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通勤電車の窓から

 狭い、薄い壁の騒がしいアパートから少しだけ広くて、静かな部屋に引っ越した。日当たりのよいその部屋で、急いで購入した丈の短いカーテンを眺める。夏のうだるような暑さも和らぎ、少し寂しさを感じる風が心地よい。

 あの日は、仕事のことで頭を悩ませていた。
快速に乗り遅れ、各駅停車で帰路につきながら、美容系広告のまるで見えない注意書きを眺める。明日の仕事は、明日考えよう。

 次の駅に停車したところで、人身事故による緊急停止を知らせるアナウンスが流れる。なんだよ、美容広告の注意書きに目を凝らしながら思う。目の前に座る女性は、疲れているのか上を向いて口を開けて眠っている。

 一年前、兄は行方がわからなくなった。
真面目で明るい兄はふとしたことからうつになった。夜は眠れなくなり、何もできない日々がつづいた。大学を休学し、両親のサポートのもと通院する生活が始まった。


 どのくらいたったのだろうか、つり革をつかむ手がピリピリと痺れを感じる。運転再開のアナウンスが流れると遅れを取り戻すかのように、車体が動き出す。どうやら、ホームから飛び降りたらしい。

動き出した電車の窓には、夜の景色と疲れた自分がゆらゆらとうつっている。ゆれる自分を眺めながら、無意識に命を絶った誰かについて考えていた。

 兄は年下の私によくしくしてくれていた。両親が買ってきたアイスクリームもまず私に選ばせてくれた。人とのかかわりが普通の人より少し苦手で、テレビドラマのラブシーンでは羞恥心で落ち着きがなくなったりするような人だ。

普通の世界は、兄にとっての普通ではないのだ。だから、生きることは難しい。兄は優しくても、普通の世界は兄に優しくはないようだった。

 治療と休息のおかげで、兄の症状はやわらぎ仕事をはじめ一人で生活ができるほどに回復した。

 ちょうど、人身事故のあった駅で電車がとまる。黄色い立ち入り禁止のテープが急に現実に引き戻していく。ああ、本当にここで人が死んだのか。ブルーシートで覆われた駅のホームを見て、急激な悲しさに襲われる。外を眺めながら、窓越しに隣に立つサラリーマンと目が合ったような気がした。

かわいそうに、痛かったろうに。

泣いてしまいたい。人が死んだんだぞと、まるで無関心な目の前で眠る女に、そう言ってしまえたら。いや、無関心だったのは自分じゃないかと胸がきりきりときしむ。

 電車を降り、改札を抜ける。あたりはすっかり暗くなり、すこしだけ肌寒い。はやく、家に帰りたい。

 実家の母は電話であきらめたように話していた。お兄ちゃん、連絡取れなくなる前は人が変わったようになっててね。怒鳴ったり、してたのよ。何話しても聞き入れてもらえなくてね。でも、いつか戻ってくると思っているのよ。

うん、そうだね。家につき、やはり短いカーテンを閉じる。


 翌日、快速電車にのり通勤する。快速なら、あの駅は通らなくてすむ。また、リセットされる私の頭。優しくない世界を作っているのは私なのだろうか。

どうやら、高校生が命を絶ったらしい。



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