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表層はどうでもよくて、どうでもよくない

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ひでひでまんに写真を撮ってほしいとお願いした。結構勇気がいった。昔から自分の顔を見るのが得意じゃなくて。

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もっと愛らしい顔になりたい。奥二重の目も鼻のかたちも口の下にある黒子もコンプレックスだった。実は鼻の黒子は一回切除したことがある。(いまでは再生してしまったけど笑)

鏡を見てもニキビや肌の乾燥具合などにピントを合わせるだけで、実際自分が今どんな表情をしているのかわからなかった。いや、見るのが嫌だっただけか。

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特に大きく笑った時の顔は特に苦手で。あんなに楽しい時間だったはずなのに、楽しくておかしくて大笑いした自分が写った写真をどうしても好きになれない。そう自覚した中学から大学に入ったぐらいまで、写真を撮られる時は口を閉じて口角を少しあげるだけで、大きく口を開けて笑うことが少なくなった。わたしはポーカーフェイスと呼ばれるようになった。

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今思えば、人の目に映る自分を美しくしたい願望がすごく強かったのだと思う。人のモノサシをどうにかしようなどおこがましい限りなのだが、人一倍人の目を気にしていて、表層化するものを綺麗に整備していたかったのだ。

わたしが意識を向けるべきは顔ではなく、顔つきであり、そしてそこに紐づく感情の揺らぎであるはずなのに。

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なんだか最近どうでもよくなってしまった。アホほど笑っている写真を見るといまだにギョッとしちゃうこともあるけれど、あんまり気にならなくなった。楽しんだからしょうがない。

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あと「人はそこまで自分を意識してないし見てない。」ことに気づいて、それをしっかりと腹に落とせたことは、わたしをすこし前進させたかも。

他人に映る自分がどうかなんて一生わからないし、操作できるものでもない。存分に笑え、楽しんだからしょうがない。

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そんなことよりも、写真には関係性がうつる。こんな表情をさせてくれる友人が隣にいるということ。なんということだ、ああ、幸せだなあ。

ひでひでまん、ありがとう。

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笑顔だけがいいとは思わないけど、幸せが顔に出るのはめちゃはっぴーだなと今は思えるよ。

わたしはわたしの顔つきを素敵にする義務がある。誰かと共にありながら。





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