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中沢啓治「はだしのゲン」から学ぶ(後編)-中沢啓治の教育論-

 先週の前編では「はだしのゲン」を通して被爆者および戦争責任の問題について考察しました。今回後編では「はだしのゲン」に見られる作者の教育観を取り上げたいと思います。

独断と偏見に満ちていた教育者

 「はだしのゲン」には、教室にあった金がなくなったのはそばにいた姉英子が盗んだからだとして、英子が職員室に連行され裸にされた上で夕方遅くまで教師から詰問され続けるシーンがある。(※1)漫画の中では意地悪な生徒が教師に非国民の家の子だからと告げ口をしたというフィクションの部分が追加されているが、これは実際に起きたことである。(※2)

 実際の事件は、同級生がノートに金を入れたのを間違えてお金がないと勘違いしたため、盗まれたと教師に報告したことで起こった同級生の誤解によるものであった。しかし、教師は、中沢の父親が思想犯として特高に連行され拘置された経験があったことを理由に、「非国民」の家の子である英子が金を盗んだという偏見を抱き、職員室で英子を詰問し続けたのだという。事情を知った父親は怒り、校長と担任に対して激しく抗議をしたという。その際父親は次のように語ったという。

 家に帰ってきた父は、まだ腹の虫がおさまらないといった怒りの顔で、「子どもの心に一生消えない傷をつけやがって、校長と担任の奴に徹底的に思い知らせてやった!」と母に話していた。(※3)

 その上で英子に堂々と胸を張って学校に行けと励ましたのだが、そのときの様子を子どもながらに頑固で頼もしい父親に見えたと中沢は語っている。

 戦前の初等教育、中等教育における教員は原則として師範学校を卒業した者であることが条件となっていた。戦前の師範学校は、学費を無料にする代わりに天皇制国家にいかに忠誠を誓うかという観点からの教育を行う教員を養成する極めて国家主義的な傾向を持っていた。そのため、教育者の多くは生徒一人ひとりの人格、個性を尊重し、主体的に行動する生徒を育むという観点を欠いていた。以上の戦前における教育者の社会的背景を考えると、なぜ教師が英子に対し、英子の尊厳を傷つけるようなことをしたのかという原因をうかがい知ることができる。

戦後も続いた天皇制国家主義による教育

  戦前の教員が抱いていた国家主義に基づく教育観は敗戦とそれによる米軍占領による戦後の民主化によって解消されたとは限らない。墨塗り教科書といった形などで軍国主義的とされた内容の教育は表面上忌避されたが、それは自発的なものではなく上からの指令に従う形で行ったものであり、民主主義の理念に基づいた主体的に行動する生徒を育てようという発想を根本的に欠いていた。その典型例が中沢が戦後2年目の1947年の元日に経験した宮城(皇居)礼拝である。そのときの様子を中沢は次のように記している。

 この年の元日、冬休み中であったが全校生徒が登校するよう強制された。私はサボルつもりで布団にくるまって寝ていたが、同級生が登校の誘いにやってきた。「登校すると紅白の餅がもらえる」と聞いて慌てて登校した。食い物につられて登校してみると、全校生徒が校庭に整列させられ、校長がモーニング姿で朝礼台に立ち、PTA役員や地域のボス、教師たちが前面に正装して並んでいた。「一同、東向けー、東!東京の皇居にいられる天皇陛下に向かって新年の挨拶!一同最敬礼!」と号令がかかり、全校生徒が深々と頭を下げた。担任が「よしっ!と言うまで頭を上げたらいけんぞっ!」と注意してまわった。私は、この光景にあ然としたのだ。(※4)

 同年12月7日には昭和天皇が広島を訪問するが、その際に担任の教師は日の丸を生徒に作らせた。その上で、生徒に天皇の車が通る沿道に並ばせて、万歳の連呼と旗を振って歓迎するように指示したという。天皇の車が通過したとき、中沢は自身の父親や姉弟を失ったこと、戦争によってどん底の生活を強いられていることへの怒りにあふれ、瓦の破片を蹴りあげたと語る。(※5)教師が相変わらず天皇制国家への忠誠を維持し、それを生徒に教え込もうとしていたことがわかるだろう。

 このような状況にある教師は当然人権や民主主義の本質とそれに基づく生徒の人格、個性を尊重する教育を理解していなかった。反抗的だった中沢は教員から職員室に呼びつけられ、耳を引っ張られたり、壁に頭を打ちつけられたりした上で、中沢が将来刑務所に行くことになることを保証するといった人の尊厳を傷つけるような言葉まで投げかけたという。(※6)

教育者の理想としての太田先生

 「はだしのゲン」には、ゲンの中学校時代の担任として、太田先生という教育者が登場する。他の教育者が教師の権力を利用し、生徒への体罰や尊厳を傷つける行為を平気で行う中、太田先生は生徒一人ひとりの人格を認め、体罰をせず、生徒との対話を通じて互いに理解し合おうと試みる教育者としてあるべき理想を体現した人物として登場する。学校は太田先生が再軍備、米軍基地反対による平和運動に参加したことを理由に解雇するのだが、生徒は太田先生が生徒一人ひとりの個性と人格を認めてくれたことを評価し、なぜ解雇されたのかと口々に話す。

はだしのゲン8(P96,P97 教師の体罰批判)

はだしのゲン8(P98 担任を評価する生徒たち)

「はだしのゲン」8巻  P96~P98(汐文社)刊より

 ただし、中沢の自伝からは太田先生をイメージする教育者の話は出てこない。おそらく太田先生は中沢があるべき教育者として考えた架空のキャラクターであろう。「はだしのゲン」は第1部は商業誌である少年ジャンプで連載をされているが、第2部は硬派色の強い総合誌「市民」、「文化評論」、「教育評論」で連載されていた。太田先生が出てくるのは第2部であり、教育者向けに描かれた内容であることを考慮する必要があるかもしれない。ただ、戦前の天皇制国家主義の影響を強く受けた教育者がいないであろう現在においても、いまだに教育者による体罰、生徒の尊厳を傷つけるような行為が後を絶たない中で、太田先生の姿勢から学ぶべきことは多いのではないだろうか。

 私は部活動における問題を中心に教育についての問題をいくつか取り上げてきたが、(※7)生徒に暴力を振るい、生徒の人格、尊厳を否定する教育者には目に余るものがあると考えている。教育者による暴力、尊厳を否定する行為が相次ぐことを考えると、戦後の教育の民主化がなされた後も学校現場における教員の権威主義的体質は戦前同様に温存されたのではないかと思わずにはいられない。「はだしのゲン」は反戦と核兵器の問題をテーマに取り上げた作品ではあるが、その根底にあるのは人間の尊厳が不可侵であるという理念である。「はだしのゲン」で描かれた教育問題や中沢自身が体験した教育者の問題が現代でも続いていることに私たちは真摯に考えるべきなのではないだろうか。 

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(※1)  中沢啓治「はだしのゲン 1」P54~P57 汐文社

(※2) 中沢啓治 「はだしのゲン 自伝」P29~P30 教育史料出版会

(※3) 中沢 「はだしのゲン 自伝」P30 教育史料出版会

(※4) 中沢 「はだしのゲン 自伝」P140 教育史料出版会

これを元にした話が「はだしのゲン 5」P132~P135に描かれている。

(※5) 中沢啓治 「はだしのゲン わたしの遺書」P121~P125 朝日学生新聞社

中沢 「はだしのゲン 自伝」P141~P142 教育史料出版会

これを元にした話が「はだしのゲン 5」P62~P63に描かれている。

(※6) 中沢 「はだしのゲン 自伝」P153 教育史料出版会

(※7)



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