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揺れ動く世界でどうしようもなさを抱えて。


数日前、立て続けに大きな地震が起こった。

と言っても、わたしの住むところから震源は遠く、揺れを感じることもなかったので、ネット上でその事実を知ったに過ぎないのだけど。

それでも、心はざわついていた。
なにせ、わたしの住む家は海のすぐそばにあり、近くで大地震でも起これば何かしら影響を受けるのは免れないと思っている。
今回に限らず、以前から海が好きでよく全国各地の海沿いのまちに足を運んでいたこともあり、そのたびに地震や津波のことを考えさせられていた。
いつどこで巻き込まれるかわからない。


地震のあった日、ある程度現状を知りたくてスマホを開いただけだったのに、アルゴリズムのせいか、SNSのホームはあっという間にフォローもしていない人の地震にまつわる投稿でいっぱいになった。

恐怖の声、人を疑い警戒する声、生きることの諦めにも近い声。
人の心の弱さや不安定さが文字となって、次々と目に飛び込んでくる。
SNSに引っ張られるように沈んでいく気分をどうすることもできず、次第にその重さに耐えきれなくなり、その日はそっとスマホを閉じた。


どうにも拭いきれない不安。

死ぬことが怖いのではない。
お気に入りのお皿が割れてしまうことでもない。
被災後の生活や仕事を想像して不安になっているわけでもない。
家族や親しい人が被害に巻き込まれるのではという心配はあるけれど、それ自体が今の不安を引き起こしているのでもない気がする。

見えない大きな存在に怯え、よりどころを失って弱りきってしまった人の心がザワザワと集まって姿を現し、日常を静かに覆う。
そんな不気味な存在をそばに感じたまま、それでも何も変わらないかのように平然と日常を送ることしかできない、違和感と居心地の悪さ。
おそらく、そういうモヤモヤが心を不安定にさせていたような気がする。


そうは言いつつも、わたしたちは生活を続けていかなければならない。
買い物に行かなきゃいけないし、予約していた歯医者にも行かなきゃいけない。メールも返さなきゃ。
そうやってみんなやるべきことに追われて、次第に怯えていたことすら忘れていく。
恐怖はいつもすぐそこにあるはずなのに、その存在を忘れて(あるいは忘れたフリをして)生きていく。そうするしかないのだ。

結局わたしたちにできることは、今を懸命に生きることだけなんだと思い知らされる。

行きたかった場所に行く。会いたかった人に会う。
家族や友人や好きな人と、おいしいご飯を食べて、冗談を言って、笑い合って。
こんな時間が永遠に続かないことにときどき胸を締め付けられながら、どうしようもなさを抱えて、今を大切に生きるしかない。


今朝、海の見えるカフェに行って、ずっと読みたかった本を読んだ。
不安な気持ちなど一瞬で拭ってくれる清々しい青空に、絵に描いたように穏やかな海。
どんなに恐怖を孕んでいようと、やっぱり海が好きだ。

日曜日でお盆も近い今日、家族連れやカップル、お年寄りのご夫婦、みんながそれぞれの時間を幸せそうに過ごしていた。

隣の席のおばあちゃんが誰かにビデオ通話をかけている。
「見て、よく海が見える。」と嬉しそうに話すおばあちゃんの笑顔に、どうしようもなく救われた。





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