生きづらさを自覚した話。
「生きるって難しいね。」
つい、そう呟いてしまうことがときどきある。
世の中で「生きづらい」という言葉を耳にするようになったのは、いつ頃からだっただろう。
わたし自身その感覚を覚えたのは、たしか大学生の頃だった。
大学を中退しフリーランスになって3年目の今も、ますますそう感じている。
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実際のところ感じていることを、つらつらと書き出してみました。
枠内は、気になる方はサラッと読んでみてほしいのですが、しっかり読まなくても大丈夫です。
(内容はあくまでわたしの経験や主観です。)
今思い返せば、昔から「もうこんな自分いやだ」と言いながらよく泣いていた。
笑い話で済むようなこともあるし、仕組みで解決できることももちろんある。けれど、どちらにせよ小さなストレスが積もり積もって大きな心の重りになっていることも多かった。
こんな特性を抱えながらこれまで生きてきた自分を、まずは褒めたいと思う。
自分をこのような名前に当てはめることができたときは、それこそ涙が溢れて止まらなかったのを覚えている。
今から3年前くらいだろうか。何かをきっかけにネット上でADHD診断とやらをやってみると、よく当てはまった。
HSPも、睡眠障害の病院の診断のときもそう。
今までやり場のなかったやるせなさや自己嫌悪に、ようやく理由をつけてもらえたことにほっとして、しばらく泣いた。
今まで嫌いだった自分を、ゆるせた気がした。
こういう特性が一般的に認知される時代になってきて本当によかったと思う。そうでなければきっと、ただただ自分は、みんなが普通にできることもできない劣った人間だと思って生きていただろうから。
なお、こういうことを自覚したときに必ずと言っていいほど登場するのが「でも、わたしよりもっとつらい人はいる。」という発想だ。
これが登場すると、厄介だ。苦しいという感情に蓋をしがちになる。
けれど、わたしが生きづらさや苦しさを感じているということは誰と比べる必要もなく事実なのだ。
そのことはいつも自分に言い聞かせたい。
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そんなわけで今は、自分のそれらの特性に合う働き方を選ぶようにしている。
フリーランスとして一人で働いていれば、人間関係のストレスはほとんどなく、過眠症の症状で誰かに咎められることもない。
できるだけ、自分の心地いい場所を選び、好きな時間帯に働けるような環境を作っている。
共感力があるがゆえに心が疲弊してしまう仕事は辞めた。
今は、写真や言葉を扱うなど、感受性の強さがいかせる分野に注力して活動している。繊細な感性があるからこそ作り出せる自分の作品は、とても気に入ってる。
もちろん、こんな働き方を選ぶことにリスクがなかったかと言われると、そんなことはない。合わない仕事を辞めたことで収入も減ったし、正直今だって不安だ。こんなわたしでこの先どう生きていこうかと途方に暮れることもある。
けれど、たとえどれだけリスクがあっても、わたしは自分の心をすり減らしながら生き続けたいとは思わない。
ここまでよくがんばってきた自分の心を、大切に扱ってあげながら生きていきたい。
わたし自身に、もう無理はさせたくない。
なるべく心地いい場所で、自分の特性を最大限いかせる環境で。
「生きるって難しい」と何度も言いながらも、そんなわたしを受け入れ続けるしかないのだから。
わたしだからできることがある、寄り添える人がいる、伝えられる言葉がある。そう信じて生きていくしかない、と思っている。
noteを書き始めたのは、それが理由です。
わたしだから届けられることがあると信じて、これから文章を綴っていきたいと思います。
初めてのnoteからこんなに無防備に自分をさらけ出すことに、もちろん抵抗もあるし、こうやって書いたところでただわたしの嘆きの声を誰かに聞いてほしいというエゴでしかないのかもしれない、とも思う。
だから今まで表に出さずに守ってきた。
でも、まだ24歳だ、わたし。
守りの体制に入るには早い気がするのです。
もっとさらけ出して、恥もかいて、失敗もしなきゃ。
そう思い切って書きました。
もしかしたら、わたしの嘆きが誰かの救いになることがあるかもしれないし。
そのときはぜひ、一緒に嘆きながら生きていきましょう。
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