わたしと芝居
人のために…と生きてきた。
誰かが喜んでくれる姿を見られることが嬉しかった。
それがいつの間にか「自分を犠牲にする」ことにすり替わっていった
人のイライラや不満や不快が、
小さな機微が、わかってしまう。
誰かが不満なことや、誰かが我慢していることがわかってしまう。
そうすると、自分がやる、と申し出てしまう。
それが、人に貢献することだとおもっていたし、
喜んでもらえるものだと思ってやってきた。
でも、それをやることが当たり前になったり、
なんの反応もないと悲しい気持ちになったし
自分自身の不満は募った
「ありがとう」ではなく、
「これもあれも」と重なっていき
それがこの人のためになるのなら…
と受け止めた先に「見返り」がないと苦しくなった
いつの間にか、
ただNOが言えない人になっていった。
それでも誰かがわたしを見つけてくれて
労ってくれて
いつも頑張っているよ、あなたはすごいよ
と言ってくれることを期待していた。
でも、求めているものはやってこなかった。
ありがとうと言われたかった、
頼りにして欲しかった
あなたがいるから…と言われたかった
心底から大事にされたかった
でも、欲しい言葉はひとつももらえなかったし、
自分勝手に好きなように生きている人の方に
人は集まった
虚しくて苦しくて惨めで
どうしようもない気持ちが身動き取れなくなっていった
ただただ、苦しかった。
それでも、「断る」「怒る」「苛立つ」という
一般的には負と捉えられる表現(自分で勝手に決めつけているだけだったのだけど)や行動ができない
そういう感情を、相手にぶつけられない。
気づくとへらへら笑ってしまって
奥の方の自分が傷ついているのを無視する日々。
欲しいものを欲しいと言えない、
手を伸ばすことを躊躇ってしまう、
なのに嫌なことはたくさん回ってくるようになる事で(もちろん、自分で選んでいるのだけど)
自己肯定感もどんどん削れていく。
自分で自分を否定しまくりながら、誰かが肯定してくれるのを待ち続けてしまっていた。
そして、わたしをいじったりバカにしてきたりする、
「楽しいコミュニケーション」を
表面上は笑ってもどんどん受け入れられなくなっていく。
自分を守るような、謎で不要なプライドだけがニョキニョキ育っていって、より一層めんどくさい人間になっているのが自分でもわかって本当にしんどかった。
そんなことを思う日々の中で、あるとき、
「わたしは「人のために」と思ってきたけれど
結局自分のためにやってしまっていたのか…」
と気づいて愕然とした。
わたしはわたしが可愛いだけだった
そう気づいた時、どうしてもそれを認めたくない自分がいた。
だけど確実にそうだった。
それともうひとつ、気づいたことがあった。
自分の人生なのに、自分の船なのに、
人に舵取りを任せてしまっていた、ということ。
「誰か」の評価が全てだった
「誰か」の感情や言葉に自分が左右されていた
自分が思った通りの反応がない時に落胆し、
思った通りの反応があると嬉しい…
わたしの喜びも落胆も、他人次第で変わってしまう毎日だった。
違うよな…
わたしはわたしの意思で、わたしの手で、
人生の舵取りをしなければ、こから行く先も人に左右されてしまうよな。。。
そう気付いた時、
変わらなければ、、、変わりたい
と、強く強く思った。
その日から、わたしはわたしの人生
自分で責任を取る覚悟を持った。
自分ではコントロールできない
「他人の気持ち」に、自分の全てを委ねるのをやめた
生活や行動の主語が、
「誰かが」ではなく
「わたしが」に変えていくようにした
「誰かのために」ではなく
「自分のために」生きる
その先に「誰かの幸せ」が繋がっていくよう
練習をし始めた。
一気に生きやすくなった。
わたしの人生は、
わたしが作っていく。
わたしの手で、作っていくことができるんだ、
そう思えるようになっていった。
そうしてわたしは
28歳でお芝居を始めた。
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