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2024/05/28 遠い世界を見ている

反戦、の言葉をSNSで見る機会が多くなった。
テレビではさんざん喧伝されているのだろう。SNSでもリツイートされた記事をよく見る。わたしはTVを買うお金がないので実情はネットでしか知らない。Twtterでフォローしている人もよく話題にしている。
それと同じようなことが、十年前にあった。大学生時代、貧困国のボランティアに行ったと語る男子大学生がいた。そのことはガクチカ(学生時代力を入れたこと)に書くと言う。わたしと言えば、震災地や路上生活者の炊き出しを手伝っていた。
一時期なにかを喧伝するより、実際に長期間なにかに援助にあたるほうが、はるかに難しい。正しさを口にできない社会はおそろしい。しかし、正しいことを話しただけで、直接何かが変わるわけじゃないのも事実だ。
そう言うわたしの炊き出しボランティアも、結局短期間で終わってしまった。わたしは就職してから、これといった援助活動を行っていない。何もしないよりは、何かを訴える方がまだ建設的かもしれない。しかし、わたしにはどうしても簡単に反戦や権利について口に出すことができない。


人生の中で何度か地獄に落ちた経験がある。「助けて」と言っても奈落の底に落ちていくような感覚……、それらを上手く書き表すのは未だできない。
人生はガラスの窓で仕切られていて、外の世界は楽しそうなのに、どうして自分だけ出られないのだろう。もがけばもがくほど泥沼になっていく、こういう経験をした人もいるんじゃないだろうか。
外の人はどうやら「権利」「正しさ」「反戦」と言っているようだ。死にかけているわたしは見えないらしい。おそらく、わたしのことは見えないのだろう。
こういう気持ちをどう表したらいいのだろう。今、わたしは生きていて、少なくとも(精神は病んでいるとはいえ)生存は許されている。そしてわたしもまた、「生活が忙しい」「自分の暮らしがある」と言いながら切り分けて、特になにかすることはない。
わたしは生存してしまった。
それは、わたしがたまたま恵まれていたからに過ぎない。



数か月前に、お世話になった福祉施設の出店に客として訪れたことがある。
その時は知っているスタッフの方はいらっしゃらなかった。新しく入ったと語るスタッフの人と少し会話をしたあと、施設で制作された小物を買って帰った。
感慨深かった。かつて利用者として働いていたわたしが、一応会社勤めをしながら客として小物を買えるようになるとは思わなかった。小物を買うことで、おそらく利用者の工賃になるはずだ。
なにかを実際に援助するには、結局強くならないと難しいのだろう。体力、財力、生活の余裕、それらがあって初めて、なにかを助けることが出来るのだと、ひしひし感じている。
だとしたらもっと強くならないと。最近そういうことをよく考える。
福祉施設で買った雑貨は、今もわたしの仕事用のカバンに入っている。生活を犠牲にする中で、ぎりぎりの中で、何かの支えになりたいと思っている日々だ。はたして、それを本当に力にすることが出来るだろうか。