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『汝、星のごとく』人間の弱さを見つめる物語


二人の視点から交互に紡がれる物語

 2023年本屋大賞受賞作、凪良ゆうさんの『汝、星のごとく』を読んだ。父親が浮気で出ていきうつ病になるほど傷心する母を持つ井上暁海と、恋愛依存体質で好きな男を追っかけては振られを繰り返すスナック経営の母を持つ青埜櫂の二人の物語だ。

 (今書いていて思ったけれど、暁海は明け方の海で、青埜櫂は、青い野原=海を櫂=オールで進む存在という意味なんだ。たしかに、作中でも、櫂が「暁海って瀬戸内の海みたいやな」って言ってたな。激動の櫂という船を優しく静かに包み込む存在が暁海だったということなのだろう。)

 物語は、暁海と櫂の双方の視点で描かれていく。学生の頃の同じ境遇を持ち悩みをシェアしあう共感の物語から、社会人になり、櫂は東京で売れっ子漫画家に、暁海は地本で母を支えるため定職になったときには、すれ違いの物語に変わる。櫂は多忙ながらも時間を見繕って(プロポーズの婚約指輪まで買い込み)お盆に地本に帰ってくるのだが、次々に来る緊急対応と書かれたメールやタスクを処理していたため何も連絡せずに暁海の待つ地本に帰ってきてしまう。暁海は、櫂から突然の帰省の連絡を受け、暁海側の事情を鑑みない櫂の態度にうんざりする。会った後も、大喧嘩をしてしまい、(その流れで言うのも最悪だが)櫂がプロポーズしても、暁海は自分をなだめるための仕方がなくしたプロポーズだと思い、逆に「別れよう」と切り出す。
 読んでいて面白いのは、暁海視点で描かれた物語では、完全に櫂は暁海に興味がないように見えるのに。櫂視点で描かれた話では、仕事の多忙さはあるにせよ、しっかり櫂は暁海のことを想っていたということだ。なので、読者からすると本当に歯がゆい気持ちになる。「仕事でどうしても連絡つかなかったことを言えよ!」「指輪まで用意してきたこと言えよ!」と思ってしまう。だけど、櫂の言葉はあと一つ足りない。もう一つ言葉を足せば、全然違った未来になったかもしれないのに。私は読んでいて、言葉をもう一つ足して、少しでも情報を付け加えることや自分の思いをより具体的に伝えることが、本当に大切なのだと改めて学んだ。

人間の捨てきれない「弱さ」を見つめる

 本作のテーマは、社会的に言えばヤングケアラーで、もっと踏み込むと「人の『捨てきれない』弱さ」についてである。自分の人生の幸福のために正論を振りかざすのであれば、櫂も暁海も、自身の重荷となっている母を切り離すべきである。それでも、どちらも母親を捨てることができない。

 作中、何度も出てくる言葉がある。これは、暁海の父親の浮気相手であり、暁海の憧れにもなる瞳子さんの言葉である。

「きみのは優しさじゃない。弱さよ」
「いざってときは誰に罵られようが切り捨てる、もしくは誰に恨まれようが手に入れる。そういう覚悟がないと、人生はどんどん複雑になっていくわよ」

 これは本当に正論なのだが、それでも切り捨て難いのが人生である。櫂も暁海も、結局は親を含めた色々な重りを切り捨てられないまま、どんどん辛く苦しい人生になっていく。

 切り捨てられないのは人間の本性である。親もそうだしパートナーも友達もそう。過去の経験や今やっている仕事も。本当は切り捨ててしまえたら理想に近づくことはわかっているのに、相手のことを想ったり、自分が今までそこにかけてきた時間を考えると、手放すことができなくなってしまう。手放すことが苦手なのが人間で、全然使ってないサブスクサービスも、何かと理由をつけて契約し続けてしまう。

 この問題に立ち向かっていくための方法を、この物語は提示する。

弱さを克服するために「愚かになること」

 一つは、「愚かになること」である。暁海が瞳子さんにある強さが自分にはないと話したとき、瞳子は自分は強いわけではない、強いんじゃなくて愚かになれただけ、と返す。

「どこ行きかわからない、地獄行きかもしれない列車に、えいって飛び乗れるかどうか」
「必要なのは頭を空っぽにする、その一瞬だけ」

 あえて愚かになること。これが弱さを切り捨てる手段なのだ。何かとの縁を切り離すとき、切り離された相手のこととか、この先に起こる問題とか、人は色々なことを考えてしまう。でも、あえてそこは無理やりにでも頭を空っぽにして、えいって飛び込むことが、自分を進ませるためには必要なのだ。

 タロットカードのNo.0が「愚者(The Fool)」であることもきっと同じ意味だ。正位置の時、カードは「解放」「果てしない自由」を意味する。逆位置の時は「無責任」「奔放」のような意味になってしまうけれども、これらの言葉はすべて他人から見られた時の言葉である。人が自由を掴むためには愚かになる必要があり、その時、他人からは非難の的とされるだろう。でもそんなのは「他人」の思っていることであり、自由のためには関係のないことなのである。

「互助会」で支え合うこと

 もう一つの立ち向かい方は「互助会を持つこと」だ。大切なものを背負い続けるにしても、それらを捨てて地獄行きの列車に飛び乗るにしても、それを一人で生ききることは、怖いし不安だ。でも、その不安に対して、手をつないで一緒に傍にいてくれる人がいたら人は安心できる。暁海は高校時代から頼りにしていた北原先生からの結婚という名目の互助会を受け入れる。

 互助会を持つことは、新しい縁を作ることであり、一見自由でいることと相反するのかもしれない。たしかに、縁を作ることはその人に重荷を課す。行き過ぎてしまえば二人の母親のように「依存」という形になるし、村の中で起こる気持ちの悪いほどの連帯意識につながる。一方、人はそうした繋がりを全て排除するにはあまりにも弱い生き物であるというのもまた事実だ。人は一人では生きていけない。

 踏み出す自由を教えてくれた瞳子さんもそこには同意する。一人で生きていくのではなく、何に縛られるかという自由があるということなのだと。

 人は気が付くと、色々な糸にこんがらかっている状態になってしまう。しかし、糸を全て取ってしまうと、自分を引っ張っていってくれるものがなくなってしまう。そうであるのならば、絡まる糸を選ぶ自由こそが人間に与えられた自由なのだと思う。

「花火」と「夕星」の意味

 最後に、この小説を象徴するオーナメントである「花火」と「夕星」についてだ。どちらも、夕方から夜にかけて空に輝く存在ではあるが、小説内における描かれる場面は異なる。花火が描かれるタイミングは物語が激しく動くときだ。海岸で二人が寝ているところを北原先生に見つかったシーン、櫂と暁海が喧嘩をし別れることになったシーン、そして瀕死の櫂と最後にようやく花火を見られるシーンだ。いずれも大きなタイミングなのだが、実際に二人が花火を見られるのは最後のシーンのみで、それまではなかなか見ることができない。

 一方、二人がずっと見ていたのが「夕星」だ。二人で浜辺で「夕星」を見た以来、今度はそれぞれの場所で、苦しい状況の中でずっと見ることになる存在だ。西の空の低い位置、夜と昼の狭間で輝く星。それは、まさに二人の混沌とした世界を強く儚く生きていく姿と重なる。ただそれはやはり低い位置で輝く星で、フラストレーションを表すものである。

 二人は、そんな「夕星」を見ながら、本当はずっと空に高く舞い上がり煌々とした光を思うがままに発する「花火」をずっと見たかったのだと思う。ずっとずっと暗いトンネルの中を頑張って進んできて、最後に大きな明るい光を見たかったのだ。だから、暁海は、今にも死にそうな櫂と花火を一緒に見たく、「早く、早く、上がって」と暁海は願った。一瞬だったかもしれないけど、二人は花火に包まれ、物語はカタルシスを迎える。


 改めて、本当に美しい物語であったと思う。凪良ゆうさん、凄すぎます。また、今回本を読むに際し、オーディオブックも活用しながら読み進めた。実際の本を読みながら、耳で物語を感じる体験は本当に素敵であるし、読書が苦手な人も最後まで読むことができると思う。ナレーターの柚木尚子さんと志村倫生さん、この本をオーディオブック化してくれたAudibleさんに感謝します。


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