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政治に対する雑感7-文学に見る「政治」(後編)-

 文学を通して政治について考察しています。前回はゲーテの「きつねのライネケ」からの考察をしました。今回は、李文烈「われらの歪んだ英雄」より、小説、映画双方を通して考察して参ります。


われらの歪んだ英雄(ネタバレ注意)

あらすじ

 「われらの歪んだ英雄」は、李承晩政権末期である1959年から1960年の韓国を舞台に、ソウルから田舎の小学校に転向した模範的少年の目を通して、級長として君臨していたオム・ソクテがクラスを牛耳る姿とそこからの転落を、大人になってから懐古するという形をとった李文烈による小説及び小説を映画化した作品である。

 主人公である「私」(ハン・ビョンテ)は、5年生のときに父親の事情でソウルから田舎の小学校に転校する。前半では、その転校先でクラスを級長として支配していたオム・ソクテに当初は抵抗を試みるも、最終的にソクテに屈し、共感する様子が描かれている。後半では担任教師の交代によってソクテの立場が一気に崩れ、担任教師の権力、権威を前提にソクテが行っていた悪事がクラス全員から告発され、ソクテが級長の座を追われ、学校から走り去り学校に来なくなるまでを描いている。小説版と映画版ではあらすじが微妙に異なっている個所があるが、特に目立つのはソクテが学校から走り去るシーン以降である。

 小説ではソクテが学校から走り去るとき、ソクテは生徒に捨て台詞を吐いて威嚇した際に生徒は一時的に竦み上がったとあり、学校に来なくなった後も、ソクテは小学校への登校を妨害するなどの嫌がらせを行い、ソクテの行動に委縮する生徒を描いたシーンがあった。また、ラストでは主人公が大人になったときにソクテが警察に捕縛される様子を描くなど、ソクテの行動がはっきりと描かれている。また、ソクテの結末を描くことで、主人公はソクテに屈し、ソクテに抱いていた共感が幻想でしかないことを認識するところで終わる。

 これに対し、映画版では小説と同じように生徒に捨て台詞を吐いて威嚇をするのだが、ソクテが学校から走り去るときに生徒はソクテに嘲笑を交えて罵声を浴びせており、小説とは対照的である。また、ソクテが学校に来なくなった後は、ソクテらしき人物によって教室が放火されたシーンがあるが、ソクテのその後の行方自体は明確には描かれていない。ただ、主人公が大人になって、転校したときの5年生の担任教師の葬儀に参列した際に、「オム・ソクテ」の名前で花環が届けられたことで生存していることが描かれているだけである。その状況を踏まえ、主人公が、韓国が民主化された後の現在においても、自身がソクテを通して体験した状況と変らない状況であり、ソクテの幻影から逃れることができないのではないかと語るところで映画が終わる。映画は、ソクテの持っていた権力、権威の不気味さをよりはっきり強調していると言えるだろう。

小独裁者としてのソクテ

 小独裁者としてソクテはクラスにおいてやりたい放題のことを行っていた。高級そうなライターを見せびらかしていた生徒にそれを貸せ言ってライターを横取りするなどしていた。主人公はソクテの振る舞いを担任教師に告発するのだが、担任教師がソクテを問い詰めると火遊びをするからいけないと思って預かっていただけでライターは返しており、級長としての務めを果たしただけである、と主張した。主人公は粘るのだが、最終的に担任教師はソクテの主張を追認する。担任教師は事の真偽をきちんと確かめたというよりも、ソクテに任せることで自身の負担を負いたくなかったというのは小説の次のセリフからもわかる。

 ここにはここのやり方があり・・・・・・おまえはまずそれに適応する必要がある。ソウルでのやり方が無条件に正しくてここは無条件に間違っているというような考えは捨てなければだめだ。それでもそれが正しいと言い張るなら、せめておまえの態度だけでも変えろ。(略)
 たとえおまえが正しいにしても・・・・・・私はクラスの子供たちすべてに支持されているソクテを支持するしかない。おまえがきっとそうに違いないと信じているように・・・・・・子供たちのその支持というのが、実像はソクテに脅されたりだまされたりしたまやかしのものであろうとも・・・・・・それは同じだ。
 私はとにかく・・・・・・子供たちをそのようにしたソクテの力を・・・・・・尊重せざるをえない。これまで、なんの乱れもなくうまくいっていたわがクラスを・・・・・・漠然とした期待だけでは乱すわけにはいかないからだ。

李文烈著・藤本敏和訳「われらの歪んだ英雄」 P49~P50 情報センター出版局

 このセリフからは、担任教師が、ソクテの権威や権力を背景にソクテが我が物顔でクラスや他の生徒を支配していたとしても、それで秩序が保たれ、自身としての担任教師としての責任が問われることがない以上、問題にはできないという姿勢を採っていることがわかる。この姿勢は前回の「きつねのライネケ」で、ライオンの王様がきつねのライネケが他の動物たちから悪事を告発されても、ライオンの王様自体には問題がないために最終的に不問にしたことと共通するものがあると言えるだろう。

 ソクテの告発を試みた主人公は、ソクテの権威と権力に脅えるクラスの生徒から白い目で見られ、仲間外れになる。そして、掃除の点検を担任教師から任されたソクテによって、主人公の掃除がなっていないとして何度もやり直しをさせるといったやり方で追い詰められる。生徒がみんな帰り、一人にされた主人公は涙を流すのだが、それを見たソクテは主人公が屈したと判断して、ソクテの掃除を合格であると認める。そんなソクテに主人公は、逆に感謝をしてしまう。ソクテの忠良なる配下となった主人公は、ソクテの権威と権力の維持に手を貸すべく、ソクテを学年トップとするため、答案の不正工作を行う一人として協力するようにまでなる。

 ここまではきつねのライネケがライオンの国王の庇護の下に地位を得たように、ソクテが担任の追認の下に好き勝手に振舞っていたというのがわかる。しかし、主人公たちが6年生となって担任が交代することで、ソクテはライネケとは逆に惨めな状況に追い込まれていく。

新しい担任教師の赴任で変わるソクテの運命

 主人公が6年生となった際に交代した若い担任教師は、最初からソクテの言動に疑いの眼をもってかかっていた。授業中に難しい問題があった際、ソクテに問題を解かせようとして解けなかったことでソクテの成績が本当に優秀なのかを確かめた。映画版ではソクテが新しい担任教師から任されていた掃除の点検の権限を認めないといったシーンもあった。そうした状況であるにもかかわらず、ソクテは答案の不正を行い、不正を見抜いた若い担任教師から、棒で何度も尻を叩かれるという醜態をさらすことになった。またソクテの答案不正に関わった生徒も棒で尻を叩き、不正を見逃していたとしてクラスの生徒たちを厳しく糾弾した。その上で次のように生徒に言った。

「五年生のときの担任の先生から去年あったことについて話をきいた。先生の話では、そのときだれもソクテの過ちを書かなかったのでこの学級にはなにも問題がないと思い、引きつづきソクテを信じることにしたということだった。今日、私も同じ考えだ。君たちがソクテのそのほかの過ちを教えてくれないのなら、これで試験用紙すり替えの罰は終わったからこれまでやってきたようにもう一度ソクテに任せるしかない。それでいいのか。一番、まず君から話しなさい」

李文烈著・藤本敏和訳「われらの歪んだ英雄」 P89 情報センター出版局

 このシーンは小説、映画版共通ではあるが、映画版のほうは1番の生徒がソクテに怯える様子で語っているため、若い担任教師が大きい声で言えと檄を飛ばしており、若い担任教師が生徒にソクテと若い担任教師とどちらに従うかと迫っている様子がはっきりと描かれている。しかし、1番の生徒がソクテからビー玉を取られたと話した後は、堰を切ったように女の子のスカートをまくれと言われた、お金を取られたなどと次々にソクテの悪事を生徒は告発していった。次第に生徒たちはソクテに対して抱いていた怒り、反発を交えた形でソクテの悪事を告発するようになっていった。そんな中で主人公はわからないと回答して、他の生徒の反発を買うのだが、その心情を小説は次のように表現している。

 ソクテの悪事を剝き出し暴きたてるのに一番熱心だった子供は、たいていが二つの部類だった。ひとつはソクテの寵愛を受けるのを切望していながらあれやこれやの理由でついには失敗してしまった部類で、もうひとつはその日の朝までソクテのそばにくっついて、彼の数々の悪事に彼の手足としての役割を果たしてきた部類だった。ひとりの人間が悔い改めるのに必ずしも長い歳月は必要ではなく、屠殺(筆者注:日本語訳ママ。「不適切」な用語とされているが、原文を尊重するためあえてこのままで表現する。)者も包丁を捨てれば仏様になれるとも言うが、私には出し抜けの彼らの正義感がどうしても信用できなかった。私はいまでも突然の改宗者や劇的な転向分子は信じられない。特に彼らが人の前に出て喚けば喚くほど。

李文烈著・藤本敏和訳「われらの歪んだ英雄」 P92 情報センター出版局

 主人公のこの心情は映画では、他の生徒と距離を置いていているヨンパルという生徒が、ソクテの悪事を告発する番になったとき「お前たちも悪いんだ」と泣きながら応じたところに表れているのかもしれない。ここからすれば、小説版も映画版も若い担任教師を不正を告発する「正義」の象徴として描いているわけではないことがわかる。(※1)「正義」という大義名分によって権力者が権威付けをし、自分の思うままに権力を行使する行為は、反発を招きにくいし、たとえ一部でそのやり方の問題に気付いた者がいたとしても、そのやり方に逆らいにくい点ではライネケや、ソクテのやり方よりもはるかに恐ろしい側面があることを認識するべきだろう。

 また、生徒たちが若い担任お墨付きの「正義」の名の下にソクテを告発したのは、ソクテ以上の権力と権威を持った若い担任教師が明確にソクテを支持していないことがわかり、ソクテを支持することが自身の立場を危うくすることになったからと言えるだろう。加えて、ソクテの下で悪事を働いた生徒たちは、答案の不正行為に加担した者を除けば、彼らの罪、責任が問われなかったため、結果としてソクテの悪事のみを告発、糾弾したことでソクテによって生じたすべての問題が解決されたとみなされてしまったのである。そこからしても、若い担任教師は「正義」の名の下にソクテを級長の地位から追いやり、自分の望みたい方向にクラスを誘導したかったという解釈もできる。

 だとすれば、当然きつねのライネケも、ライオンの王様が世代交代で別の王様になるか、あるいは「動物農場」にいる豚のスノーボール、ナポレオンらが率いる革命政権に影響されて、ライネケの住む国で革命が起きたとしたら、ソクテと同じ-むしろソクテ以上の悲劇が起きそうだが-悲惨な運命をたどるのではないだろうか。ここからすれば、ソクテもライネケもしょせんは自身よりも強い者によって生殺与奪が決まる立場に過ぎない。

政治、社会の理不尽さ、不条理さにどう向き合うべきか

 本当の意味での政治、社会の理不尽さ、不条理さというのは、キツネのライネケ、ソクテを含め、私たちが生殺与奪の権限を持つ権力者に自身の運命を左右されることにあるのではないだろうか。そのような政治、社会の理不尽さ、不条理さに立ち向かうには、私たちはどうすればいいのだろう。私たち一人ひとりが様々な問題に対して、「きつねのライネケ」の追従者や「われらの歪んだ英雄」でソクテを告発する生徒たちのようにその場の風潮に流されるのではなく、個々の問題に主体的に向き合い、自分たちの力で解決をするということが必要なのではないか。

 こんなことを書けば、私のnote記事の常連の皆さんの中には、またか、と思われる人もあろう。しかし、私たち自身が政治家の言動を嘆き、有能な政治家を求めるヒロイズムに与し、主体的に政治に向き合わない「お任せ民主主義」に留まる限り、日本の政治はいつまでも不信感と堕落を繰り返すだけである。こうした傾向は最悪の場合、ワイマール共和国末期に圧倒的な力を持つ指導者を待望した当時のドイツの風潮と同じ道を辿りかねない危険性があるということも付記しておく。

 私自身この「繰り返しの主張」が終える日を待ち望んでいる。だからこそ、私たち一人ひとりが政治にきちんと向き合い、各々が主体的に政治に向かい合い、また政治に向かい合うことで生じる負担、リスクを受け止める覚悟を持つことが求められるだろう。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1) 映画版では、6年生のときの担任教師は5年生の担任教師の葬式の際には、政治家となって表れたのだが元の生徒たちにはまったく関心を示すこともなく、葬式の関係者にあいさつ回りをするという行為をしていた。そこに、6年生のときの担任教師の本質は何かということを映画版では表現したかったのかもしれない。


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