強い女性ってなに?-アラジン①-
月の締め日前日にもかかわらず振休を取得させてもらったので、電車に揺られ名前も知らない赤の他人と立ち位置を争う日々から離れ、実写版の映画「アラジン」を観てきた。本編上映前の予告で「ライオン・キング」の実写版が近日中に公開されることを知り、まったくなんでもかんでも実写化すればいいってもんじゃないよと天邪鬼を発揮する僕だったが、二時間後には何事もなかったかのように手のひら返し。アラブの青年と王女を描いたこの実写映画は、果たして大成功であった。帰り道、映画記録アプリFilmarksを開いた僕は、ためらうことなく五つ星評価をつけた。なぜ今作がそれほどまでに心をとらえたのか。僕はストーリーやキャラクターの描かれ方がオリジナルよりも良かった、この一点に尽きると思っている。つまり、王女ジャスミンと魔人ジーニーの描かれ方だ。伝わらないと思うので、詳細を書きます。
1992年に公開されたアニメ版「アラジン」、名作中の名作だし、仲の良い異性とカラオケなんかに行くとA Whole New Worldを一緒に歌っちゃう位には大好きなんだけれど、どうしても苦手な部分があった。それはジャスミン王女が「男性的に」描かれすぎていること。
こんなことをいうと、この時代にお前はまだ女性らしくあれとか言ってんのかw時代錯誤wとかなんとか言われそうだが、もちろんそんなことが伝えたいのではない。試しにアニメ版を見返して見て欲しいのだが、例えばアラジンとジャスミンが衛兵から逃れようと建物から建物へ屋根伝いに飛び移るシーンがある。アラジンは棒を利用して屋根から屋根へ移動する(まさに棒高跳びのように…伝わるだろうか…)。先に飛び越えたアラジンが手を差し伸べようとした頃にはジャスミンが同じ方法で飛び移っている。驚く猿のアブー。
このシーンだけを切り取るとこじつけに見えてしまうだろうが、全体を通してジャスミンを「男性的な力を持つ女性」として描いているのだ。アラジン以上の身体能力を持つジャスミン、強いでしょー!といったような。強い女性=男性的な力を持つ女性という思考がどうしても受け入れられない僕なのだった。いやそれ以外のシーンはおおむね大好きなんだけどね…
ここで突然ですが、僕は強い女性が好きです。けれどそれは前述したような思考の中の強さではなく、まっすぐな自分の芯を持っていること。快活でもおっとりしていても、私はこうありたいという芯が定まっている人。怖いものも出来ないこともたくさんあるけれど、挑戦することだけは恐れないこと。無理―無理―どうせーって言っている人より、なにくそ!って立ち向かっていく人の方がカッコよくないですか?そんな人に惚れるし、自分もそうありたいと思っている。今作で描かれているジャスミンの強さはそういった強さです。不必要に男性的なものを与えられた単なる見かけの強さではない、「かっこいい女性像」。素晴らしかった。
自分の嗜好を並べていても仕方がないので、もっと分かりやすくてとっつきやすい、ジーニーの描かれ方の方に話を進めようと思う。今作のトレーラーが公開された際、多くの人が同じことを感じたであろうことを代弁すると、
「これジーニーっていうか、青いウィル・スミスじゃね?」
そうなのだ。ランプをこするとウィル・スミス。市場で踊るウィル・スミス。アリ王子の行列を先導するのもウィル・スミスなのだ。ところがどっこい、今作を最後まで見ればなぜジーニーが青いウィル・スミスだったのかが見えてくる。一応ストーリーの進行上致命的になるネタバレではないと思うのでさらっと書いてしまうことにするが、アニメ版ではジーニーは人間とは非なるものとして描かれた。彼はあくまで魔人、ジーニーはジーニーだった。一方今作のジーニーは本来人間であった。つまり魔人はかつてウィル・スミスだったのだ。それゆえ彼は人間的な感情、欲望を持っており、これが話が展開していくうえですごく重要なキーになる。アラジンとジーニーが欲しいのはともに愛、そして自由。見たらきっとわかるはず。
というわけで週半ばにして明日への活力を得た気分になっている。あと二日間を乗り切って、週末を待ちます。字幕を見るか吹き替えを見るかで悩んだ話もあるけれど、それはまた次回で。
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