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人が死んじゃったら、その人の味もなくなっちゃうんだな

今日、昔働いていた喫茶店に豆を卸してくれていた珈琲豆やさんが亡くなられていたことをやっと知り、まだお若かったので早すぎる死に驚いたのと、あの珈琲の味は永遠だと思っていたのに、もう二度と飲むことはできないんだな、と悲しくなった。

今までで、馴染みのお店の方が失くなってしまうことが初めてだったので、その人がなくなると、当たり前だけれど、その味も永遠に失われてしまうことに気がつかなかった。

ひともその人が作り出す食べ物も、全然永遠じゃないんだな。

当たり前にあった、いつでも注文できた豆。
当たり前だと思っていたから、久しく飲んでもいなかった。

豆を卸してもらう度に、いつもひと声ふた声しかお話したことはなかったけれど、軽やかな生き方に見えた焙煎士さんが亡くなったことはもちろん信じられないし、今でもひょっこりどこかから現れそうな、現実味のない感じがする。

誤解を招くかもしれないが、私にとってその方から直接受ける印象よりも、珈琲豆を通してその人のことをより多く理解していたような気がする。

だから、その人自身が亡くなったと聞かされるより、あの人の焙煎した豆の味は、もう二度と味わえないのだと思う方が、その人がこの世にもういなくなってしまったのだと、よりはっきり実感できる。


当たり前に楽しんでいる、お気に入りの食べ物の味がいかに自分の魂のようなものを癒して、元気になるよう支えてくれているのかよくわかった。

そして人の作り出すもの、それが食べ物であっても、身につける物でも、その人を写す鏡のように、時にその人から直接受ける印象より強く、ものにその人自身の色が写し出されているものだ。

その人自身人が死んでしまっても、本や絵のように残るものもあるが、特に食べ物は一瞬でその人と共にこの世から消えてしまうので、今お付き合いしている大切な味を、より尊いものだと再度認識したい。

そして、自分自身が菓子を作る者として、作り出したものに宿る自分の色が淀んでいないものであるように、自身を整えておきたい。

目に見えないけれど、きっと人の作り出すもの全てにわたしは、たましいのようなものが宿るのだと信じている。

私が作る菓子は何色だろうか。
濁りのない、澄んだ、暖かい色であることを願う。

天国でもラフな出で立ちで、豆を焼いていそうなKさん。
またあなたの珈琲が、いまとてもとても、飲みたいです。


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