凌辱の場面について
咲夜姫の出版前、静岡新聞社の編集者の方お二人と会って打ち合わせをしたのですが、その時に編集者の方が「この小説は最後の登山が山場のはずですが、途中にある凌辱の場面の印象があまりに強い」といった旨の話をされたことがありました。
小説咲夜姫の第二章「ココロザシの章」では、
婿として認めた若者と咲代さんがその夜は離れの家屋で過ごすこととなり、
しかし不穏に感じた甚六さんが離れを訪ねると、
咲代さんが身ぐるみを剥がされて倒れていた、
という場面があります。
この後、甚六さんは(おそらく初めて)咲代さんの身体にふれ、事の後始末をします。確かに、この場面は刺激が強いです。
筋書きの原作としている竹取物語でもこんな場面は全くなく(家の周りに男がいつも集まってくる場面は写文にはある)、ココロザシの章の最後の展開は、原作を少し変えた創作になっています。
この場面を創作した理由は、ひとえに「人の邪心」の表現です。
咲代さんがそのような状況になった一連の出来事は、弱い者を自分の思い通りにするという、人の最も下劣で邪悪な行動を表しているのです。「人というのはどこまでも愚かで、感情や欲求に心を支配されるものなのだ」と示し、対比して「神様というのは遥かに高みにある存在なのだ」と示すのにもつながります。
しかし本文をよく見ていただくとわかるようにしてあるのですが、咲代さんが凌辱された証拠は一切ありません。あくまで状況証拠のみです。
まず、物語の視点となる甚六さんはその時にはうろたえてまともではなく、そう思い込んであのように対応しただけです。あの場面での文章全体が、錯乱状態になった甚六さんの心情と行動なのです。
そして咲代さんは、依然として何も語りません。ましてやショックを受けているのは甚六さんの方で、当人は直後からけろりとしています。
後年、甚六さんが咲代さんに対してその凌辱のことを口にしますが、咲代さんは「何とも感じていない」と明かします。それは咲代さんにとってその身体がどうせ仮の物であると同時に、彼女は人間の愚かさを初めからよく知っているのです。
しかしながら、後年に自らの正体を明かす時「この身が手篭めにされた後」といった言葉も口にし、結果として凌辱をされていないとも言い切れません。咲代さんにとっては何をされたら「手篭め」というのかはわかりませんから。
これは読む人がどう感じるか次第としています。
人間とは、神の身に手をかけるほど愚かなのでしょうか、それとも踏み留まれるのでしょうか。