政治に対する雑感7-文学に見る「政治」(前編)-
キツネのライネケ
デジャブが現実のものと知ったとき
小学校の頃、NHK教育テレビ(「Eテレ」)の児童向けに放送されていた人形劇で、この話は何が言いたかったのだろうと不思議な気持ちに感じた話があった。それは、殺害、詐欺、強奪などいろいろと悪事を働いたキツネが他の動物から告発され死刑判決を受けた際に、いろいろと弁解をし、秘密の財宝の隠し場所をがあると訴えて王のライオンに赦免され、また、これに反発したオオカミを返り討ちにして、王の側近にまでのし上がるという話である。
私は、この話を、勝手にいろいろな話をごっちゃにしたありもしないデジャブではないかと、つい最近まで感じていた。それでもどことなく気になっていた私は、何気に検索サイトで「きつね 死刑」と検索した際に、私が思っていたあらすじ通りの話を紹介しているサイトを見つけた。そのサイトには「キツネのさいばん」とあったが、さらに詳細に調べてみると、12世紀から13世紀にフランスの「狐物語」と呼ばれる動物の叙事詩をゲーテが六脚韻詩形(ヘクサーメーター)という韻文で書いた「キツネのライネケ」(※1)という話であることがわかった。
擬人化された動物の言動にみるパロディとしての社会の縮図
心のもやもやが晴れた私は、「キツネのライネケ」のオリジナル自体を知りたいと思い、図書館から本を借りて読んだ。そこで抱いた感想は、ピカレスク文学というよりも、ある種の政治、社会における理不尽さ、不条理な側面をも描いた作品だったのではないかということだった。ライネケは自分の悪事に対して、タヌキで甥のグリムバートに対して次のように言う。
ただ、ライネケはこのように言いながら、狼のイーゼグリムとの決闘に勝利し、王から側近とすることを告げられたときには次のように態度を変える。
自分の立場が都合のいいものになった際、自分の言った言葉など忘れたかのように態度が変わるのは、ライネケの図太さの表れと言ってしまえばそれまでなのかもしれない。ただ、先に引用した箇所にはライネケが悪事の限りを尽くしているにもかかわらず、「言葉をつくしてほめそやす者たち」がいるとある。彼らの中には、ライネケが狼のイーゼグリムに決闘裁判で勝利をしたことで態度を変えた動物もいる。そのときの描写もまた興味深い。
ここからは、社会においては勝った者、力の強い者が正当であるとみなされるという理不尽な現実が見事に描かれている。また、その理不尽な現実を人間ではなく、動物で表現することを通して、ある種のパロディ、風刺の側面が表れていることも、この作品をより魅力的なものにしていることがわかる。子どもの頃にわからなかった「きつねのライネケ」を大人になって読んでみると、きわめて深い作品であり、児童向けの童話には向かないのではないかと感じさせられた。
きつねのライネケはそのまま悠然と過ごせるか
ゲーテは「きつねのライネケ」がそのまま王の側近になったというところで話を終えている。だが、私は、本当にライネケはそのままの地位に甘んじたままでいられるだろうか、という疑問を抱くのである。ライネケが死刑を免れて王の側近にまで上り詰めたのは、王がライネケの口車に乗ったという「運の良さ」にも支えられているのである。もし、王が代替わりで交代をしたとき、ライネケはそのままの地位を維持できるだろうか。次回は、ライネケが交代した権力者によって疎まれたらどうなるかという視点を描いているのではないかと私が感じた文学作品についてご紹介したい。
私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
脚注
(※1) 作:ゲーテ 編訳:上田真而子「きつねのライネケ」 P197~P199 岩波書店
サポートいただいたお金については、noteの記事の質を高めるための文献費などに使わせていただきたくよろしくお願い申し上げます。