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川畑清さんの思い出

東京でシマウタ普及伝承活動を支えてきた川畑清さん。太原俊成さんの回想録音から、懐深い人物像とジーンとくるエピソードを書き起しました。

戦時中はねシマグチ、シマウタは絶対するなよって言われていたものだから、三味線はね、弟にあげて東京に行ったんだ。でも、まあ、根が好きだからね。古仁屋会に行ったらね、油井の人が三味線持って来ていたから、その人に三味線借りて弾いたわけ。

それでみんなにパーッと(※評判が)広がってね。それで、しばらくその人に借りて弾いていたけど、笠利の川畑さんという方が「太原君、ちょっと車に乗れ」って言うから乗ったら、沖縄の人が三味線を二つ持って来ていてね。(何するんだろな?)と思ったら「これ、どっちがいいかな?自分、弾いてみ」って言うから、弾いたら「これ、持って行って弾け、弾け」って言うわけ。

持って行けったって、金足りんから「お借りして行きます」って持って帰ったの。しばらくしてからクリーニング屋の奥さんに返した。「ありがとうございます。」って。その人がお金取らんからね、おうちに行って奥さんに渡したわけよ。「三味線買うのにお金をお借りしましたんで」って。

その人(※川畑清さん)も三味線弾くんや。なぜかというとそこのうちは行くのが初めてでしょ。だから交番へ行って聞いたわけよ。「ああ、川畑さんね。いつも日曜日になったら二階で三味線弾いてるよ。」って(※警官が)言ったから、それでわかったんだ。ほんとうに立派な、いい方ばかりに恵まれていたね。

<注>

1.(※ )内は筆者追記。

2.川畑清さんについて。
奄美芸能無形文化財保存協会事務局長
東洋ランドリー(株)取締役社長
「明治四十四年(一九一一」二月十日笠利・宇宿生まれ。赤木名高小を卒えて、教員を目指して郷校の小使をしながら勉学に励んだが、昭和二年(一九二七)十七歳のときに二十二円の貯金を懐に上京。芝区の横沢洗濯屋で小僧として修行をしながら、夜間は村田簿記学校やクリーニング専門学校で技術と実業を学び、(中略)戦後いち早く、洗濯機とアイロン一台をもって自立開業したのが東洋ランドリーの始まり。終戦直後従兄の橋口良秋らと「奄美連盟」を結成して同胞救済活動を展開。その後の復帰・復興運動や奄美会活動でも八面六臂の活躍。とりわけ三十六年(一九六一)には奄美芸能無形文化財保存協会を発足させて事務局長となり、芸術祭参加実現など郷土芸能振興の面でも尽力した。昭和四十五年八月四日五十九歳の若さで他界した。(『奄美(しまんちゅ)の群像』右田昭進著より)

3.タイトル写真は昭和38年日本歌謡学会創立大会出演時の記念写真。前列中央が川畑清さん。同じく前列の三味線を持っているのが太原俊成さん。

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