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帝都の復讐姫は作家先生に殺されたい 3-2 国際監獄の囚人(2)

 市電の駅の近くでタクシーをつかまえ、悧月が花墨を連れてきたのは、文京区本郷にある真新しい洋館だ。
 花墨にはもちろん、見覚えがある。二階建てで庭もあり、こぢんまりとはしているが庶民にはとても住めない瀟洒な邸宅――悧月の叔父の家だ。
 今日は昼間なので、門の手前からでも、緑の屋根に白く塗られた壁がよく見えた。玄関ポーチはアーチになっていて優雅だ。庭側には出窓やテラスがある。

「ここ、あの時の住所……え、まだ叔父様の家に居候してるんですか?」
「うぐっ。も、もうちょっとオブラートに包んでくれるかなっ、花墨ちゃん」
 暑くもないのに汗をぬぐいつつ、悧月は煉瓦の柱の間を入っていく。後に続きながら花墨が柱を見ると、表札には『薬師寺』とあった。
 前庭にタクシーが停まっており、脇で運転手らしき男が手持ち無沙汰に立っている。悧月に気づいて、頭を下げた。
 玄関ポーチに上ったところで、ちょうど向こうから扉が開いた。スーツ姿の細身の紳士が、目の前の悧月に気づいて目を見張る。
「君か」
 三十代後半くらいだろうか、穏やかで知的な顔立ちだ。
「ただいま、叔父さん。大学?」
「うん、午後一で講義があってね。行ってくる」
「誠子さんは? ちょっと相談したいことがあるんだ」
「上にいる。……と」
 彼はポーチの下にいた花墨に目を留めた。
「悧月のお客さんかな。私はこれの叔父で、薬師寺武雄と言います」
「時庭花墨と申します、初めまして」
 丁寧に頭を下げてはみたものの、他に何を言えばいいのか花墨は迷った。
(私、先生の知り合い以上のものではないのよね。職業だってカフエーの女給だし、知り合ったのは私娼窟だし)
 しかし武雄はただ、
「時庭? 時庭……」
 と考えたものの、結局すぐに中折れ帽を頭に載せた。
「申し訳ない、仕事に遅れそうなので失礼しますよ。どうぞごゆっくり」
「お邪魔いたします」
 もう一度頭を下げる花墨に片手を上げ、武雄はタクシーに駆け寄った。運転手が開けたドアから乗り込み、颯爽と出発していった。

「花墨ちゃん、どうぞ」
 悧月に促され、花墨は緊張しながらも玄関から中に入った。
 使用人らしき和服姿の中年女性がいて、悧月と花墨に頭を下げる。
「お帰りなさいませ。お客様ですね」
「うん。誠子さんに来てもらえるようお願いして。悧月が女性のお客を連れてきた、頼みごとがあるって。あと、応接室にお茶を頼むよ」
「かしこまりました」
「あの……お構いなく」
 玄関からホールに上がるところで花墨が草履を脱いでいると、使用人が別の履き物を差し出してきた。
「スリッパをどうぞ」
(これがスリッパ……)
 普段は草履、家の中では素足、『カメリア』ではブーツで過ごすのが普通だった花墨にとって、スリッパを履くのは初めてだ。
 悧月が「あっ」と解説を加える。
「面倒でごめん。洋室と和室、両方あるものだから」
「いえ。草履に似ていて、そんなに違和感ないです」
 一度海外に渡ったせいか、花墨は新しいものに抵抗感がない。そういうものだと受け入れ、先に立つ悧月についていった。

 ホールのすぐ横が応接室で、大きな出窓にレースのカーテンのかかった洋間だった。美しい布張りのソファーセットが鎮座している。
「ちょっと先生、どうするつもり? 私、何にも聞いてませんが」
「叔母に協力してもらえると思うんだ。一見、怖そうに見えるかもしれないけど、大丈夫だからね」
「怖そうって、どんな」
 言いかけたところに使用人が入ってきたので、花墨は口をつぐむ。日本茶を出してもらっているところへ、和服の女性がスッと入ってきた。
「失礼しますわ。……あら」
 花墨を見て、彼女は軽く眉を上げた。
 この大正の世でも髪型は古風な夜会巻、そして瓜実顔の美しい女性だ。
 彼女は無表情に、淡々と質問した。
「悧月さん、こちらは?」
「時庭花墨ちゃんといいます。昔、ちょっと助けてもらったことがある、恩人なんです」
「それはそれは、悧月さんがお世話になって。わたくし、薬師寺誠子せいこと申します」
 悧月が武雄を「叔父さん」、誠子を「誠子さん」と呼んでいたところを見ると、武雄の方が悧月と血筋を同じくしているのだろう。
 誠子は表情を変えないまま、続けた。
「時庭さんというと、時庭青蔵さんとご関係が?」
 不意に懐かしい名が飛び出してきて、花墨はハッと胸を突かれた。あわてて返事をする。
「む、娘です! 父を、ご存じなんですか?」
「わたくしの実家にある、桜の木を世話していただいたのを覚えておりますの。傷んだ木が持ち直して、家族は喜んでおりました。……お父上のこと、ご愁傷様でした」
 ひたすら淡々と、しかし花墨をまっすぐ見て、誠子は言う。
「丁寧で誠実なお仕事をなさる方が、あんなにひどい亡くなり方をするなんて、あってはならないことです。でも、花墨さんだけでもご無事でようございました」
 すぐには返事ができず、花墨は胸を押さえて深呼吸した。
(この方は、優しい方だ)
 あまり気持ちが表情に出ないところも、自分と似ていて親近感を覚える。
 それにもしかしたら、さっきの武雄の反応も、『時庭』の名をどこかで聞いてうっすら覚えてくれていたがゆえのものだったのかもしれない。
「……そう言っていただけると、父も浮かばれます」
 答える花墨を、悧月は優しい表情で見つめてから、誠子に向き直った。
「誠子さん、頼みごとというのはこの花墨ちゃんのことなんです」
「私が伺っていいのかしら? お付き合いとかそういうことなら、武雄さんの方が」
 真顔のままの誠子に、悧月はあわてる。
「そうじゃないんです、女性の助けが必要で……。華族会館で出版社関係のパーティーがあるんですが、僕のパートナーとして花墨ちゃんを連れて行きたいんです。それで、誠子さんのドレスをお借りできないかと」
「えっ」
 花墨は驚いて悧月を振り返る。
(本当に私をパーティーに連れて行くつもり?)
 すると、誠子が二人の顔を見比べて言った。
「構いませんけれど、パーティーというのは夜かしら?」
「はい」
「なら、ダンスの時間があるでしょうね。花墨さん、ダンスはおできになる?」
「あ」
 ハッとした悧月を、花墨はじろりとにらむ。
(あっ、て。私みたいな身分の娘が、ワルツとか踊れると思ってたの?)
「先生はおできになるんでしょうねー、きっと」
 ちくりとイヤミを言ってやると、
「ま、まあ、そこそこは……」
 悧月は小さくなった。
「ごめん、君に恥をかかせるつもりはなかったんだ。パーティーはやめよう。何か他の方法を考える」
 反省している様子なので、花墨はすぐに助け船を出すことにした。
「ダンスって、一曲踊れれば何とかなりますか?」
「えっ」
「ポルカなら踊れます」
「そうなの?」
 悧月はびっくりしている。
 何しろ花墨はサーカス団にいたわけで、演者としてというより客席付近で観客を盛り上げる要員として駆り出され、踊らざるを得なかった経験がある。アップテンポで庶民の間でも流行ったポルカだけは、自然と覚えていた。
「それなら大丈夫そうね。踊った経験があるのなら、ワルツも短い時間で何となく覚えられるでしょう。後は悧月さんが、きちっとリードなさればよろしい」
 ビシッと誠子は言い、立ち上がる。
「花墨さん、わたくしの部屋にいらして。ドレスを選んでもらいます」
「よ、よろしいのですか」
 急いで立ち上がった花墨を、誠子は頭からつま先まで見た。
「身長はわたくしと同じくらいですね、直さなくとも着られそう。わたくしの年ではもう似合わないものもありますし、もったいないので、何ならお持ちになって」
「ありがとうございます……!」
 花墨は深々と、頭を下げた。
 誠子に続いて応接室を出ながら振り返ると、悧月がにこにこと手を振った。

 二階にある誠子の部屋も、洋室だった。
 和箪笥とは違う、縦長の扉がついた洋箪笥が置かれている。丸い鏡のはまった扉を開くと、洋服を木製の「ハンガー」にかけてそのまま下げておけるようになっており、中には色とりどりのスーツやドレスがかかっていた。
「出版社のパーティーでしたわね。これか、このあたりかしら……思ったよりないわね……」
 誠子はつぶやきながら、テーブルの上に二着を広げて見せてくれた。どちらも可愛らしく、花墨には文句のつけようもない。
「素敵……私が、これを……?」
「お好きな方を」
「はい。ああ、でも、どちらがいいのかしら」
 花墨が迷っている間に、誠子はさっさと靴やバッグ、帽子や扇まで出してくる。
「下着も必要ね」
「あ、それは大丈夫です、ありがとうございます」
 仕事でワンピースを着ているので、洋服用の下着は持っている花墨である。

 試着をして、無事にパーティー用のあれこれが一揃い決まった。
 風呂敷包みにまとめながら、誠子は話す。
「うちは子どもがいないから、こういうの、何だか新鮮だわ。悧月さんも、お友達を連れて来ていいと言ってあるのに、連れてきたことが一度もないんですよ」
「そうなんですか? 中学校からこちらに……とはお聞きしたことがあります」
「ええ。悧月さんの実家は横須賀にあるんですけれど、本人の強い希望で東京の中学校に入りたいということで。それなら、うちに住んだ方が便利ですから」
「素敵なお家ですし、ご夫妻を慕っておいでのように見えました」
「まあ、実家に比べたらずっと居心地がいいのでしょうね」
 まだ花墨が悧月とどの程度親しいのか、誠子も測りかねているはずで、それ以上は彼女も口にしなかった。
 しかしどうやら、悧月は実家の家族と折り合いが良くはないらしい、という程度は察せられる。
(復員後も、ここに戻って来たんだものね。もちろん、出版社が東京だから便利、というのもあるかもしれないけれど……)
 少し気になった、花墨であった。


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