の作業だ。 ときにそれは、自分の感情も、過去の痛みも 何もかもそこへ投げ出して、練り込んで (だって自分が持っているツールはそれで、 使えないツールはないんだから。) 時間の中に、造形していく。 その作業に優劣なんかなく

【読んだ本】ゲーテの世界観

ゲーテの世界観/人の内と外は決して分断されてはいない・・ ”人の内と外は決して分断されてはいない。” 折に触れ立ち返り、何度も読み直す本の一つです。 哲学の世界では、イデア(物事の本質)と人の内面は切り離され、人の内面は閉ざされたもの、という認識が一般的でした。 ゲーテといえば、シューベルトをはじめ、ベートーヴェン・ヴェルナー・ブラームス・シューマン、メンデルスゾーン、ヴォルフ、リームなど、彼の詩を歌曲にした作曲家は枚挙にいとまがありません。その詩人としての、ゲーテ。

差異が意識を育てる

一つでわからないものが二つの差異によってみえてくる ふたつ、質の違うものがならんでいるとする。 ひとつ、ぽつんとあったもの それを、どう言い当てれば良いか、掴みどころがなかったものが ふたつあることで、その違いや落差から その二つを照らし合わせて 初めて、それが何か掴めるようになる。 ひとつがわかったとき、それは同時にもう一つがわかるということで そんなふうにして、世界は意識の中に開示されていく。 赤ちゃんは、生まれたばかりの時 まっさらで情報がまだすくないなか 快と不

見えているものと見えないものとの乖離

見えているものと見えていないものの 乖離が埋まらないまま、 進んでいってるのが現代の特徴かもしれないと思う。 一方で目に見えて、測定ができて、物質的経過によって 解釈され、その筋で方法論を導くやり方があって、 曖昧なものは、科学的ではない、とされる領域が一方の目盛で もう一方には、例えばスピチュアルなものとか、個性、とか 見えないものの方が重要なのであって そこに不備はない、という目盛りがある。 あっちの目盛とそっちの目盛をそれぞれ辿っていけば きっとどこかで一直線に結

森と微生物の対話は音楽的なあり方をしているに違いない

音楽と土に通じるもの 土中環境(忘れられた共生のまなざし、蘇る古の技)の著者、高田宏臣氏によると、森と微生物は常にコンタクトをとっているのだという。 私は先週都会から帰ってきて、一転、実家の土に触れながら思った。 その微生物と草や木のコミュニケーションの方法は音楽的なあり方をしているのかもしれない、と。 それは、その「音楽的なるもの」が何か、という定義から掘り下げて語らなければ繋がらないことなのだけれども。 相互のやり取りに活性化される 今週木曜日まで東京でワークショッ

あそびは日常か非日常か。

子どもたちの遊びと音楽のことを昨日書いた。 その連想ゲームみたいなもので、 ふと、 遊びっていうのは果たして日常なのか、非日常なのか、 というどうでも良いような、とても大事なことのような といが生まれてきた。 暮らしの中に息づく遊び・・なんていうじゃないですか。 わらべうた、とか。 私も子ども向けのワークをするときには、 日常に出会うもの、小さな虫や、動物や、お母さんの仕草や 隣のヘンテコおじさん、そんな題材を大事にしている。 でもな。 取り上げている題材は確かに暮らしの

小さい声に、小さい声で答えること。

ピアノレッスン生のグループワークの時。 幼児さんクラスは 生徒の一人が即興で何か歌い出したかと思えば、 それをいつしかみんなで歌っていたり、 クレヨンを人に見立てて友達とごっこ遊びをやったり、 好き放題やっているようだけれども、 私が小さい声で話し始めると、同じようにトーンを落としてくるようになった。 場を読み、場を作るのが上手くなってきてるなと思う。 そういう遊びの言語をだんだんとこの子達は身につけてきている。 歌はいつも手遊びや、ドローイングと一緒に。 歌を歌だけで歌

一枚の写真から音楽を読み取る試み

ある霧のたった朝の河辺の風景です。 ちょうど一羽の白サギが飛び立ったところ。 ここにある音楽を聴いてみよう、という試み。 あるいは、ここにある音を音楽に変換して感じてみる。 この瞬間の前後も読み取りながら。 音楽は音とは限らないくて、動きや、形。 また、そこにあるさまざまな質感を味わってみる。 そしてあらためて音楽を思い起こしてみる。 岸の直線、石積みの硬さ。 拡大してみて、水の方向や、質量 人の手によって密植された木々のミニマムな連続。 そして、さながらメロディのよ

レントな母とアレグロな私

実家での食事がまだるっこしい。 もうやがて90になる母の偉いところは 腰が痛くてもゴミ出しに自分で行く。 段差のあるところで手を貸してもはねのける。(気が強い) 必ず、花瓶に花が飾ってある。 夕方農作業(というより野原遊び)から私が帰ってくる頃に お風呂を入れてくれている。 花壇の手入れは欠かさない。(もうできません、と言いながら) お年頃故、同じ話をなん度も繰り返すが、 記憶はちゃんと更新されている。 とにかく元気でいてくれることに感謝しかないけれど、 ただ、食事の支度

人前で歌えなくってもいい

義母が病床で 「美香さん、何か歌って」 と請われたとき、 私は歌えませんでした。 いろんなものがつっかえていて。 それは音楽大学へ行く前から ずっと患っていてた、 コンプレックスやプライドや そもそも人前で「聞いてもらう」 ことの、性格的な不一致や。 さらには、大学でなまじ音楽ばかりやってきて その音楽の領域に枠ができてしまっていて。 それはそんなに大きい出来事だったわけではないけれども、 義母が亡くなってから 歌ってあげればよかった、と。 義母が亡くなってすぐ、 芸術

音と音のあいだに音楽がみえる

どうして音楽に心揺れるんだろう音楽って、私たち、わかっているようで、結構謎なところもありますよね。 謎も人それぞれなのかもしれませんが。 ”音楽ってなんやろうなあ、どうしたらもっとなかよくなれるのかな・・”と思い巡らせて、結局私がたどり着いたのは、音楽って音の点のところではなくて、音と音の間にあるんだということでした。 そこ、音と音のあいだって、人の感覚や体験があるところでもあります。 実際何か音楽から直感的に受け取っているのは、音一つ一つではなくって、そういう体験の

手放すことはじぶんにしかできない

マガジン・"音楽"を伝える音楽教室に 前回に書いた記事、音程感を補修していくことをかいたものの中で、「掴むことより手放すことのほうが難しい」、と書いて、あれから手放すっていうことについて、つらつらと考えています。羅列というか覚書みたいな感じで書き出してみました。これは正しいと思っているわけではなく、「手放す」という言葉に対する私の中の情報を引き出してみよう、という試み。辻褄はあっていないかもですが、とにかく書き出してみました。 教える側は「掴む」ことを前提としている 何

道具を奏でる

紫陽花の剪定の時期なので 今朝、久しぶりの晴れた朝で、紫陽花の花を刈り込みをしていて、 剪定鋏に力を入れすぎていたことに気がついて、ハサミの重みに任せて細く少し早く描くように、力を入れずに、動きだけで紫陽花の茎に触れてみたら、す-っと空気をきるように紫陽花が切れました。 紫陽花は茎が空洞になっているから、実は本当に力なんかいらないんです。 でも、とっても切れないハサミだったし、「力で切る」ことを習慣にもしてきてしまっていたのだと思います。 す-っ この感じ。 ああ、こ

演奏につまづく人に・・

楽器を演奏するとき、間違うから、迷うから、と、どうか悲観しないで。 いろんなシーンで音楽と関わって、 また、生徒さんや、ワークショップの受講者さんと関わってきた経験から、 お話ししたいことがあります。 間違わない演奏が正解? 間違いなく演奏できていても大事な何かが遠いなっていうこともあるし、 たどたどしくってもそこに美しい脈があって、それを届けてくれて嬉しいなと思うこともあります。ちゃんとそれは聞こえているんです。 音楽に正解はないです。 たしかに。 でも、もしかし