自己紹介(幼少期:後編)
自己紹介(幼少期:前編)で小学生時代の記憶を辿りながら書いてみた。
自己紹介(幼少期:前編)
https://note.com/utchy/n/n8348c67e38e0
書いていて、色んな思いとか親と話していた何気ない言葉とか、思い出すと溢れてくるものが多かった。それをほんの少しだけ客観的に見て削いでいく…
きっと私がここ最近見てきたたくさんの自己紹介も、削りに削られた芯の部分、ろ過された本当に美味しい部分を見せていただいているのだと書いてて思う。そう思うとありがたいものを見せてもらえているという気持ちになれる。
後編は近所の市立中学に入学するところから始まる。
成績で褒められない良さ
中学生になってまず驚いたのは、入学して間もなく実施した学力テストの結果だった。
250人中2位…???
珠算が得意ということもあり、算数だけは絶対の自信があったけど、小学生時代の成績も普通で、決して頭がいいとは思ってなかった。もしかして頭いいのではないか?そんな気持ちになった。
親に嬉々として報告したが、家事をしながら「よかったわね~」くらいのものだった。この後も成績に関して話しても、親は特に関心がないらしく、いつもこんな反応だった。
私も成績で喜んだのはこの時くらいで、その後は成績に頓着しなくなっていった。褒められたいと思った一方、この後、成績で挫折した時でも反応は同じだったので、成績にプレッシャーを感じずに過ごせたのはよかったと思っている。
相模原という混沌を生き抜く
中学生に上がってからの記憶はゲームがメインになってくる。
PC-8801で行う三国志・信長の野望のコーエイ二大ゲームに、ドラクエに代表されるファミコン、そして小学生から通い詰めてたゲームセンターでのコインゲームも自分の青春の1つ。小遣いがあるだけコインを買って過ごし、お金が無くなったら家でゲームをするという大人でやってたらクズ間違いなしのひどい生き方だ。
なぜこんなクズになっているか?
ここであまり書くのはどうかと思うが、当時の相模原の治安や素行はあまりよくなった。特に通っていた中学は不良の巣窟だった。
暴走族は現役だし、カツアゲも日常だし、未成年が嗜んではイケないものを嗜む中学生もいたし、いつになっても嗜んじゃいけないものを嗜む中学生もいた。
同級生には横山光輝三国志全60巻を万引きで揃えて自慢してくる猛者もいたし、修学旅行の土産物売り場では「耳かきまでは万引きOK」の暗黙知の中、借り物競争のノリで皆がかばんに耳かきを仕舞っていった。
不良と呼ばれる中学生もたくさんいて、変に目立てば「いじめ」が待っている。
クリーンにホワイトに生きるのはとても難しい環境の中で、私はゲーセンにその素行の悪さを吐き出していた。
3年間ずっと学級委員、生徒会の書記もやっていて「真面目ゆえの悪目立ち」の危険がある中で、遊びを持ってバランスを取り、やっていくことが重要だった。そんな口実とともにゲーセンは生活の一部となっていた。
そんな窮屈な中学時代も学年を経るにつれ、徐々に遊びの時間が勉強時間に置き換えられていく…
競争を避ける人生のはじまり
高校は近所の公立高校に決めた。
老舗高校なので指定校推薦枠を豊富に持っており、自分の学力より1つ下の高校だったので推薦枠を狙いにいけるという理由で選んだ。あと、近いのが良い。
かつては珠算で、学力テストで「競争を楽しむ」素養があったが、学力とは無縁の「力の論理」で優劣が決まる中学三年間を生き抜く間に、競争が嫌いになってしまった…
高校受験も解答欄を埋めれば合格できる受験だったし、大学受験も高校に入る前から避けたいという思いが強くなった。その後、就活に至るまで「選ばれる」「競争する」という世界から距離を置く人生を歩んでいく。
高校時代、余っていた「嫌なヤツ席」に座った
高校時代は学力のレベルが段違いに上がって挫折した。一番自信のあった数学も最初の中間試験で20点を取り、自分の強みが何かわからなくなった。
いい人も多く、デキる人も多い。周囲のコミュニケーション力の高さ、バンドだのダンスだのの趣味の幅広さに嫉妬と挫折感を味わった。高校時代に入ったバドミントン部は強豪校ということもあって、ラケットをまともに握ることなく、筋トレを半年間やって退部してしまった。
学校生活は徐々にひねくれたものになっていった。学校が終わるとコインゲームに飽き足らず、パチンコに走った。ビギナーズラックもあり、お金に困らない高校生活を過ごした。確率を考えると恐ろしく薄いところを連日引いていたと思う。そっちの道に呼ばれていたのだと思う。勝ちすぎて、校舎から1000円札を放り投げて反応を見てたこともあった。
そのうち、土曜日になると図書館にあったスポーツ新聞を持ち出して、授業が終わると競馬場へ向かった。中学生から口実にしていた「クズ」は自らの意思により定着していった。
高校には良い人が多すぎた。そこに席は残ってないと思い込んだ。たくさん空席のある嫌なヤツ側にゆったり座っていた。高校時代にできた友人は1人だけ。体育祭も出欠だけ顔出して、あとは存在を消していた。
リアルな青春は大混雑していたので、避けて生きてた。「みんな一緒」が本当に嫌だった。
一人で向き合う勉強と演劇が青春だった
でも、勉強だけはひねくれずやり続けた。どうしても受験はしたくなかった。
伊集院光や松村邦洋のラジオを友に学校の成績だけは落とさずやり続けた。どうにか肝となる高校3年の1学期の成績を引き上げ、内申点を揃えた。
ラジオはもちろん、中学時代から「お笑いウルトラクイズ」「夢で逢えたら」といったバラエティー番組や「放課後」「愛という名のもとに」といったドラマなどテレビ番組も大好きで私の青春はメディアとともにあった。
メディアが好きすぎて演者に憧れた。部員ゼロで廃部寸前だった演劇部に2年の終わりから入部した。顧問の先生から露骨に嫌がられた。一人で活舌の練習を始めた。飽き足らず。新聞のラ・テ欄の下に広告が出ていたなんとも怪しい俳優養成所にも通うことにした。15万円の入所金で初めて父親と取っ組み合いの喧嘩もした。飯田橋のレッスンスタジオに週1で通う生活が始まった。
半年も通うとみるみるクラスは上がっていった。レッスン量も増え、月謝も上がっていった。とうとうデビュー一歩手前のクラスまで来たが、ここからデビューをした仲間はいなかった。せいぜいドラマのエキストラに何本か出たくらいだ。そもそも努力で報われる世界などではない。「やりがい搾取」なんて言葉は当時知らなかったが、今思えばまさにそれだった。
それでも、「この俳優、タバコ吸うんだ!」みたいなミーハー心は満たせるし、日当も出たので悔しい気持ちもあったが、満足していた。
高校3年の秋になった。
10月のある日、例によって三国志をやっている最中にかかってきた担任からの
「お前、中央大学の推薦決まったから」
の連絡で、私の念願だった受験からの逃避が完了した…
開放的だった小学生時代から一気に社会を知った。目立ちたいのに目立ってはいけないバランスを覚え、みんな一緒を嫌ってひねくれた青春時代を過ごした。徐々に溜まったマグマは演劇という形で噴き出し始めていた。
この高校時代の鬱屈した反動もあって、この後の大学生活でこのマグマが爆発する。続きは「自己紹介(大学時代)」にて。
皆さんの鬱屈した時代もまた、私は大好きです。
みんな違ってみんな特別な人生があるんだと思っています。
赤裸々なnoteを読むたびにそんな気持ちが湧いてきます…
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
<これまでの、この先の自己紹介はこちら>
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