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ヤングケアラーは斯く病めり

姉は初めは、どこにでもいる子どもだった。元気に走り回り、わがままを言っては親を困らせる、ふつうの幼子だった。虫と土が嫌いで、フリルのついた白いスカートが好きだった。ゆで卵の白身だけ食べ、黄身は残して近所の小川に捨てるから、よく母に怒られていた――。

これらはわたしが生まれる前の姉の姿で、わたしは祖父母から姉の物語を聞いた。可愛い初孫は喜ばしい存在だった。それが何の不運か、ある時を境に下肢の自由を失い、家族の間には徐々にひずみが広がった。通院、入院、精密検査、付き添い、転院、診断書。今ほど情報のない時代、家族の苦労や如何許。

姉は《小学一年生》という誇らしい肩書と共に、《身体障害者》というラベルを貼られることとなった。本人の望む望まざるに関わらず、姉は立てず、歩けず、起き上がれない、たしかに身体障害を持つ者だった。

父母は険悪でない日がなかったが、姉を治そうと全力を尽くす点においてのみ共闘していた。

ドイツに天才外科医がいると聞けば、すぐさまドイツに渡った。ヨルダンで最先端の手術が受けられると聞けば、すぐに申し込んだ。雲南に鍼灸の名医が。ペルーに不老不死の治療家が。稼ぎと人生を姉の治癒のため投じる両親を、もはや止められる人はいなかった。あれは喪失を拒否した大人の逃避行だった。

完全に巻き添えを食らう形で、わたしは姉に付随して移動した。夢見る両親と姉の背後で、現実を見ていたのはわたしだけだった。

姉は1時間ごとに体位を変えないと、自重で床擦れを起こしてしまう。排泄欲を知覚しないため、時間を測りこまめにカテーテルで導尿しないと、失禁して肌が荒れてしまう。

時間の推移とともに必ずこなさなくてはならないタスクが、姉のような障害者には生涯つきまとう。だから障害を理解し、快適につつがなく過ごせるよう支える健常者は不可欠で、それは往々にして家族が担うこととなる。我が家の場合はわたしがそれを担った。両親は、ケアするたびに泣く無能で駄目だった。

わたしは姉を愛していた。思春期の姉を守るのにあらゆる努力を惜しまなかった。彼女が飛行機の座席で下痢を起こしてしまった時、わたしはバスタオルで上手に隠して全て始末し、悪臭に唸る周りの乗客に「おなら連発してごめんなさい」と戯けて侘びた。小さい子ならしょうがないと周りの人たちは笑った。

陸路で遠路移動するときは接続を調べ、何日も前に問い合わせ、すみませんがと車椅子でアプローチする旨を申し送り、ホームから最短距離の車椅子トイレを教わり、乗車直前におむつを替え、座席移乗も体位交換も時計に忠実に遂行した。スムーズに、かつ疎まれないように振る舞う術にばかり長けていった。

わたしはずっと気づいていた。みんな障害者が嫌いだと。車椅子に座って場所を取り、臭う糞尿を垂れ流し、拘縮した腕を突然振り回し、焦点の合わない目であらぬ方を凝視しては時折奇声を発する存在など、とてもじゃないが自分と同じ人間だとは思えないから、忌避したいのだとみんなの顔から読み取れた。

同時に大型の都市が健常者向けにしつらえられているのも知っていた。車椅子で出歩くようには造られていない。そのように造ってしまったら、あのカタワどもが我が物顔で闊歩するようになるんでしょう?ああ、恐ろしい。障害者が外を出歩くなんて。なんて醜い。昔なら座敷牢で一生を終えていた化け物共。

結構たくさんの善良な人たちが、本心を語らないだけで実はそう思っているんだろうなというのは子どもでも想像に難くなかった。「いつか自分が同じような障害者にならないとも限らないから障害者には優しくしましょう」と語る人たちも無数に見てきた。あれは表向き優しい呼びかけのようで、むごい。

「我々白人もいつ黒人になるか知れないから黒人に優しくしよう」と白人は言わない。「いつか君も僕も女性になるかも知れないから女性に優しくしよう」と男性たちは言わない。それが《障害者》なら言うことができてしまうのは、はなから障害者が人間と見做されていない証拠ではないか。(もし医者が「いつ自分も患者になるか知れないから痛くないように……」と言ったらわたしは疑う。自分が患者になる可能性がないなら、自分が永久に治療を受ける側に立たないなら、それを受けるのが常に他人であるなら、その非対称性に関心はないと告白しているようにも聞こえるから。)

皆どこかで、障害者を人外だと認識している。障害者の居場所は病院か施設か家でしょう?いつ死ぬ?じきに死ぬならドラマとして消費できるけれど、長く生きる障害者の話なんて興味ないな、そんなのグロテスクで関わり合いになりたくないよ、ねえ、あなたパラリンピックにはいつ出るの?いつ死ぬの?

姉に投げかけられる無数の冷ややかな視線と、藪から棒に励ましてくる知らない人たちの気色悪さと、こちらを指差す人たちの愉しそうな表情を、わたしはすべて覚えている。わたしは車椅子を押しながら、《あなたたち全員》が姉にしてきたそのすべてを記憶する健常者として生きてここにいる。

身体障害者が多数暮らすアメリカでは、バリアフリーが進んでいる。従軍し、負傷して帰還してそうなっているのだから、国が補って整えて当然だと皆思っている。

では、日本は?障害者はなんで障害を持つようになっちゃったんだっけ?

先天性なら「母親のせい」、後天性なら「気の毒だけどバチが当たったんだ」。
ずっとこう。何十年も。少なくともわたしの知っている過去三十年くらいは、日本の健康な人たちは自己責任論を語り、障害者を受け入れない理由を固めている。金をかけてバリアフリーを進めるなんてアホらしいと思っている。

わたしはうんざりし、げんなりしている。

みんな本音を大声で言って襲いかかってきたらいいのに。優しくなんてしたくない、障害者には死んでほしい、邪魔だどけ、点字ブロックも盲導犬も車椅子もなくなれって、言って殴りかかって来たなら、こっちもよくできましたって褒めて殴り返してあげるのにな。

わたしは自分含めた健常者も障害者も大嫌いで、世界中嫌いで、死ねばいいと思っていて、世界も滅びたらいいと思っている。そうなるに足るほど多量の悪意と蔑みを浴びて育ち、それほど姉のQOLに尽くした。

わたしにはスカートを履く子ども時代はなかった。車椅子を押して歩くにはズボン択一だから。またわたしは実家の近くにあるという小川に行ったこともない。車椅子では行けないから。そうやって、ありとあらゆる制約を味わって痛感して生きてきて、バリアフリーが実現された世界というのは局所的にしかありえないと悟って、諦めている。わたしたちはまだそんな時代に生きていない。

車椅子ユーザーが車椅子トイレ使おうとしてもセックスで使われてて入れない国で、どうしたら障害者への人外扱いが再生産されなくなるのか、正解を導き出すのはとても難しい。差別心・攻撃性ゼロなネオ人類に出てきてほしい。わたしには無理。やるとこまでやった。これ以上この難題に沈むと気が触れる。

そうして結局見えてくるのが、「子どもに家族介護させるのは、だめだよ」というわたしの本心だ。ヤングケアラーにならざるを得ない子ども、親きょうだいのために献身しないといけない環境なんてものは実際にはなくて、家族の形式を繕いたいだけの大人たちの、あれは巧妙な策略だ。

子どもは子どもの仕事をするべきだ。遊ぶ、考える、笑う、楽しむ。自分の体と心の辺縁を知り、自由の利く範囲で生きること。

姉もわたしもそれらの機会を奪われた。姉は先のない治療の道に押し込められ、わたしは姉の死によってしか途絶しない介護の道に押し込められた。

姉は何十年も絶望した挙げ句みずから死に、わたしはこの通り退廃思想の持ち主となった。世界が滅ぼせるボタンがあったら全然ためらわずに押せるような狂気を騙し騙し暮らすのを強いられている。すべては知らなくてもいい悪意にさらされ、多すぎる荷物を持ったせい。

障害者への悪意とヘイトはよろしかったらこちらにどうぞ。知らない子でも荷物多き子たちがとばっちり食うのは嫌だから。わたしはずっと、車椅子より小さいくらいの子どもの側に終始してるだけの木偶の坊。

類: 魚群を掻き分けて、車椅子を押して

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