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UT-Basecamp2期振り返り記事(前編)

2022年3月。UT-BASEが主催する自主ゼミ、UT-Basecampが再始動した。
以来、「最先端の教養を、最高峰の講師と。」をキャッチコピーに、文理を問わず次世代を担うための教養を身につけるべく、約30名のゼミ生たちが1セメスター間共に学んできた。
課題図書を通じてゼミ生たちが考えたこととは?
各界のトップランナーとの白熱したディスカッションの内容とは?
その全貌を、2回にわたる振り返りレポートでご紹介!
今回は前編(「学びとは」「メディア」「人工生命」回)をお届けします!

1. ゼミ形態

UT-Basecampでは、欧米の大学で一般的な多読・多議論の授業スタイルを採用。各回に課題図書が設定され、ゼミ生はそれを読んだ上で論点や感想、関連資料などを予習課題として提出する。そして、学生のみでのディスカッション回で綿密な事前準備をした後、講師の方にご登壇いただく本番回を迎える。

2. 「学びとは」回

講師
千葉雅也先生(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)
課題図書
勉強の哲学』

設定された問い
【問1】
環境に対しメタな立場に立ち、「キモくなる・ノリが悪くなる」フェーズを超えた先での「享楽的なこだわり」に即した「行為」とはどのようなものですか?これまでの自身の経験に即して具体的に考えてください。(参考:p. 120〜, p.161〜163)
【問2】
UT-Basecampでの勉強を通じ、あなたはどのような「来るべきバカ」になりたい(なりたくない、も可)と考えますか?また、そのために本ゼミをどのように活用すべきと考えますか?
【問3】
「次世代のリーダー」が生涯を通じて学び続ける意義とは何だと考えますか?その理由は?

ゼミ生からの質問(抜粋)
「享楽的こだわり(※)」を常に仮固定とし、絶えず変化させていくということは自分の芯が定まらないようで怖く感じるが、このことについてどのように考えられているか。
課題図書では環境のノリから脱することが重視されていたが、ゼミのようなコミュニティ(=ある種の環境)の中で友と学ぶ意義をどのように捉えられているか。
先生はなぜ勉強しているのか。どのような目的でこの本を書かれたのか。
自分の享楽のために勉強することと、社会貢献への手段として勉強することに本質的な違いはあるか。
※「享楽的こだわり」とは、千葉先生が課題図書(『勉強の哲学』)の中で用いている言葉。自らが何らかの要因で強く惹かれる事柄や概念、ひいてはそれに結びついた学問分野を意味する。

UT-Basecamp第2期の初回テーマとして設定された「学びとは」。これから半年間のゼミでの学びをメタに捉え、より充実させるための姿勢を身につけるべく、『勉強の哲学』の著者であり立命館大学教授の千葉雅也先生をお迎えした。課題図書を読んでの疑問や具体的な勉強法についてから先生自身の勉強を通じた気付きに関するものまで、学びに真剣なゼミ生たちから様々な質問が飛んだ。

中でもひときわ議論が熱を帯びたのは、インテリの社会の中での立ち回り方や、ノブレス・オブリージュについての質問である。

「インテリである、特殊な能力があるということ自覚は持った方が良いが、『ノブレス=高貴である』という姿勢は良くない。インテリたちは、積極的に世の中と交わり、バカにされ、汚れながら、インテリの言葉が通じないような環境の中で、それでも自分のこだわりに向き合おうともがくべき。

という千葉先生の言葉は、多くの学生の胸を打ったように思う。
止まらない質問と挙手に、「千本ノックみたいだね」と笑いながらも先生は丁寧にゼミ生に向き合ってくださり、最後にこのようなメッセージをくださった。

「人のために役に立つことを初めから目標にすると、自己享楽のあり方をきちんと分析できなくなる。自己の享楽やエゴに本気で向き合って、そこから拓く利他こそ真の利他である。自己享楽と利他の自分なりのバランスを探して欲しい。

以後続く他のテーマ回においても、ゼミ生が千葉先生の言葉や課題図書に関する議論から得た考え方を用いる場面が多く見られたり、講師の先生の説明される概念に「これは勉強の哲学で言う『環境のノリから脱する』ことに通ずる!」などの反応が見られたりしたことからも、UT-Basecamp2期での学びに与えた示唆の大きな回となった。

3. 「メディア」回

講師
佐々木紀彦氏(NewsPicks初代編集長)
課題図書
林香里『メディア不信』
参考図書
下山進『2050年のメディア』
立花隆『アメリカジャーナリズム報告』

設定された問い
問1】
サイレントマジョリティの「慣れ親しみ」や政治への無関心が危ぶまれる日本において、「マイ・デジタルメディア」の選択を推進することは①可能なのか、②良いことなのか。
【問2】
デジタルメディアが過度な商業主義・市場原理に走らず、「知の共通基盤」を創生する/「公共性」を再興する/「包摂機能」を確保することは可能なのか。可能である/にしたいならば、種々のアクターはそれぞれどのような行動を取るべきか。(参考:p212~224)

ゼミ生からの質問(抜粋)
NewsPicksはサブスクリプション制だが、あえてターゲットを絞っているのか?知の蓄積を広く一般に共有することはあり得るのか?
商業主義的な面と公共性のバランスをどう取ろうとしている?また、そのバランスを取ろうとする時の障害は何か?
マイメディア(功罪ある)による日本社会の分断は起こるのか、起こらないのか。日本固有のメディア運営のあり方はあるのか。

誰もがジャーナリストとなり得る一方、フェイクニュースも蔓延るソーシャルメディアの時代。権威を失いつつある伝統メディア、そして勃興しつつあるデジタルメディアに求められるプロフェッショナリズムや公共性とは一体何か。NewsPicksの初代編集長を務めた、日本メディアの最前線に立つ佐々木紀彦氏と討論した。

多様な形式のジャーナリズムを経験するとともに、ビジネス的な側面からコンテンツを開発し、縦横無尽の具体例を持ち出して論を展開する佐々木さんの姿には、商業ジャーナリズムを追求するメディア人のモデルが重なって見えた。

佐々木さんによれば、「職業(プロフェッション)としてのメディア」で大事となる能力は三つあるという。

第一に、何らかの分野での専門性。アカデミズムとプロフェッショナルジャーナリズムの接合が肝要となっている。
第二に、なんらかの表現の手段に対する卓越性。文章や映像、音声など、何かしらの手法で長けていることが大事になる。YouTubeやTikTokをはじめとした映像や、Podcastなどの音声の時代。双方の表現方法を習得していることは大きな強みとなるし、自分を表現するスキルがないと、世論形成にも関われない。
第三に、距離の置き方。二極化が助長されやすい環境において、主観的な自分と客観的な自分を常に両立し続けるスタンスが大事であると力説した。強いメタな自我をたて、何にも取り込まれすぎないようにすることが、信頼されるジャーナリストに枢要であるとした。

確かに、商業ジャーナリズムと公共性の両立は難しい。けれども、各ジャーナリストが高いプロフェッショナリズムを胸に、追求し続けなければならない課題である。ゼミ生は、真実の探究という崇高な理念をもとに自らコンテンツ制作者、メディア人として情報生産に携わることの重要性を認識した。

4. 「人工生命」回

講師
池上高志先生(東京大学大学院総合文化研究科教授, 株式会社オルタナティヴ・マシン 取締役)
課題図書
池上高志・石黒浩『人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか』
参考教材
『動きが生命をつくる』池上高志 (2007)
Ghelia Monthly〜Alife (人工生命)とAI
alife FM(第1回 鈴木健×池上高志)

設定された問い
問1】
Roomba(掃除ロボット)とaibo(ペット型ロボット)のどちらにより「生命性」を感じますか?何が生命性をもたらしており、何が不足しているかを考察してください。
【問2】
人工生命の議論を踏まえて、ロボットに置き換えることが難しいあなた(人間)に固有のものは何でしょうか?
【問3】
人工生命や自律型のロボットは未来の社会にどのような影響を与え得ると思いますか。以下を例に自由に考えてみてください。
a. 人間という存在の変化
b. 新しい哲学の発展
c. 法体系や権利の変化
d. 社会や人間の役に立つ応用可能性
ゼミ生からの質問(抜粋)
人工生命とは何なのか?池上先生は何をどう目指しているのか。
・人間性と生命性の違いについて:ロボットに生命性を求めることと人間性を求めることはどのように違うのか。
・「生命」「人間」の定義というものは原理的に拡張・進化していくものなのか、それに終わりはあるのか。
・人工生命と人工知能の1番の違いは、人工生命は資本主義における生産手段ではなく、消費者や資本家側になれることなのではないか。

「人工生命」。人工知能の存在感が増す現代において、人工知能の一歩先の未来を覗き議論しようと設定したテーマである。多くの学生にとって初めて触れる概念が多い中で、それらの「異物」を吸収して一気にアウトプットに持っていくという挑戦的な内容であった。初めて触れる対象とどのように向き合うのか、「学び」の姿勢にも拘るゼミ生にとってその真価が問われる時間でもあった。

池上先生との議論では、自分が立っている前提そのものを見つめ直すことになった。

人間の絶対性に疑問を投げかけ、人工生命主体の社会すらも想像させてしまう池上先生のビジョンにゼミ生の価値観が揺らいだ。「確かに人間の認識枠組みに縛られていた」「人間がいくら愚かでも、人間という枠組みから脱することなく向き合う方法もあるはずだ」。「納得感」と「違和感」をぶつけ合う。自分が本当は何を大事にしたかったのか、「自分(エゴ)」と「社会」の間を価値観が彷徨う。

大事なことは、相対化されて崩れた自分の価値観を、再び組み立て直すことなのだろう。ゼミでの議論は、その際に良い軸を与えてくれるものである。そして、再び組み上げた時に自分がなお信じているものこそが、己の人間性をよく示す核となっていく部分となるに違いない。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
振り返りレポート(後編)では、「ソーシャルビジネス」「ジェンダー問題」「メタバースとWeb3」回、そして最終発表会をご紹介しています。
是非併せてご覧ください🙌

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