コチ 3-1
ジイさんの葉の隙間からチラチラと光が覗く。
「なあ。ホリデイ。お前はどこに行ってしまったんだよ。あの蕾は花を咲かせたよ。とてもよく笑う花だったよ。」
ジイさんの緑の葉が朝のできたての雫でキラキラ光る。
ぽつりぽつりと落ちる水滴、コチが上を見上げると突然ガサガサと上から何かが降ってきて、コチの目の前を通過した。
鈍い音が地面に響く。
「え、なに?」
コチは恐る恐る遠い地面を覗いた。
「なに?」
得体の知らない生き物が頭をさすっていた。
その変な生き物は辺りを見回し、そして、コチの視線に気づき、不思議な事に消えてしまった。
尻尾だけを残して。
「なに?」
尻尾がジリジリとコチのいる老木を登り徐々に近づいて来る。
消えたはずの自分を追いかける視線に違和感を覚えたのか、そいつはやっと自分の尻尾が消えていない事に気づいた。
そいつは急いで尻尾を消した。そして、今度は尻尾以外の体が浮かび上がった。
「なんて、変なヤツだ。」
コチは、そのへんてこな生き物からいつでも逃げられるように身を構えた。
へんてこな生き物は見られている事に気が付いて再び慌てた。
「もう。なんなんだよ。私の体は!」
突然へんてこな生き物は嘆いた。そして、逃げようとするコチを呼び止める。
「ちょっと待て。ちょっと待てくれ。逃げるな。逃げるな。」
「なに?俺に言ってるの?」
コチはそのへんてこな生き物に言った。
「君しかいないだろ。君も自分が消えているとでも思っているのかい?私は君に用があるんだ。まあ、こんな形で会うとは思っていなかったんだけどな。なんかこう、もっとこう、あれだ。スマートにやるはずだったんだ。まあいい。」
「じゃん。」というとそのへんてこな生き物は全貌を現した。
まあ、尻尾以外が見えていたんだからコチは何も驚きはなかった。
コチは微動打にしなかった。
「なんだよ。もっと驚いてくれよ。君にはサービス精神ってものがないのかい?」
コチは黙ったままそのヘンテコな生き物に冷たい視線を送っていた。
「はい。じゃあ。仕切り直しです。さあ、私は一体誰でしょう?わかるかい?」
コチは疑わしそうな目をして静かに首を振る。
「そう。私は、カメレオンだ。でもこれは本当の姿ではない。騙された?まあ、焦るなって。ここからが本番さ。これは私の仮の姿。本当は、一体何でしょう?」
コチは静かに首を振る。
「難しいかな?じゃサービスヒントだよ。『お待たせしました。』もう分かっちゃったかな?」
コチは黙ったままカメレオンに冷たい視線を送っていた。
「おいおい。嘘だろ。どれだけ勘が鈍いんだよ。ヒント2だ。『それは君だけが知っている事だ。』はい、もう一回聞くよ。私は、一体何でしょう?」
コチは静かに首を振る。
「また、また。ご冗談を。」
「だから、知らないよ。しつこいなお前。早くどこかに行けよ。」
「失敬だな、君は。君が呼んだんだぞ。」
「だから知らないって、何かの間違いだろ。」
「おい。嘘だろ。じゃあ私はどうなってしまうんだ。このままじゃ、本当に消えていなくなってしまうのかい?おい。君。ちゃんと真剣に考えてくれているのか?」
コチは、まじまじとそのカメレオンを見つめて、ゆっくり首を傾げた。
「だから嫌だったんだ。私は反対したんだよ。なんでこんなちっぽけな虫のために・・」
カメレオンはイライラした表情で、ちっぽけな虫を見ていた。
「もうお前いいから、どっかに行けよ。」
イライラしているのは、コチも同じだった。
カメレオンは、観念した様子でちっぽけな虫に言った。
「じゃあ、鈍い君に最大のヒントをあげる。こんな事滅多にないからね。スペシャルサービスだ。『君の願い』は、なんだい?」
願い?コチは、改めてカメレオンに不審な眼差しを送っていた。
まるで、怪しい蜘蛛の巣に誘導されているような気分だ。
空ではチカチカと太陽がほくそ笑んでいる気がする。
甘い言葉の裏にある危険は知っているつもりだ。
「わかった、わかった。俺を食べるつもりかい?残念ながら俺は不味いらしいよ。だからさ、他に行った方がいい。」
そう言って、コチはカメレオンから距離をとって、老木の葉っぱの茂みの上の方へと飛んで行った。
コチが下にいるカメレオンを覗くとカメレオンはまた尻尾だけになっていた。
尻尾がまたコチの方に近づいてくる。
変身がへたくそなカメレオンは、しつこかった。
「おい、また、尻尾が消えていないぞ。」
コチは、呆れた様子でカメレオンに言った。
「あっ」とカメレオンは、消えていない尻尾を確認した格好の全身が現れたかと思うとそのまま足を滑らせ地面に落ちていった。
ひゃっはー。
コチは、落ちたカメレオンを見て腹を抱えて笑った。
「見ろよ。ホリデイ。」
太陽の下で笑う時にはいつもホリデイが隣にいたから、ついついコチは口を滑らせた。
コチはすぐに訂正するようにジイさんに話しかける。
「今の見た?ジイさん。間抜けな奴だな。あいつ一体何者なんだよ?」
ジイさんは答えず黙ったままだった。小鳥がチュンチュンと緑に隠れて鳴いている。
緑に移りゆく光が流れていた。
気がつくと、頭をさするカメレオンの周りには一定の距離を置いて多くの鳥や虫たちがその周りを取り囲んでいた。
なぜなら、カメレオンは人間の作る趣味の悪いネオン街のように頭をさする動作に合わせてチカチカと全身が色取り取り色を変え発光していたのだ。
カメレオンは集まる視線を感じ「はっ!?」と再び姿を消した。
尻尾だけを残して。
カメレオンは尻尾にたくさんの視線を集めて再び老木をよじ登りながらどんどんコチに近づいてくる。
コチは、近づくカメレオンの尻尾とそれを追いかける多くの視線を察知しぎょっとする。
「待て。待て。待てよ!来るなって。」
コチはなんとか突進する勢いで近づくカメレオンを必死に止めようとするがその術は思いつかない。
ここにあんなにたくさんの生き物が集まっていたのかという程に、カメレオンの動向を多くの観衆が見守った。
「分かった。願い。願いだろ?ホリデイだ。ホリデイを探してくれ!それが俺の願いだよ!」
コチは叫びながらカメレオンに願いを伝えた。
するとピタっとカメレオンの足が止まった。
正確には尻尾が止まる。
「ホリデイ?」
宙に浮いた尻尾が聞き返す。
「そう。ホリデイだよ。白い蝶だよ。そいつを探してくれ。」
尻尾はくるくる巻いた尻尾を伸ばしたり巻いたりを繰り返していた。
「そう。」
きっと、ぽりぽりと頭を掻いているのであろうカメレオンは「はーい。ご注文承りました。」と言って本当に消えた。
「なんなんだよ。あいつ。」
コチはそのままカメレオンの消えた跡を見つめていた。
そして、視線を感じた。
まだ多くの観衆がカメレオンがいたその跡を見つめていた。
3羽の小鳥が我先にとカメレオンの尻尾が消えた場所に詰め寄り不思議そうに観察を始める。
コチは見つからないように息を殺して小刻みに足を動かし薄暗い木陰に移動した。
「あいつ。本当にホリデイを見つけてくれるかな?」
コチはジイさんに聞く。
ジイさんは優しく緑を揺らした。
「ホリデイはまだあの花に会いに行っていないみたいなんだ。おかしいよな?ホリデイは絶対に行くべきなんだよ。あの花の笑顔を近くで感じることができるんだから。世界がひっくり返るような笑顔なんだよ。」
ジイさんは優しく頷く。
木漏れ日が、やたらとコチを覗く。
コチは、何度も影に体を移動した。
いつの間にか太陽が赤く燃え西の空に沈もうとしていた。
結局、今日もホリデイはやってこなかった。
コチはじっとしていたせいで固まっていた体をほぐしながらいつものようにジイさんに今日の出来事を聞いていた。
ジイさんはゆっくりと風に揺れながら優しく話す。でもジイさんの言葉が耳に入らない。
なぜならコチの心がソワソワしていたからだ。
太陽が世界から完全にいなくなるとコチの心臓の鼓動はうるさいくらいにドンドンと鳴っている。
いつもいるかいないかわからないのに肝心な時はやけにその存在を主張してくる。
コチは心臓の鼓動を無視しなるべく自然に身支度を整える。
そう。
正直に頭の中を開けば頭の中はあの花でいっぱいだった。
夜ならまたあの花に会いに行ける。
だからソワソワしている。
でも、それを簡単に認めないのがコチだ。
コチはいつものように夜の散歩に出かける。
月の光がコチの道標だ。
街灯の光は中継地点。
月が雲に隠れてサボったりしていると跳ぶ方も気が気じゃない。
道に迷ってしまう事があるからだ。
夜の散歩だって危険がいっぱいある。
一番厄介なのは人間の住処に入ってしまう事。
人間の住処に入ってしまって戻れなくなった奴はたくさんいるらしい。
自動販売機の顔も知らない奴が語った事だからあてになるかはわからないがそいつが人間の住処から戻ってきた話を聞いた事がある。
もちろんそいつの実体験かは怪しいところだが、聞いた時は身震いした事を覚えている。
はて、そいつはどうやって戻ってきたっけ?
だから、夜の散歩だって真面目に取り組まないといけない。考え事なんてしていたら人間の住処の光に飲み込まれてしまう。
コチは、大丈夫。いつもと変わらない。
いや、平然を装っているだけだ。
頭の中は、あの花の事でいっぱいだ。
「ギャー」
闇をつんざくような悲鳴が聞こえると、コチは眩しい光に包まれた。
強い光に視界がぼやけているコチは下で悲鳴を上げうごめく2体の大きなボヤっとした塊をなんとか捉えようとしていた。
慌ただしい動きだ。
徐々に視界が戻ってきて、コチは愕然とした。
やってしまった。
ボヤっとした大きな塊は徐々に輪郭を捉え人間を映し出した。
どうやら、コチは人間の住処に入ってきてしまったらしい。
悲鳴を上げた人間は、蛍光灯に止まるコチを憎々しく睨んでいた。
そして、あたりを見回し雑誌を手にするとまだ読みかけだったのかその雑誌を再び机に戻し、新たな武器を探し回った。
身の回りには、程度の良い武器は落ちておらず、叫び声を上げた高い声の人間は低い声の人間に怒りをぶつけながら武器を探すように促した。
渋々、ソファから立ち上がる低い声の人間は別の部屋へと消えていく。
相手が一人になるとコチは今だと羽を動かした。
月を目指せ出口はそこだ。
コチは必死に羽を動かした。
とにかく早くここから出ないといけない。
何度もコチは月に頭をぶつけた。
何度頭をぶつけても人間の住処から出ることできない。
コチ、それは私じゃなくて蛍光灯だ。
窓の外で心配そうに月が覗くがコチはまだそれに気がつかない。
コチが必死に羽を動かすたび高い声の人間は甲高い悲鳴を上げた。
その奇声はコチにここにいてはいけないという思いを強くし焦らせた。
何度も頭をぶつけるがコチは蛍光灯の存在に気づかない。
そして、慌てた様子でもう一人の人間が武器を持ち戻ってきた。
チラシの束を丸めた武器を誇らしげに掲げたが、声の高い人間の評価は低かった。
声の高い人間の指示のもと低い声の人間はその武器をコチ目掛けて振り下ろす。
及び腰で放った一発はコチを捉えることは出来なかった。
高い声の罵声が轟く。
コチはほっと肩を撫で下ろした。
「お前。そこで何やっているんだよ?」
コチは月に言った。
お前だろ、と月は思ったに違いない。
コチはやっと窓のカーテンの隙間からコチを見つめる月を見つけた。
コチはすぐに窓を目指した。悲鳴が鳴り響く中、コチは飛び、カーテンの隙間を通り抜けて、そして再び頭をぶつけた。
窓はすでに閉められていた。
透明な窓ガラスを這ってみても、出口はなかった。
そして、気づけばコチはいつの間にか人間の目線の高さにいた。
「次は外すなよ!」と訴えかける高い声のプレッシャーを背中に浴びながら、大きな人間は武器を片手に振り上げ、コチにそーっと近づく。
コチはカーテンの後ろに移動した。
姿を隠したコチに向かって、逃がさぬように人間はカーテンの上から何度もチラシで作った武器を振り下ろした。
バンバンバンと部屋に鈍い音が響きわたる。
窓の外から、月が心配そうに覗いている。
「カーテンが汚れるじゃない!」
きっとそんな事を言ったのだろう。
冷静さを取り戻した人間は武器を捨て恐る恐るカーテンをめくった。
コチの姿はなかった。
何度も叩いたところを確認するも、潰れたコチの姿はなかった。
ガミガミと苦言をいう高い声を背に低い声の人間はできる限りのことはやったと不貞腐れながらソファに座りリモコンを手に取り、テレビのチャンネルを変えた。
殺伐とした空気をテレビの賑やかな音が濁らせた。
コチはソファの横にある小さな部屋にいた。
部屋と言っても格子状の柵で覆われた小さな檻だ。
コチはそこから人間の行動を見守った。
狂ったようにカーテンを叩き続けた人間。
もちろんカーテンが憎かった訳ではないことくらいコチには分かった。
怯えたようにカーテンを覗く人間。
本当に怯えているのはコチの方だった。
こんな小さなコチの存在も許してはくれない人間。
何者の侵入もこの住処では許されないのであろう。
とりあえず、今、目の前の危機は乗り越えたようだった。
ぎくしゃくした二人の間の空気はまだ危機的な状況かもしれない。
なんとか落ち着きを取り戻しコチが辺りを見回すと見たこともない生き物と目があった。
今日は得体の知らない生き物とよく会う日だ。
この檻はこいつの部屋なのか、そいつは、怯えたように檻のすみで震えながらコチを見ていた。
だから、怯えるのははコチの方だ。
そいつは、長い耳をピンと立てこちらを伺っている。
人間はこちらの様子には気づいていないようだ。
コチが少し羽を動かすとそいつはビクンと動き、助けを求めるかのように檻をカリカリと叩いた。
コチは人間に気づかれないようにそっと身を隠す。
カリカリと音を出すその必死な生き物に対して人間は知らん顔。
「助けてくれ」とカリカリと檻がなる。
「ポン太!」
人間がポン太にうるさいと一括した。
ポン太は、この生き物の名前らしい。
ポン太はそれでも檻を叩いた。
「俺が、でかい図体したお前を食べるとでもいうのか?」
ここにいる連中は、小さいコチに対して過大評価しすぎる。
うるさいポン太に対して、カランと餌箱にクッキーが投げ落とされた。
求めていた事はそんな事ではない。
コチでもそれはわかった。
どうやら、ポン太は人間と話す事ができないようだ。
コチは、ようやくほっと一息つく事が出来た。
ポン太はきっとこちらに危害を加えてはこない。
あんな怯えた生き物はさすがに見た事がない。
ポン太は、カリカリする事の無意味をようやく悟ったようだ。
じっとコチを見つめ、落とされたビスケットをちらっと見た。
怯えていても食欲はあるようだ。
だんだんとポン太の視線はコチよりも餌箱に転がったビスケットに時間を注ぐようになり、ポン太は恨めしそうにコチを見つめるようになる。「食べたきゃ食べればいいだろう。」とコチは思う。
いるだけで加害者になる事にはとうに飽き飽きしているつもりであったが、やっぱり腑に落ちない。
でもコチはポン太の視線に嫌気がさし、がビスケットを取れるように少しづつ餌箱から離れるようにゆっくり移動した。
慎重に移動しながらも少しでも羽を動かすものなら、ポン太は後ろに仰け反りながら驚くものだから、少しの距離の移動も大分時間がかかる。
でもポン太から見えないところまで遠くに行けばそれはそれでポン太を不安にさせるだろう。
見えない恐怖っていうものはコチも理解している。
しかし、どうしてここまでポン太に気を使わなければならないのか、コチが離れ、動かないか疑いながら何度もコチの様子伺うポン太はのそりのそりと餌箱に近づきビスケットを咥えてすぐに檻のすみに戻った。
そして、すぐに鋭い目でコチの位置のズレを目で測り、動いていない事を再確認。
ビスケットを一口だけかじった。
ビスケットの味により少しだけ落ち着いたのか、ビスケットをかじりながらポン太の耳が少し垂れ身体の強張りが抜けていくのがわかった。
少しするとコチの耳に鼻歌が届いた。
もちろんコチの知らない歌だ。
ビスケットをかじりながら鼻歌を歌うのが、ポン太のいつもの癖なのだろう。
自然と歌っていたポン太は何かを思い出したのか、突然停止した。
ポン太は鋭い目でコチを再確認すると、動いていない事を知り、また、ご機嫌に歌い始めた。
少しでも動く事に気を使うこの場所でコチはどうやってここから抜け出すかを考えた。
そういえば自動販売機の上で話していたあいつは人間の住処からどうやって抜け出したのか?コチはやっぱり思い出せなかった。
情報があっても肝心な時に出てこない。
自動販売機から生まれた話はどうも肝心なことがボヤける。
ポン太の檻からはテレビと月がよく見えた。
透明なガラスの向こうにある月、もう一つガラスの向こうからは賑やかな映像と音が漏れる。
月はとても遠くに行ってしまった気がした。
格子状の檻はなんだか蜘蛛の巣を思い出した。
でもあの時とは、少し違う。
コチはどこかで何とかなるって思えた。
少しホリデイの楽観主義が感染したのかもしれない。
またどこかでホリデイが現れる気さえした。
「ホリデイはいなかったぜ。」
突然声がした。
すると、再び尻尾が現れ徐々にカメレオンの全貌がコチの前に姿を現れた。
カメレオンは、人間とポン太が観る華やかなテレビの前に齧り付いた。
どこか、憧れの表情だ。
カメレオンは少ししてため息をついた。
カメレオンはとぼとぼとコチに近づく。
ポン太と人間には、見えていないのだろうか?
いや、そもそも人間はテレビを見ず自分の掌ばかり見ていたし、ポン太はテレビの内容に集中していた。ポン太はコチをチラッと見ては、テレビ番組の内容に置いてかれないようにしがみつくように見ていた。
「ホリデイがいなかったってどういうことだよ?」
「いないっちゃ。いないって事だろ。そんな事より、君、嘘ついただろ?君の本当の願いは、ホリデイを探す事じゃないだろ?」
カメレオンは、うんざりした顔でコチに聞いた。
「願い、願い、ウルサイな。俺の願いは見ればわかるだろ?ここから出してくれよ。」
カメレオンに負けないくらいうんざりした顔でコチは言った。カメレオンはキョロキョロと周りを見渡す。
「それは君の本当の願いじゃない。勘違いはするなよ。私は便利屋じゃないのよ。ホリデイの件はサービスだ。でも、もうこれ以上は無理。君は見ようとしていない。そんな君には付き合いきれないのよ。」
呆れた様子のカメレオンにコチは苛立ちながら答えた。
「知らないよ。お前が勝手に俺の前に現れたんだ。それよりもホリデイは一体どこに行ったんだよ?」
カメレオンはコチの質問に答えることなく再び消えた。
「あ、また消えやがった。」
もう驚くことはなかった。そんな事より目の前に映るテレビの方がよほど信じられない光景だ。
「ホリデイがいないだって?あいつ勝手な事ばかり言いやがって。」
窓越しに見上げた月はただコチをまっすぐ見つめていた。
「おい。やめろ!やめろ!くそっ。またあの野郎チャンネルを変えやがった。まともに見ていないくせによ。」
見た目に反してうさぎのポン太は口が悪かった。ポン太はニュースには全く興味がない。
なぜなら、ニュースを知ったところでうさぎにとっては何も意味のない事だからだ。
人間の片手にあるリモコンのボタン一つで、テレビ画面が切り替わる。
どこの世界も、人間の都合の良いようにできている。
「おい。CMだぞ。チャンネル変えろよ。」
うさぎは、懸命に人間に訴えるが、人間は聞く耳を持たず中身の無くなったグラスを片手にソファを離れる。
ポン太はテーブルに置かれたリモコンに悲痛な眼差しを送るが羽のないリモコンはじっとしたままだった。
テレビ画面はあのリモコンが支配している。
あのリモコンさえあれば、この世界はポン太の物でだ。
「なんだよ。ドラマの続きを観せろ。馬鹿野朗。」
口の悪いうさぎは「あーあ」と言いながら、背筋を伸ばした。
そして、何気なく餌箱に近づいて行くとようやくコチの存在を思い出した。
はっ、とコチの方に目をやるとコチは先ほどの位置から動いていなかった。
死んだ?
少しホッとしたポン太は動かないコチに小声で話しかけた。
「おい、お前。死んだのか?」
コチは何も答えなかった。ポン太がそーっとコチに近づいてくる。
コチはじっとその動きを観察していた。
近づくポン太がコチの許容範囲を超えてきたところでコチは羽を少しだけ動かした。
それを見たポン太は、仰け反りながらコチから一番離れた檻の隅に必死な形相で逃げて行った。
「騒々しい奴だ。」ホリデイがここにいたのならきっとこの状況も笑えるのだろうが独りぼっちのコチにはこのうさぎは、鬱陶しいだけだった。
再び「助けて」とカリカリ檻をひっかくうさぎに人間は目もくれなかった。
コチがすでに飽き飽きしているようにこの臆病もののウサギに人間も飽き飽きしているのだろう。
普通見たことない同士はお互い警戒するものだ。
知らないってことは恐怖だ。
でも逆手に取れば、時に自分を怪物に変えることだってできる。
だから、簡単に逃げてはいけない。
自分は怪物なんかじゃないってことが、すぐにバレてしまうからだ。
ポン太は怪物ではないってことをすぐに教えてくれた。
全く馬鹿正直なやつだ。
馬鹿正直が怯えた声でコチに言った。
「おい。お前いつまでそこにいるつもりだ。」
声は震えていたが、口調は相手より優位に立ちたいと強がっていた。
コチは、ポン太の声を無視した。
答えた所でコチにとっては何の得はないだろう。
「僕があの二人にお前の居場所を教えてやってもいいんだぞ。そしたらお前はあの世行きさ。早くここから出て行った方がいいぞ。」
コチは、何度も人間にコチの居場所を知らせようとしていたポン太を見ていた。
ポン太は正直者だ。
嘘がすぐに分かる。
「きっとここが一番安全だ。」
何も答えないコチに対してポン太は喋り続けた。
「分かる?ボクガ、ニンゲンニ、ツタエル。」
今度は身振り、手振り合わせてコチに言った。もちろんコチは何も答えない。
全く動かないコチを見て、だんだんとポン太の耳は垂れ下がっていった。
「ここは僕の部屋なんだ。勝手に入るのはマナー違反なんだよ。年頃の女の子だったらパパにブチ切れているぞ。」
ポン太は徐々に体勢を変え、いつものポン太のスタイルなのであろうだらしなくその場に寝転がって、話を続けた。
「窓は閉まっているから外にはいけないだろ?残念。僕がオススメする場所はあそこだよ。」
ポン太はテーブルの上のリモコンを指した。
「僕ならあそこに行く。そうすれば好きなテレビ番組が見放題だ。なんで僕はこんな狭い部屋に閉じ込められているんだ?」
ポン太の話はコチを無視して勝手に進んだ。
「お前はどこから来たんだ?」
「ガラスの向う側にはさ。お前みたいな奴がいっぱいいるのかな?あー嫌だ。嫌だ。反吐が出るね。」
コチは何も答えなかった。それでもポン太は話を続ける。「月はこんな気持ちなのだろうか?」とコチは思った。
「僕はすごい所から来たんだよ。お前に教えてやろうかな?どうしようかな?知りたい?仕方ないな。教えてやるよ。」
黙ったままのコチに対してポン太は容赦なかった。
コチは今ままで月に言った数々の発言を振り返り謝罪したい気分だった。
ポン太に「結構です。」と一言伝えれば黙ってくれるだろうか?きっとまた鬱陶しく慌てふためく。
それもまた煩わしい。
「きっとお前も驚くぞ。僕がこんな所に好き好んで住んでいるとでも思ったか?おいおい。やめてくれよ。僕には帰るべき故郷があるんだよ。」
イライラする。「こんな時どうすればいい?」そう思ってコチは月を見上げるとポン太の声が聞こえる。
「月から来たんだ。」
思わずコチは月を二度見した。
「さあ、どうする?」
聞いてもいないのにポン太は、自分は月から来たんだと言った。
ポン太は正直者だから嘘を付いている訳ではないらしい。
嘘ならすぐに分かってしまうからだ。
詳しい話を聞きたがったがポン太自身、故郷の事をあまり覚えていないらしかった。
故郷の事は人間から聞いたのだと。
怪しい。
でも・・。コチは昨夜の事を思い出し、キュッとなった。
コチは夜空を見上げるがポン太はうるさく話を続けた。
鬱陶しい。
動かず何もしてこないコチを気に入ったのか、ポン太は、独りで話を続けた。
今、テレビで流れていたドラマの話。
ここに住む二人の人間の癖や二人の関係。
気が付いた時には、気持ちよさげに身振り手振り話している。
ずっと話し相手を探していたかのようだ。
「僕は、ビスケットが大好きなんだ。ここにある餌はどうも口に合わない。食べられない事はないのだけれど、あえて残すんだ。そうすれば心配した人間が僕にビスケットをくれるからね。」
突然、ポン太が、テレビを見ろと言った。
「これこれ。」
ポンタは鬼の首を取ったような顔をしてテレビ画面に集中していた。
テレビ画面にはコマーシャルが流れていた。
そのコマーシャルはスプレー缶から噴射された煙が部屋いっぱいに充満し、目をバッテンにした様々な虫が次々と死んでいく様をとてもコミカルな描写で描いていた。
殺虫剤のコマーシャルだ。
「一撃噴射。これでイチコロだ。」
そのコマーシャルを見てポン太は笑いながら勝ち誇っていた。
いつの間にか部屋の電気が消され夜になった。人間はこの部屋から出て行きポン太はイビキをかいて寝ている。
太りすぎだ。
コチはそーっとポン太の檻から抜け出した。
そして、部屋の窓に近づき、カーテンの隙間から、月を覗いた。
「なあ。ホリデイを見なかったよな?」
今にも窓の外にホリデイが現れるんじゃないか、なんて思ってしまう。
開かない窓ガラスにペトっと張り付いたままどれくらいの時間が経っただろうコチはじっとしていた。
じっとしている事に苦痛があるはずがない。
太陽がいる世界ではじっとする事に慣れていたから。
自分はこの世界には存在していないかのように。
自分が動かなくても勝手に時間は流れた。
世界は光輝いていた。
遠い昔、羽が欲しかった。
春を運ぶ喜びの羽。
遠い昔の記憶さ。
もうどこかで無くしたよ。
広げた羽は悲鳴を残した。
花屋の花の悲鳴が聞こえる。
人間の悲鳴が聞こえる。
月のすみかで咲く花の悲鳴が聞こえる。
ホリデイになんか会わなければ良かった。
あの花に会わなければ良かった。
月はもう遠く離れていた。
「嘘です。」
コチはボソッと言う。
「それだけは無くさないで。」
じっとしている事に苦痛はないなんて嘘である。
うるさい音で目がさめた。
窓の外が明るい。
いつの間にか窓に張り付いたままコチは眠ってしまったらしい。
窓の外には人間の住処が広がっていた。
こうやってみるとほとんど人間の住処だった。
コチが窓から見える景色を眺めているとコチの瞳に知っている何かが映った。
ドクンと胸が騒ぐ。
「嘘だろ?」
コチが愕然とその光景を見ていると窓ガラスにゆっくり近づいてくる人間の顔が映った。
気づくと人間は先ほど届いた朝刊を丸めて作った武器を振り上げていた。
まだ読んでいない朝刊だと一瞬躊躇したのかその隙をコチは見逃さなかった。
ここで、死ぬわけにはいかない。
早くここから出ないとあいつがあの場所で暴れている。
バン。
鈍い音が部屋中に響き渡る。
窓ガラスが震えていた。
恐る恐る人間が丸めた朝刊の先を覗いた。
人間がふり下げた朝刊は、また、空振りだった。
再び、ポン太の檻に逃げてきたコチ。
動いたコチを見て、寝起きのポン太は慄いた。
「また、お前か、いい加減にしろ。」
ポン太は昨夜と変わりすぐに落ち着きを取り戻した。
ポン太にとってみれば一晩中話をした仲だった。
こちらが何もしなければコチは何もしてこないということをようやく理解したのだ。
コチは再び窓へ向かうか躊躇する。
まだ、人間は窓の近くでコチを探している。
もう一度外を見たい。
砂けむりの間から止まった時計のかけられた崩れかかた建物が見えた。
コチは悪いイメージを払拭しようと首を振る。
違う違う。あそこは月のすみかなんかじゃない。
ガガガ、と破壊音がガラス窓を貫き部屋に響き渡る。
あの眠っていた大きな機械が目覚めあそこで暴れている音。
コチは再び首を振る。
窓の下に置かれたソファで朝刊を読まず掌の中ばかり覗く人間。
コチは「早くどっかに行け!」と言葉を漏らした。
「え?」
ポン太が怪訝そうに顔を歪めてコチを見た。
「お前。なんか言ったか?」
言葉が聞こえるのか?コチは駄目元でポン太に言った。
「なあ。この音は何の音だ?」
ポン太は口をあんぐり開けて口からビスケットをポトリと落とした。
「しゃべった。」
ポン太は辺りを見回すがそこにはコチしかいなかった。
「おい。ポン太聞いてるか?」
コチの苛立った声にポン太の体がビクリと動く。
「え、ああ。あちらのテレビの音の事ですか?」
ポン太はテレビを指差しながらコチに言った。
「違う、違う。窓の外から聞こえる音だよ。」
ポン太の体がもう一度ビクリと動く。
「ああ、外ですね。」っとポン太は頷き、コチに恐る恐る教えた。
「あれは工事の音だと思います。」
「工事ってなんだよ?」
コチはすぐに聞き返した。ポン太は一瞬何かを考えて咳払いした。
「ねえ。それよりも君さ。喋れるの?」
「いいから答えろよ。工事ってなんだよ。」
コチの勢いにポン太の耳がピンと逆立つ。
「工事って、何かを壊したり、作ったりする事だろ。お前、そんな事も知らないのかよ。」
ポン太は少しだけ刃向かってみた。
「その工事ってやつはいつ終わるんだ?」
「そんな事を僕が知るわけがないだろ?ここ数日、朝から夕方までずっとこの音さ。おかげでテレビの音が聞こえないのよ。嫌になっちまうだろ?」
ポン太がちらりとコチを覗くとコチのとんでもない落ち込みようにびっくりした。
「そうか、お前もテレビ観たかったよな?」
コチはポン太の言葉に何も反応しなかった。ポン太はどう慰めて良いのかわからないでいた。
「なあ、元気出せよ。僕のビスケットほんのちょっとなら分けてあげるぞ。」
ポン太はビスケットを削りカスほどに小さく割ってコチに差し出した。
コチは反応しなかった。
今、コチの頭の中でグワングワンと轟音が鳴り響いていた。
そして、轟音と砂煙りの中を必死に耐える花の顔が頭をよぎる。
花は、「ここには誰もこない」と言った。
来るのは人間だけだと笑って言った。
「誰が来るんだよ。」
コチは、何度も自分を責めた。
どうして、あの化け物が、もう動かないなんて思ったのか。
他の誰かがきっとあの花を見つけてくれるなんて思ったのか。
自分が傷つかないように。
そう思い込んだのは、全部、自分の為だった。臆病な自分の為だった。
「なあ。食べないのかい?僕、全部食べちゃうよ。」
ポン太は、すでにビスケットを平らげていた。
最初から、自分だけで食べる気だったのだろう。
今、コチはポン太を見つめる。
そして、頼りないポン太に必死に伝えた。
「ポン太。助けてくれ。」
ポン太は戸惑った表情で首をかしげる。
コチはポン太に工事現場で咲く花の話をした。
なんとか伝わってほしいと正直に自分の思いを話した。
だからここから出る方法を教えて欲しいとポン太に必死に頼んだ。
冷静に考えればポン太に花の話をした所で「だから?」と聞き返される事などすぐに想像できたはずだろう。
ポン太は、なぜか、その花の話を泣きながら聞いていた。
ポン太は涙を拭いて、コチに教えてくれた。
ここに住む人間の「みっちゃん」と呼ばれる人物がひどい花粉症でこの時期なかなか窓を開けないという。
そんな中、この家に侵入してしまったのだからコチはひどく運が悪いという。
「あの日はもう一人の「ひー君」がとても臭いオナラをしたもんだから仕方なく窓を開けたんだ。そしたら君が入ってきたからめちゃくちゃ「みっちゃん」は怒っていたよ。「みっちゃん」は何よりも虫が嫌いなんだよ。」
ポン太はコチに少し気を使ったのか「僕はあそこまで君を嫌いじゃないよ。」と補足した。
「玄関まで行ければいいが、そこに行くまでにまだ扉があって、几帳面なみっちゃんは、必ずその扉を締めるんだ。「ひー君」がいれば開けっ放しにして「みっちゃん」にいつも怒られているから、チャンスがあったんだけどな。「ひー君」はもう仕事に出かけたよ。使えない奴だな。」
ポン太は、なんとか、コチを外に出そうと考えてくれた。なかなかいい奴なのかもしれない。とコチが考えているとポン太がコチに言った。
「きっとその花はコチに会ったら喜ぶだろうな。」
コチが黙っていると奥からガチャっと音が聞こえた。外出していたみっちゃんが、帰ってきたらしい。みっちゃんは部屋に入るとバタンと扉を閉めて、買い物袋をテーブルの上に置いた。
「ほらね。」ポン太は悔しい顔をした。
でもすぐに何かを思い出したように表情を変えた。
ポン太は、テーブルの上に置かれた袋をまじまじと見る。
ポン太はその袋の中にビスケットがあるか確認するのが日課だった。
ポン太がビスケットではない何かを発見した。
「おい。コチやったぞ。あれ見ろよ。」
買い物の袋の中出てきたのは、テレビコマーシャルで見たあの殺虫剤だった。
「おい。嘘だろ。死んじまうじゃねえか。」
慌てるコチをポン太が落ち着かせる。
「落ち着けよ。」
「裏切り者!」
「だから、落ち着けって。これはチャンスなんだ。」
ポン太はコチを落ち着かせ、脱出作戦をコチに聞かせた。
人間が買ってきた殺虫剤は、部屋全体を毒の煙で多い。
その部屋にいる全ての虫を殺してしまうものだった。
聞いているだけでコチは恐ろしくなったが、その煙は、もちろんポン太の健康にもよろしくないから、その煙が発射される時、ポン太の檻はきっとベランダの外に出される。
だから、このまま檻の中で隠れていればコチは外に出られるんだと言った。
「間違いない?」
コチは不安そうにポン太に言った。
ポン太は自信に満ちた表情で頷いた。
この殺虫剤は以前もこの部屋に撒かれたから間違いないとポン太は言った。
以前もその毒ガスがこの部屋で撒かれたと思うとコチは背筋が凍る思いだったがコチはポン太のこの作戦を信じてみようと思った。
「いつアレは部屋に撒かれるんだ?」
コチはまだ不安そうにポン太に聞いた。
「すぐさ。それだけコチは嫌われているんだ。」
嬉しそうにそう言うポン太に悪気はないのだろうが、コチは複雑な気分だった。
「ほら、みろ。始まったぞ。いよいよ作戦開始だ。」
みっちゃんはポン太の言った通り、早々に殺虫剤の準備に取りかかった。
嫌われ者も時には役に立つとコチは思った。
みっちゃんの準備は着々と進められ、慣れた手つきで外に出すもの封をするものと仕分けられ部屋は完全に締められた。
隙間ひとつない。
そして、思いがけないことが起こった。
みっちゃんは、ポン太を部屋に残したまま、殺虫剤の煙を噴射しそのまま外に出たのだ。
「嘘だろ?」
ポン太は、蒸気をあげる煙を見ながら呆然としていた。
「おい。お前の作戦、どうなっているんだよ。おい。」
焦るコチは、煙を見ながら叫んでいる。
「こんな所で死ねないんだよ。」
呆然と煙を見つめるポン太の耳に叫ぶコチの声が届く。
やっと現実を見つめたポン太は必死で何かを考えていた。
そしてコチに言った。
「僕に掴まれ。」
コチは急いでポン太の胸の中に飛び込んだ。
ポン太は以前、脱走した日の事を思い出したのだ。
「すぐ出してやるからな。」
檻の天井は空いている。
ポン太を狂ったように何度も飛び上がり檻に体をぶつけた。
左右に揺れる檻はバランスを崩し、鈍い音をたてて横に倒れた。
ポン太はコチを抱き寄せ、檻の中から飛び出した。
そして、隣の部屋に行くための締め切られた引き戸を必死の思いで引っ掻く。
「チクショー。僕の事を忘れやがって。」
ポン太は泣きながら、引き戸を引っ掻いた。
「コチ。しっかりしろよ。大丈夫だからな。」
ポン太に掻き毟られた引き戸の隙間があいた。
ポン太はその狭い隙間に顔を無理やりねじ込ませ、隣の部屋に入りこむ。
煙はもくもくと隣の部屋まで入ってきた。
「花粉は大丈夫?」
どうでも良いことがポン太の頭をよぎる。
ベランダのドアが開いていたのだ。
「おいコチ。見ろ。開いているぞ。ほら、行け。」
「よし!きた。」
コチは、開いた窓の隙間に飛び込んだ。
そして、弾かれた。
網戸だ。
コチは何度も窓の外に出ようと試みたが、網戸の網に弾かれた。
「コチ。任せておけ。僕のビスケットで鍛えた前歯がある。」
隣の部屋から、もくもくとターゲットを追って煙が入ってくる。
そんな中、ポン太は必死に網戸をかじってくれた。
それも脱走を企てたあの日以来だ。
脱走を企てたあの日、あの時は、みっちゃんから小便ちびるほど叱られたらしい。
「大丈夫だ。」というポン太の目が少し怯えていた。やっと網戸が切れた。
「ほら、行けよ。」
ポン太とのサヨナラがふらりとやってきた。
ガチャンと大きな音がした。
人間が急いで戻ってきたようだ。
「やっぱりね。僕が忘れられるはずがないんだ。」
安堵の顔を浮かべるポン太は破れた網戸を見て再び顔が引きつった。
きっとまたみっちゃんに怒られるのだろう。
みっちゃんが奥からやってくる。
離れないコチは言葉を探していた。
ポン太は言った。
「早く行けよ。みっちゃんに見つかるぞ。」
「ありがとう。」
コチは、恥じらいもなく感謝を伝えた。
「やっとコチがいなくなって、部屋も広く使えるよ。」
「俺は、そんな場所をとっていたつもりはないけどな。」
「いいか。飛んで行ったら絶対こっちに振り返るな。そして、また会いに何か戻ってくるなよ。」
「誰がこんな地獄に戻ってくるか。」
どいつもこいつも正直ものだ。
虚勢がよく目立つ。
コチはもう一度ポン太の胸に飛び込もうと考えたがやめた。
人間の観るテレビドラマじゃあるまいし。ダサい。ダサい。
「なあ。コチ。僕らは友達かな?」
飛び立とうとするコチを引き止めるようにポン太が言った。
ポン太はコチの真剣な話をしっかり受け止めてくれた。
言わなくてもわかるもんだ。
「だったら、別れがきっと寂しいはずさ。」
みっちゃんが走ってこっちに来る。
「ごめんね」と言いながら、ポン太を拾い上げる。
拾い上げたうさぎの胸から一匹の蛾が空に飛び立った事を人間は知らない。
ポン太は、人間の腕の隙間から空を見上げていた。
うさぎの赤い目が今日やけに赤いのは、きっと煙のせいだろう。
「ポン太!」
人間のヒステリックな声がする。
きっと引きちぎられた網戸がバレたんだ。
コチは振り返る事なく空に向かった。
コチだって煙が目に入ったんだ。
広い空。
大嫌いなあの太陽がやけに懐かしく思えた。
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