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カルトと「野蛮」ということについて〜「ミッドサマー」考察〜

今から3年前、学部生だった私が卒論のテーマに選んだのは「ハリウッド映画における人種ステレオタイプの表象」でした。今振り返ると、もっとかっこいいタイトルの付け方は無かったのかと思います。今も昔も、文才が無いながら精一杯背伸びをした結果です。論文の趣旨は、ハリウッド映画では日本人はメガネにスーツの出で立ちで描かれがちで、アフリカ系の人々は「豪快」とか「野蛮」を表象されがちな気がするけれど、そのようなステレオタイプって何に由来するの?というもので、書き出しはこんな感じ。

日本人は内向的で、イタリア人は外向的。ドイツ人は理論的で、スペイン人は直感的。これらは全て、事実とは異なるステレオタイプである。ステレオタイプとは、「社会的カテゴリーや集団に属する人たちに対して、人々が持っている信念」(無藤ほか、2004)のことである。「A型は仕事が丁寧だ」というような肯定的なステレオタイプが存在する一方、「B型は自己中心的だ」というような偏見につながる否定的なステレオタイプも多く存在する。人間は曖昧でよく分からないものを嫌うので、ステレオタイプを抱くことで効率的に情報を処理することが出来るというプラス面がある一方(前から怖そうな顔の人が歩いてきた場合、考えなしに距離をとることが出来るなど)、人の理解を歪ませかねないというマイナス面もある。「ある子供が中流の家庭の出身だと思い込まされるときと、下層階級出身だと思い込まされるときとでは、子供が学習中正解したり間違えたりしている同じ場面を見ても、前者の方が学力が高いと判断される」(無藤ほか、2004)というのがその例だ。下層階級出身の子供が問題を間違えてしまうと、「やっぱりな」と感じてしまうというのである。

人種の表象という意味で、「ミッドサマー」は新鮮で、まさに目から鱗な映画でした。アメリカ人の学生たちがスウェーデンのカルトコミュニティに「取り込まれていく」様が描かれているのですが、「野蛮」な彼らは皆、青い目をした白人なのです。ホルガ村にはある理由から人種の多様性が存在しないのですが、とはいえ白人民族を「野蛮」の表象として描く作品には見覚えがなく、新鮮さを覚えました。

予告編とあらすじ

家族を不慮の事故で失ったダニーは、大学で民俗学を研究する恋人や友人と共にスウェーデンの奥地で開かれる”90年に一度の祝祭”を訪れる。美しい花々が咲き乱れ、太陽が沈まないその村は、優しい住人が陽気に歌い踊る楽園のように思えた。しかし、次第に不穏な空気が漂い始め、ダニーの心はかき乱されていく。妄想、トラウマ、不安、恐怖……それは想像を絶する悪夢の始まりだった。

未鑑賞の人のための注目ポイント

地元出身の青年ペレは、ホルガの共同体で暮らす人々の一生を春夏秋冬に例えました。生まれてから18までが春、36までが夏、54までが秋、そして72までが冬。それぞれの年齢区分に属する人々にはどのような共通点があるかに注目して映画を見ると楽しいと思います。花冠を戴いているのはどの層か、服の色や住居に違いはあるか、72歳以上の住民はどのように暮らしているのか、などなど視点はたくさんです。

(ここからはネタバレします)

他者の文化を受容するということ

他の文化を受け入れるというのは壮大なテーマなので、そもそも自分が「自分とは違う異質なもの」を受け入れることができるのか考えてみます。「他者を理解する」というと聞こえは良いのですが、私は理解と受容とには大きな隔たりがあると思っています。現実問題、「他者を理解する」のではなく、「他者を受容する」の方が実践的だと思います。異質なものを完全に受け入れることは出来ないけれど、それを自分ごととして考えてどうにか納得する。自分とは決定的に違うものを、自分とは相入れないものを認める難しさや自分の価値観や信条を押し付けない厳しさを感じます。

この映画の中に「受け入れがたさ」があるとするならば、それはパニック障害を起こしている主人公を受容できるかという点に尽きます。私自身、大学で心理学をかじったおかげで認知行動療法的な対処は知っていますし、家族にこれに近しい症状の者もいるため大変さはわかります。ただ、自分とは決定的に違うという意識がどうしてもあり、ダニの行動に終始イライラしている自分がいました。

登場人物の中にも、ダニの行動を受容できない人々がいました。代表格は彼氏のクリスチャン。家族を亡くし絶望しているダニに対して冷たい態度を取り、そもそもすっかり熱が冷めているのに「振る」勇気がない弱虫。卒業が難しいアメリカの大学(年齢設定的には大学院かもしれない)で、友人の卒論のテーマをまるパクリして悪びれもしない態度も実に気に入りません。勧善懲悪、彼がカルト世界で報いを受けたのは当然のことでしょう。身近なガールフレンドという存在を受け入れられない彼が、「現地の文化を受け入れるべきだ」というシーンは滑稽でした。

正直、彼らが訪れたホルガ村の風習は圧倒的で凄まじいです。先進諸国の人々が第三世界に投げかけるような、「土着の文化を温かく見守ろうよ」という視点に対しては容赦なく牙をむいてきます。白夜のおかげで色彩は明るく、村の人々も親切に見えるけれど、なんとなくどこかがおかしい。アッテストゥパンの儀式を経て初めてその凄まじさを実感した彼らは、この地が自分たちが「見守る」ことのできる範疇をはるかに越えた場所であることを悟ります。しかし、この場所を去ることができないのは、村人が狡猾であると同時に、アメリカ人たちが愚かだったからでしょう。

共感というキーワード

この映画をオススメするかと問われたとしたら、「共感力が高すぎる人には薦めない」と答えようと思います。アッテストゥパンや血のワシは、グロテスクな表現が苦手な人は直視できないものだったでしょう。共感力の高い人は物事を自分ごととして捉えることに長けているため、映像の苦痛を自分ごとのように捉えてしまうからです。

「ミッドサマー」のカルト世界の人々も共感力の高い共同体です。苦しむダニに寄り添いながら、村人たちは共に咽び泣き、恐怖し、叫び、笑い、踊ります。儀式として処女を捨てセックスに臨むミヤとともに、共同体の女たちは恍惚とした表情を浮かべます。この共感性は自分と他者との違いというものを認めない、ある種排他的なものですが、彼らは「文化との一体化」を重視しているように思えます。ダニ一行をホルガ村に連れてきた黒幕であるペレは、「両親を炎で無くした」と述べます。おそらくその死因は終盤に描かれたカルト社会の儀式によるものですが、それでもなお共同体のために身を捧げるその姿に、「共同体の一部としての個人」を見ることができます。「受け入れよう」と外部から傍観するのではなく、自分ごととして、自分自身の手を汚しながら、共同体の一員として振舞っているのでしょう。

開始数秒で明らかになる全容

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映画の幕が上がるとすぐ、この絵がスクリーンに映し出されるのですが、このタペストリーは全編の流れを全て網羅しています。全てに触れると長くなるので、ここでは忘備録的に時系列を箇条書きで記します。感想や気づいた小ネタなどはつどつど加えていきます。

左部。ガス中毒で自殺したダニの妹と巻き込まれた両親。ダニ自身もその事件によって心に傷を負う。一対のカラスは北欧神話に登場し、「悪の教典」の中で一躍有名になったフギンとムニンか。寝室に両親が横たわるシーン、2人が寝息を立てているのだと思っていたが、もしかするとそれはガスが漏れている音でまさに自殺が進行中だったのかもしれない。

左中部。嘆き悲しむダニとそれを慰めるクリスチャン。木の上からはペレがその様子を見つめる。

中部。ペレは笛を吹きながらマーク、ジョシュ、クリスチャン、ダニを引き連れる。まさにハーメルンの笛吹き男。連れて行かれた子供たちは二度と街には戻らなかった…マークは道化の帽子をかぶっている。神聖な木に立ち小便をした結果、「スキン・ザ・フール(アホの皮剥)」の餌食となったマークの末路を暗示。ちなみにジョシュは彼の皮をかぶった村人によって殺害された。

右中部。ホルガの村人に歓迎される4人。上部にはアッテストゥパンの儀式で使用される崖。神話に記されたアッテストゥパンとは、自分の身の世話をできなくなった者や、家庭の手助けができなくなった老人が、自ら命を絶つ儀式であったという。足元にはクリスチャンを生贄として捧げる際に使用する熊。

右部。メイクイーンを決めるダンスコンテストと、浄化の儀式のシンボルマーク。下部に描かれたダイニングテーブルにはすでにジョシュやマークの姿はない。テーブルから花をつたった先には赤い屋根の建物があり、そこはクリスチャンが近親相姦を避けるための「外部精子」をミヤに提供した場所。

総括と監督のコメントにみる映画のキモ

スウェーデンの白夜が舞台なこともあり、全体として明るいシーンが多いです。ただいたずらに大きな音で観客を驚かせるだけではなく、逆に静寂という恐怖を与えたという点が、私にとってはとても怖かったです。監督はこの映画はホラー映画ではなく恋愛映画だとコメントしているようですが、個人的にはスリラーというよりもやはりホラーでした。

これはやはり、私自身がダニの感情を受け入れきれなかったからでしょう。ダニの視点からすれば、この映画は浄化、救済の物語です。自身の依存先であり、信用しきれていない恋人と別れ、自分に共感してくれる共同体を見つけたのですから。一方で彼女とホルガの人々以外の視点を意識すると、この映画は胸糞映画のままです。いくら因果応報、ほとんどの殺された「よそ者」に明確な原因が存在するとは言っても、私だったらホルガ村の伝統をそのまま受け入れることは出来ません。それぞれの解釈を持ち寄って映画談義に花を咲かすのも面白いかもしれませんね。ところでコニーは何か報いを受けるべき行動をとっていたかしら。

余談ですが、映画の終焉でダニが見せた笑顔について、監督のアリ・アスターは次のように脚本に記しています。

「ダニーは狂気に堕ちた者だけが味わえる喜びに屈した。ダニーは自己を完全に失い、ついに自由を得た。それは恐ろしいことでもあり、美しいことでもある」

おわりに

「ルーン文字の表象」という視点から映画を見るのもすごく面白いと思います。これらについては以下二つのサイトを参照してください。ただし、参照前に映画を一度見ておくことをお勧めしますがね…


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