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普通の人生、才能なんてない。

0歳〜5歳


横浜市内の病院で産まれる。家は賃貸で2階建。最寄りの駅まではバスで15分くらい。今でいうところのメゾネットタイプ。1階にリビングとキッチン、2階に書斎と寝室。寝室は妹と2段ベッドで自分の部屋は無かった。ファミコンとソフビのウルトラマン、ガンダムのプラモデル、おもちゃは溢れるくらいあった。初孫だったからか祖父母には溺愛されて育った。父親は電気工事の仕事をしていた。どんな仕事かよくわからないんだけど、電柱に上って修理とかしてたと思う。母親もなにかのパートで共働きだったから保育園に預けられてた。
その後地元のなんてことない幼稚園へ。延長保育の日もあった。誕生日、クリスマスにはケーキとプレゼント、正月は車で少し行ったところの祖父母の家で餅つき。それが普通の環境で育った。

6歳〜12歳

ちなみにお年玉は年齢が上がるにつれて金額も上がっていった。小学6年の頃には親戚間暗黙の上限1 万円を6家族ぐらいがくれるような感じだった。
小学校は区内の市立学校、2年生の時に同じ区内に出来たライオンズマンションに引っ越し。転校しないように気を使ってくれたんだと思う。3LDKで自分の部屋もくれた。一度父親が自慢げに見せてくれたレシートもみたいな給与明細は手取りで50万円くらいだった。海外旅行は行ったことなかったけど、年1で国内の旅行。キャンプや釣りが好きな父親だったからホテルとかよりもコテージみたいなとこに泊まることが多かった。ちなみに僕は虫も嫌いだし、釣りも餌が触れないから行きたく無かった。父の車はHONDAのシビックという乗用車。分相応なくらし。カセットテープからは槇原敬之やドリカム。洋楽やバンドサウンドな曲は流れて無かった。実際僕はいとこにミスチルを初めて聞かせてもらった時に、シャ乱Qかと思った。それくらい音楽に疎かった。

今書いてて思い出したんだけど、父親はフォークギターが弾けて昔プロのミュージシャンを目指していたっぽい。曲は聴いたこともないし、ギターを教えられても無い。実際僕は今もまったく弾けない。
家に音楽を聴く環境は整ってなかったと思う。特にこだわりのないCDコンポがあっただけでCDも山のようにあったわけでも無かった。

テレビでよく観ていたのは金曜ロードショーの映画と、野球だったと思う。チャンネル権は子供には無かった。映画といえばその頃はTSUTAYAもない時代だったので車で10分くらい行ったところにある名前も忘れたレンタルショップへ行かせろとせがんで、月一くらいで好きな映画やアニメをレンタルしてた。主にディズニーアニメやドラえもんの映画、ゴジラvsなんちゃらとか、学校の大多数が好きだった特に個性のないラインナップを好んで見ていた。

習い事は野球と習字とそろばんをしていた。多分月謝はそれぞれ5千円くらいだったと思う。それでも合宿や道具の金額はあっただろうから結構なお金がかかっていたはず。妹も同じようなラインナップで習い事をしてた。

たしか僕が10歳くらいから母親は内職をしていた。車についてる雨よけ部分のビニールをつける仕事だった。2個作って1円とかだった。
大人が働くという姿を間近で見て、お金を稼ぐって大変だなと思った。
そのころぐらいから多分無意識化に”我慢”することが母親を助けるんじゃないかと感じ始めた。溜まったお年玉で何かを買う以外は何もねだらなくなった。
小学6年の頃に、ビージーズのCDが欲しくて近くの新星堂に母親と行ったけど、我慢して母が欲しそうにしていた今井美樹のプライドを買った。本当は欲しいCDがあったって言えなくてなんか悔しい気持ちになって夜な夜な泣いた。いやもしくは誰も自分のことはわかってくれないんだと感じたのかもしれない。言わなきゃ伝わらないのに。

13歳〜18歳

中学では野球部、学力もごく普通の学生だった。中2の時に部活の先輩のいじめに耐えられなくなって退部、バレー部へ。
音楽に対してはというと、昔よりは興味が出てきたのか、もしくはJPOP全盛期でみんなが音楽を聴いていたから好きだと思いこませていたのか、良くTSUTAYAに行ってCDを借りてはミックステープやミックスMDを作っていた。ラジオも予約して聴いて録音していた。globeやSophia、Ziggy、ジュディマリが好きだった。同級生が好きだったXやHideは理解できなかったけど好き"より"の演技をしていた。

高校は県立の高校を受験した。塾には通っていた。
この時はゲームが好きだったからゲームに関わる仕事がしたいなと思ってたけど、思ってるだけで特になり方を調べたりしなかった。本当になりたかったわけじゃなかったんだと思う。やりたいこともなかったからギターをやってる友達に誘われるまま軽音楽部に入部した。YHMFという高校生の全国のバンド大会の決勝に行って横浜アリーナで演奏したのが青春のピークだったと思う。本当に運が良かった。ベースがめちゃくちゃ上手くて、ドラマーが努力家でギターが音楽に前向きだったから。僕はただくっついて歌っていただけ。当時は一生懸命やってたつもりだけど今思えば努力という努力はしてなかった。というかやってもそれなりにしか出来ない自分に気づきたく無かった。音楽の才能がが自分の中には存在しないことを認めたく無かった。
さして努力もしないくせに進路相談では、なんとなく音楽に関わる仕事がしたいなとたぶん他にやりたいことも無かったから目の前にあるなんとなく知ってる職業を選んでいた。大学受験と同じくして親が離婚した。行きたかった大学には落ちた。

浪人するならお金は出さないと父に言われて、高校の担任に言われるがまま日本工学院専門学校に願書を出した。高校受験と違って願書を出したら入学が決まった。
母親についていったので、住んでいたマンションから少し離れた場所にある市営の団地に移り住んだ。親戚が集まることもなくなり上限いっぱいだったお年玉はもらえなくなった。早く就職してお金を稼ぎたいなと思っていた。

そんな気持ちもあってか、就職活動への動き出しは学年イチ早かった。早かったというだけで内定をもらった。それだけ。当時を思い出しても、今この瞬間心の中を探ってもやっぱり音楽の才能はない。

それでも音楽に近い仕事をしている。どっかの誰かが羨ましいな、いいな、と思うくらい近いところにはいる。好きなことを仕事にしている。

世の中には、特に音の世界ではすげぇなって思う人がたくさんいる印象だと思う。少なくとも僕の目にはそう写っている。

育った環境は特別良いわけでもないけど、悪いわけでもなかったと思う。何かに打ち込んで継続した努力もしたわけでもないし、特別な才能があったわけでもない。勇気のある決断をしたわけでもないし、誰もがすごいと思うような行動もしたわけじゃない。人生にガチャがあるとしたらN +ってとこだと思う。

だからまぁなんというかもう少し楽に、自分に出来そうなことだけやったらいいんじゃないかな。



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