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アルマートイフェル【第九話】





 八月十六日、土曜日。幸いにも今日は仕事は休みだった。とはいえ仮に今日、仕事のシフトが入っていたとしても、今の僕の精神状態では出勤するのは不可能だったと思う。昨日の無断早退の説明も結局まだしていない。今回ばかりはかなりの叱責を受けるだろうし、それどころか即日解雇を言い渡されても文句は言えまい。だけど、仕方ない。それでもいい。どのみち僕はもう今の職場には戻れない。支配人にも同僚にもアルバイトの子たちにも、そしてなにより大沢さんにも、もはや合わせる顔がなかった。

 朝早くに目を覚まし、寝起きの体で洗面台の前に立った。水道の傍らに火口のスマホが無造作に置かれている。一応、マスダに言われた通り水没させてはみたものの、それにどれだけの効果があるかは分からない。昨日着ていたワイシャツは洗わずにそのままゴミ箱に捨てた。シャツの至るところに彼女の血がベタベタとついてしまっていたからだ。どうせ洗っても取れないだろうし、そもそもあの女の血がついた服なんて、二度と着たくはなかった。

 白色蛍光灯に照らされながら、バシャバシャと乱暴に顔を洗った。意外にも夜はぐっすりと眠れたが、体の怠さは昨日よりもはるかに増していた。目の前の鏡を見ると、そこに映る自分が自分ではないような気がした。顎にはポツポツとみっともない無精髭が生え、痩せこけた表情はやつれて痛々しい。無理して笑顔を作ってみても、目を閉じて捏ねた粘土のように歪んでしまう。

《さぁ、笑いなよ、水島京太くん》

 マスダの声が聞こえた。ハッと後ろに首を捻るが、当然、誰もいない。正面の鏡に向き直ると、今度は、その鏡に映る僕自身がマスダに成り変わって笑っていた。

《笑うんだよ、ほら、笑うんだ》

「もう……、もう、やめてくれ……」

《狂って、笑うんだ。さぁ、水島京太くん、笑おう、一緒に、さぁ》

「助けてくれ……、もう嫌だ……」

 なにもかもが嫌だった。木崎、火口と繰り返される殺人劇も、マスダも、陽も、晴希も、夕美も、稲田も、父も、すべて忘れたかった。自分の人生を放棄し、どこか別の世界へ逃げ出したかった。───だけど、分かっている。もう止められないのだ。

《誰もがグレムゴブリになりうるんだ》

 先日の陽の言葉が聞こえた。僕が言ったのか、マスダが言ったのか、とにかく鏡に映る誰かが言った。

「グレムゴブリは架空のモンスターだ。現実に存在するはずがない」

《陽はグレムゴブリだ》

「でも……」

《みんなグレムゴブリだ》

「……だとしたら、グレムゴブリだらけの、こんな世界で……、僕は……僕はどうしたらいいんだ……!」

《なにを勘違いしている》鏡は言った。《お前もグレムゴブリだ》





 午後にならないうちにアパートを出て、花吉中央駅から電車に乗った。金子晴希を調べることが、今日の一番の目的だった。晴希は二日前の同窓会で僕が手紙の存在を口にした時、陽と同様、明らかに動揺を見せていた。それについて陽や火口たちとも連絡を取り合っていたようだし、あいつがなにか事情を知っているのは間違いなかった。

 あの手紙はなにを意味しているのか。十二年前、本当はあの公園でなにがあったのか。本当に陽が夕美を殺したのか。どうして陽は夕美を殺したのか。もう一度晴希に会えば、あるいは晴希の身辺を探れば、その真相にまた一歩近づける気がした。

 もちろん、今のあいつがなにをしていて、どこに住んでいるのかなんて僕には知る由もないが、彼の実家の場所は辛うじて脳の片隅にうっすらと記憶していた。高校一年の頃、つまり僕たちがまだ友達だった頃に、一度だけそこに遊びに行ったことがあるのだ。

 花吉中央駅から鶴松駅を越え、そこからさらに一駅先の西山田にしだやま駅で電車を降りた。一駅先といっても、ローカル線のそれは都市部の三駅先にも、四駅先にも相当する。時間にして十分弱。駅のある西山田町は隣の鶴松町よりもさらに小さな田舎町で、ここから電車に乗って城金山の中腹にある僕たちの母校に通う生徒も少なくない。晴希も、かつてはそんな生徒のうちの一人だった。

 連日の雨の湿気でじんわりと背中に汗を滲ませながら、しばらく駅からの道なりを歩いたところに晴希の実家は建っていた。見るからに裕福そうな三階建ての一軒家。チョコレートケーキのような煉瓦造りの家屋を取り囲む背の高い石垣には、青々とした蔓が縦横無尽に這っている。そこに取り付けられたインターフォンを親指で押すと、ピー…ンポー…ンと間延びした音が鳴り、やや間を置いて、正面奥の玄関がゆっくりと開いた。中から怪訝そうに顔を覗かせたのは、晴希の母親、金子真紀子まきこだった。

「あの……、どちら様でしょうか……?」

 突然の来訪者に戸惑っている様子だ。

「あ、こんにちは、突然すみません。あの……、僕、晴希くんの高校の頃の友達で、水島といいます。以前、もう随分と昔ですけど、一度だけこちらにもお邪魔したことがあるんです。覚えていませんか?」

「水島……、あぁ、水島京太くん!」

 真紀子さんの顔から警戒心がサッと消えていくのが分かった。当然、当時と比べると多少の老け込みはあるものの、相変わらず美容や健康に気を遣っていそうな見た目をしている。

「ああ、よかった。覚えていてくれましたか」

「あ……、でも、晴希はもう、この家にはいないよ?」

「はい、実は先日、高校の同窓会があって、そこで晴希くんとも久しぶりに再会したんですけど、その時に彼、会場に忘れ物をしてしまったみたいで」と、これはもちろん家に上がり込むための方便である。

「同窓会……」

「それを直接、晴希くんに届けてあげたいんですけど、なにぶん僕も彼と会うのはこのあいだが久しぶりだったので、今の住所を聞きそびれちゃって。なので今日、ここに」

「そうだったんだ……。わざわざありがとうね。とりあえず、どうぞ中に入って。せっかくだから、お茶でも飲んでいって」

 家に招き入れられた僕は、広いリビングのダイニングチェアに腰を下ろした。真紀子さんは淹れたてのコーヒーをテーブルに二つ並べると、僕の向かいに座って、どこかバツが悪そうに歪んだ口をゆっくりと開いた。

「───あの子とはね、私も夫も、もう何年もまともに口をきいていないのよ」

「何年も、ですか……?」

 僕の中で晴希という男は、銀行員の父親と美人の母親に寵愛されて育てられたお坊ちゃんというイメージだったから、そんな絵に描いたような幸せな親子がもう何年も口をきいていないなんて、にわかには想像できないことではあった。

「高校を卒業して、あの子、医療系の専門学校に進学したでしょう? そのとき一人暮らしをするために家を出たきり、ほとんど連絡も取っていなくて」

「でも……、なんでまた。だって昔は、とてもそんな風には……」

「さぁ、晴希は小さい頃から内気な性格だったから、学校にもなかなか馴染めなくて、それが良くなかったのかもねぇ。でも……、そうね、高校に上がって、水島くんみたいな素敵なお友達ができた頃から、あの子も少しずつ明るくはなっていったのよ。水島くんがこの家に遊びに来た時も、あの子がお友達を家に連れてくるなんて初めてのことだったし、あの子、毎日が楽しそうで、私も嬉しかったな。……だけど、三年生になった辺りからかしら、また少しずつ自分の殻に閉じこもるようになっていってしまって。それで……高校を卒業する直前かな、あの子の様子が決定的に変わってしまったのは」

「決定的に?」

「私たちを完全に拒絶したのよ。僕とはもう関わらないでくれって。ほら、あの頃ちょうど君たちの高校に通っていた女の子が一人、亡くなられたでしょう。ホームレスに殺されたっていう、あの」

「あぁ、あの」

 仕方のないことだが、その殺された女の子が僕の恋人だったなんて、きっと真紀子さんは思いもしていないだろう。

「あの事件が原因なんじゃないかとは思うんだけど、だけど晴希本人にいくら訊いてもなにも答えてくれないし……。もう、私も夫もどうしたらいいのか分からなくなってしまってね。そのまま高校を卒業してさようなら。今はもう、あの子のことはあまり考えないようにしているの。ひどい話と思うかもしれないけれど、それをあの子も望んでいると思うから」

「そうだったんですか……」

「あ、でもそうだ」と、真紀子さんが思い出したように手のひらを叩いた。「そういえば二週間くらい前、あの子、一度だけこの家に帰ってきたみたいなの」

「みたい、というと?」

「足音だけ聞こえたのよ。私はその時このリビングにいたから顔は見ていないんだけど、なんだか慌てた感じで、二階にある自分の部屋に上がっていって」

「なにをしに帰ってきたんですかね?」

「さぁ……。それは分からないけど、でも、そんなに長居はしていなかったみたいよ。気付いた時には、もういなくなってた。一秒でもいいからリビングに顔を出してくれるかなって期待してたんだけどね。……まったく、情けない話よね」

「そんなことないです。そんなもんです、親子なんて」

「そうかしらねぇ……」

「───あの、晴希くんの部屋、久しぶりに少し覗いてみてもいいですか?」

 ダメ元でそうお願いしてみると、真紀子さんは肩をすくめて、「お好きにどうぞ」と手のひらを天井に向けた。たしかリビングを出て、階段を上がった二階の角部屋が晴希の部屋だったはずだ。

 僕は出されたコーヒーをひと口啜って、立ち上がった。今から二週間前といえば、ちょうど僕の郵便受けにあの不快な便箋が届いた時期だ。そして、それと同じ内容の手紙が僕の他にも陽や木崎や火口、そして晴希のもとにも届けられていた。

 そんな状況の中で晴希は一体、なにをしに自分の部屋に戻ってきたのだろうか。彼の部屋を覗いてみれば、その答えが分かるような、そんな気がした。





 晴希の部屋は整然としていた。というより、整然としたまま放置されているような状態だった。入って右手に勉強机があり、反対の左手側にベッドとクローゼットが壁に沿うようにして置かれている。勉強机の参考書類は左から背の低い順に並べられ、その隣にある本棚も同様に整頓されている。

「晴希らしいな……」

 学生の頃から晴希は無駄に几帳面なところがあって、神経過敏というのか、そういう部分が逆に彼の心の弱さを象徴していたのかもしれない。そのくせいつも詰めが甘いから、だから僕のスリッパにカッターナイフを刺し込む時も、うっかり僕に見られてしまうのだ。

 まるで埃被ったモデルルームのように綺麗に整えられた部屋の中にあって、勉強机の引き出しの最下段だけが唯一、中途半端に開いて、中からプリントがペロンとはみ出していた。最近になって誰かがそこに触れた証拠だ。おそらく、あの手紙を受け取った晴希が慌ててこの部屋に戻り、なにかをここから取り出したのだろう。つまり、この引き出しの中には夕美の死に関する極めて重要ななにかが隠されていたのだ。

 半開きになった引き出しの中には、捨て時を逸した学生時代のノートやプリント類がうずたかく積まれていた。その中に一枚だけ、紙の塔からはみ出たA4用紙があった。抜き取って見てみると、どうやらルーズリーフを縦書きの原稿用紙に見立てているようで、一行目の書き出しが途中になっていることから、それがなにかしらの文章の二枚目か三枚目に当たる部分であることが分かった。おそらく晴希も慌てるあまり、この一枚だけを回収し損ねてしまったのだろう。いかにもあいつらしいミスである。案の定、そこには十二年前の夕美の事件についてが告白文のような形で書き記されていた。曰く、


『───だった。最初は何が起きたのかすら分からなかった。正直、びっくりしすぎて記憶があいまいになってるんだと思う。その場にいた木崎くんも、火口さんも、土田くんも、僕と同じで混乱してたと思う。おぼえてるのは、まずぼくたちと、陽くんの弟のつきやくんがそこにいたということ。木崎くんがつきやくんを人質みたいにして、陽くんを公園に呼び出したということ。木崎くんは弟の前で陽くんをボコボコにして恥をかかせてやるつもりだったらしい。しばらくして陽くんが来た。そのあとのことはあんまり覚えてないけど、口ぶえみたいな音が聞こえてきたのは覚えてる。それで気が付いたら、北野さんが死んでた。しばらくして誰かがホームレスのせいにしようと言った。陽くんだ。血まみれの包丁を手にした陽くんがそう言った。そしてぼくたちも、それに同調した。今考えると本当に許されないことをしてしまったけど、あの時はもうそうするしかなかった。こうかいしてる。あの時のことを思い出すたびに胸がはりさけそうになる。あの日のことをこうして振り返って、こうして文章に書き起こしている理由は自分でも───』


 全身の力が抜け落ち、平衡感覚を失ったような気分だった。ある程度の予感はしていたはずなのに、ある程度の覚悟はしていたはずなのに、こんなにも深い失望を感じてしまうのはなぜだろう。もしかすると僕はまだ心のどこかで、すべて僕の勘違いであってほしいと願っていたのかもしれない。でも、勘違いじゃなかった。やはり夕美を殺したのはホームレスの稲田じゃなかった。あの日、公園には木崎、火口、土田、晴希、陽、そして月哉の六人がいて、この六人が真実を隠蔽するために嘘の事件をでっちあげ、稲田を偽の犯人に仕立て上げたのだ。確信が疑惑を包み込み、今まで頭に浮かんでくるたびに打ち消していた最悪のシナリオが確固たる実像を帯びて胸の中に広がった。

 頭が痛い。あぁ、またやってきた。寒い。目眩もする。胃の中のものが迫り上がる。いつからか裏返ったままの心の表層がピリピリと破れていく。亀裂の中に広がっているのは暗澹とした暗闇の世界だ。そこからマスダがずいと姿を現し、僕の体を内側から蝕むような不気味な声で囁いてくる。

《雨は降る。悪を洗い流す雨。お前が降らせるのだ───》

 うるさい! 悍ましいその声を脳からふるい落とすように、僕は頭をブルブルと振った。ふらつく体も片膝をついて、どうにか耐えた。それにしても───気になるのはこの告白文に唐突に出てくる「口ぶえ」という言葉。この言葉から連想できる人物は、少なくとも今の僕には一人しかいない。マスダ・アキラだ。つまり、枝の王たるマスダが事件当夜、他の六人に混ざってあの公園にいたということだ。それはなぜか。人質に取られた月哉を助けるため? あるいは偶然そこを通りかかっただけ? ───いや、どちらも答えとしては、どうも収まりが悪い。強いて答えを挙げるとするならば、それはおそらくマスダが死そのものだからではないだろうか。そう、シューベルトの魔王を吹き鳴らし、小気味良いステップでどこからともなく現れる笑顔のマスダは、まさに僕たち人間を死の世界へと惑わす魔王なのだ。

 古くなったA4用紙をズボンのポケットにねじ込み、僕は晴希の部屋をあとにした。なにはともあれ証拠は見つかった。ただ、まだ明らかになっていないこともある。陽が夕美を殺した理由だ。肝心のそこの部分が、この告白文には書かれていないのだ。であれば、次に僕が取るべき行動はただ一つ。この告白文を書いた晴希本人に直接会って、十二年前の一月七日になにが起きたのかを聞き出す。それだけだった。





 花吉中央駅から南東へ数分とかからない場所に、晴希が一人暮らしをしているアパートはあった。二階建ての木造建築。僕のアパートよりも少々古いだろうか。それにしても、ほとんど絶縁状態でありながら、真紀子さんがここの住所を把握していたのは幸いだった。関係は破綻していても親子は親子ということだろうか。晴希は医療系の専門学校を卒業したあと、理学療法士を数年勤めて退職。その後は定職には就かずにフリーターとして生計を立てているとのことだった。

 時刻は昼過ぎ、この時間に晴希が自宅にいるかどうかは賭けであったが、一階にある彼の部屋の前に僕が到着した時点で、玄関横の小さな格子窓からは中の明かりがチラチラと漏れ出てはいた。

「晴希、僕だよ、京太だ」

 ドアホンを鳴らし、玄関をノックする。反応はなかった。名前を言った途端に中の明かりが消えた。どうやら僕には会いたくないということらしい。

「晴希、夕美の事件のことで話があるんだ。晴希、いるんでしょ?」

 それでも僕は何度もノックを繰り返した。わざと乱暴に、わざとうるさく。近所迷惑に思われようが関係ない。居留守を使って無駄な悪足掻きをしている晴希が早く出てくればいいだけのことだ。

「……帰ってくれ。京太に話すことなんてなにもない」

 と、ようやく中から晴希の死にそうな声が返ってきた。

「晴希、頼むよ、晴希のところにも手紙が届いたんでしょ? だから同窓会に出席したんじゃないの? あの手紙の差出人が誰なのか気になって。そうだろ? 僕も同じだ。それに、別に僕は晴希が夕美を殺しただなんて思っちゃいない。ただ本当のことを晴希の口から聞きたいだけなんだよ」

「……手紙なんて届いてないし、僕はあの事件とは関係ない。なにも知らないんだから、なにも話せないよ」

「嘘だ。火口が、あの手紙が届いたあとに晴希とも連絡を取ったって言ってたぞ」

「……覚えてない」

「さっき晴希の実家に行ってきたよ。久しぶりに真紀子さんにも会った。晴希の部屋で、晴希の告白文を見つけた。多分、晴希が一枚だけ取り忘れていったやつだ。晴希があの日、事件現場の公園にいたこともそこにハッキリと書いてあった。晴希は……お前は、ずっと誰かに本当のことを打ち明けたかったんだ。だけど打ち明ける勇気が出ない。だからあの告白文を書いたんだろ? なぁ、もう嘘はやめよう。頼むよ、晴希」

 一瞬、くすんだ青色をした玄関のドアを隔てて、僕たちの間に重たい沈黙が流れた。ドアの向こうで晴希が今どんな顔をしているのか、僕には簡単に想像できた。まさか、なんで、どうして……。狼狽して目を泳がせているに違いない。晴希は昔から小心者だった。隠し事を自分の胸の中だけに留めておける器ではない。だからこそ彼は事件の真相を数枚のA4用紙にしたためたのだ。───やがて、部屋の中から苦渋の声が聞こえた。

「……そんなの、知らない」

「晴希、いい加減にしてくれ、僕はもう限界なんだよ」

「知らないって言ってるだろ! もう帰ってくれ!」

 それでも晴希は声を荒げるばかりで、頑なにドアを開けようとはしなかった。僕は唇を噛んで感情を押し殺し、

「……また来るよ」

 と、それだけ言い残して、仕方なく彼のアパートをあとにした。





 駅に戻った僕は東口側の駅ビル沿いに置かれた木製のベンチに腰を下ろした。目の前を走る煉瓦畳みの歩道は、いつも僕が自宅から映画館へと向かう通勤路である。もう何百回と往来を繰り返した道のり。しかし、いつもは立ち止まることのない場所で立ち止まり、座ることのないベンチに座って周囲の景色を見渡してみると、住み慣れた町から急に見知らぬ町へと放り出されたかのような、疎外感というか、なんとも言えない孤独感に襲われた。ここは本当に僕の住んでいる町なのだろうか。ここは本当に僕の知っている世界なのだろうか……。

 駅の東口には、環状の車道に取り囲まれるような形で中洲状になったロータリーがある。通称「花吉広場」と呼ばれるそのロータリーは、その中心に町のランドマークである古い銅像───たしか幕末に活躍した志士の一人だったか───が立っているため、よく待ち合わせ場所としても使われている有名な広場である。

 そんな花吉広場をぼんやりと眺めながら、これからなにをするべきかを考えていた。晴希ににべもなく追い返されてしまった以上、一旦は別の行動に移らなければならない。陽に会いにいこうか。いや、晴希さえ説得できなかった僕の拙い弁舌でいま陽と相対しても、なんやかんやと言い包められて、はぐらかされてしまうのがオチだ。晴希の告白文なんかよりももっと強固な、陽を無条件に説き伏せるに足る証拠が欲しかった。

「───これ見た? また殺されたらしいよ」

 ふと、隣のベンチに座る二人組の男女の会話が耳に入ってきた。横目で見ると、ネットニュースの記事だろうか、男が女にスマホの画面を傾けている。

「あっ、見た見た。昨日のやつでしょ? 現場もここからすぐ近くなんだってね」

「らしい。この先の高架下を超えたところっぽいね」

「やだー、怖いね、ホント」

 話題は、その会話の内容からして、殺された火口についてのことだと分かった。この数日のうちに二人の人間が、しかも同じ高校出身、同じクラス、さらには当時交際していた二人が立て続けに殺害されたのだから、話題にならない方がおかしかった。

「でも、すぐに犯人も捕まるだろうな」

「え、どうして?」

「ほら、ここ」男がスマホの画面に指を当てた。「近くの防犯カメラに不審人物が映っていたって書いてある。近くの工事現場で働く作業員が怪しい人物を見た、とも」

「へー、私、犯人は枝の王なんだと思ってた」

「ふふふ、バカだな、枝の王なんてただの都市伝説だろ。そんなの実在しないよ」

 能天気な男だと僕は内心でほくそ笑んだ。ただの都市伝説じゃない。枝の王は本当に実在するのだ。ところで、この男の言う「防犯カメラに映っていた不審人物」というのは、おそらく僕のことだろう。長年、殺人を繰り返してきたマスダが、今回に限って偶然カメラに映り込んでしまうなんて、そんな初歩的なミスを犯すとは思えない。

 あの時、マスダは僕を守るためか、あるいは単なる遊び心か、おそらくは後者だろうが、火口のスマホを僕に手渡し、早めに壊しておいた方がいいとアドバイスまでしてくれた。とはいえ、警察がその気になれば、一般人の通話記録なんてものはすぐにでも調べ上げることができるはずだ。火口と最後に通話をしたのは、この僕だ。それが分かった時点で警察はいの一番に僕に疑いの目を向けてくるだろう。さらに防犯カメラの解析も終われば、いよいよ彼らはお門違いの確信を引っ提げ、僕のもとへと押し寄せてくる。それが今日になるのか、明日になるのか、もしかするとすでにアパートの前まで来ている可能性だって考えられる。真実を知る前に誤認逮捕されてしまっては元も子もない。早く次の行動に移らなくては。こんなところでウダウダと考えに耽っている場合ではなかった。

「……あの、あなたが水島さん?」

 と、不意に声をかけられた。項垂れていた頭を斜め上に少し上げると、小学生くらいの少年が僕を見下ろしていた。知らない、見たこともない顔だ。熱で溶けた鏡餅のような、だらしない体をしている。海外の野球帽を鍔を後ろにして被っているが、どこの球団のものかは分からない。

「僕に、なにか用……?」

「あの、これ」

 少年は僕に一枚の紙切れを差し出した。手のひらサイズにちぎったクリーム色の画用紙を雑に折りたたんだものだった。

「……これ、なに?」

「さっきまでそこのバス停の近くにいた人に、水島京太くんにこれを渡してくれって言われたの。水島京太なんて人、僕知らないよって言ったら、そしたらその人、あなたのことを指差して、ほら、あの人だよって」

「……その人は今、どこにいる?」

 僕はゾッと寒気を感じて、ベンチから跳ねるように立ち上がった。咄嗟に辺りを見渡してみるが、しかし、近くにそれらしい人物は見当たらない。

「さぁ、もういなくなっちゃったみたい。なんか、気持ち悪い人だったよ。あんまり顔は見えなかったけど、ずっとニヤニヤしてさ」

「そう……」

 脳裏にマスダの不吉な笑顔がよぎる。二つ折りにされた紙切れを開くと、そこには読むに耐えない汚い文字と一緒に、なにやら手書きの地図が書き添えられていた。

『おーたけトンネルのうえからはいるもりのなか、おおきなすぎのきのしたに、おたからあり』

 そして、

『えだのおー』

 地図には、赤線で今いるベンチから森の杉の木までのルートが引かれていた。大武おおたけトンネルというのは、花吉中央駅から西に向かってすぐのところにある、城金山を貫通する長尺の道路トンネルのことである。トンネルの両脇に石造りの階段が伸びていて、そこから城金山の森の中へと入れるようになっている。山頂の展望台へと続く舗装済みの遊歩道もあるが、地図を見る限り、目的の杉の木はその遊歩道からは大幅に脱線しているようだった。

「それ、お宝の地図なの?」

「いや、そんなんじゃないよ、多分……」

 マスダがこの地図を僕に寄越してきた理由は計りかねるが、とにかく僕は大武トンネルに行ってみることにした。別にあの男を味方だと思っているわけでは決してない。ただ、ある意味で彼は他の誰よりも中立であり、今の陽や晴希よりは、はるかに信頼できる存在のように思えたのは確かであった。





 夏場の運動はやはり、ただでさえ体力の少ない僕の心臓にはかなりの負荷だったようで、大武トンネルの脇から石階段を昇って城金山の入り口に到着する頃には、フルマラソン後のように息が上がってしまって、体中からダラダラと汗が止まらなくなっていた。スマホを確認すると、時刻は昼の三時を少し過ぎている。上空を仰ぐと、不死鳥のようにしつこくそこに浮遊する鈍色の雲から、また雨が降り出していた。

 視線を前方に戻すと、目の前の大木に釘打ちされたクリーム色の画用紙がひらひらと風にはためいていた。なにやら赤いマジックペンで矢印が書かれている。その矢印の指し示す先に目をやると、やはりそこにも大木に釘打ちされたクリーム色の画用紙。この矢印に従って先に進めということだろうか。どうせこれもマスダが面白がって用意したものなのだろう。

 森の中に足を踏み入れ、しばらく矢印を頼りに前に進んだ。案の定、すぐに正規の遊歩道からは離れていったが、立ち入り禁止の看板を踏み越えて先に進んでも、そこに不安や罪悪感のようなものは微塵も芽生えなかった。そんなものをいちいち感じている余裕すらなかったのかもしれない。

 歩きはじめてから数十分が経過し、ようやく地図の指し示す場所に到着した。たしかにそこにはひときわ大きな杉の木が生えていて、最後の画用紙が木肌に釘打ちされていた。下向きになった赤い矢印と一緒に、『おたからはこのした』の文字。足元を見ると、根本のところだけ最近になって土が掘り起こされた形跡があり、その傍らには、これを使えと言わんばかりに大きなシャベルが用意されていた。

 迷いなくそれを手に取り、足元の柔らかい土に突き刺した。ザクッと、どこか懐かしい快音が鳴る。テコを利用して柄の方に体重をかけると、水飛沫ように土が飛び散り、地面に小さな穴を作った。僕はそれを何度も繰り返した。すると、珍しい肉体労働に腕の筋肉が悲鳴を上げはじめた頃になって突然、シャベルの刃先から柄を握る手のひらに、明らかに土とは異なる感触が伝った。柔らかいが、反発がある嫌な感触。初めは木の根にぶつかったのかとも思ったが、それにしてはどこか肉感的・・・だった。───肉感的。その言葉が頭に浮かんだ瞬間、ゾワゾワと全身に鳥肌が立った。

 人の死体が埋まっている。直感で、そう確信した。やめた方がいいのかもしれない。これ以上この土を掘り起こしてしまうと、いよいよ取り返しのつかないことになる。引き返すなら今がラストチャンスだ。───いや、違う。僕はすぐに思い直して、顎にしたたるたま汗を拭い、かぶりを振った。もう手遅れなのだ。ラストチャンスはすでに逸した。引き返すには遅すぎる。僕はもう、その先になにが待っていようと、前に進むしかなかった。

 やがて───土の中からベルトのバックルが露わになった。男……だろうか。そこからワイシャツの裾が捲り上がって、わずかに皮膚が覗いている。間違いなく、人の皮膚。男の筋肉質な皮膚。まさに身の毛がよだつ光景だったが、それでも僕の手は止まらなかった。次第に土の量は減っていき、それと比例して人を成す面積が広がっていった。足が現れ、腕が現れ、最後に頭が現れた。

「───!」

 そこに埋まっていたのは、土田侑李だった。





 高校三年の晩春ごろだったか、あの忌まわしい「犯人当てゲーム」でいよいよ犯人に指名されたある日の放課後、僕は木崎たちに呼び出され、校舎の屋上に赴いた。待ち構えていた木崎は僕を迎えると、馴れ馴れしく肩に腕を回してきて、ゲームをしようと言った。度胸試しゲームだ、と。

 木崎の後ろで火口がキャハハと笑っていた。土田も下品に大口を広げて笑っていた。彼らの背中に隠れるようにして晴希もその場にいたが、彼は彼で気まずそうに伏し目になって、露骨に僕から視線を逸らしていた。無理もない。彼が僕を裏切り、僕のスリッパに刃を入れたのは、ちょうどその日の朝のことだった。

「校舎の淵に片足立ちをして、目を閉じるんだ。どっちが長く目を閉じていられるかのチキンレースってやつだ。まずはお前からな、京太。なぁに、大丈夫だよ。マジで落ちそうになったら、その時は土田がちゃんと支えてやっから」

 木崎の言う大丈夫には根拠というものがまるでなく、それが命さえ落としてしまいかねない危険な行為であることは明らかだったが、当時の木崎たちの脳内は、それこそ根拠のない自信のようなものに満ち溢れていた。

「む、無理だよ、そんなの……」

 僕が怖気づいて声を震わせると、木崎は目をニコリと細めて、小さくなった僕の背中をポンポンと叩いた。

「大丈夫大丈夫。早くやれって。ビビればビビるほど怖くなるぞ」

 木崎のその底抜けに明るい笑顔が空恐ろしかった。今ここで彼の指示通りにしなければ、今度はもっと辛いことをさせられる。頭ではそれを分かっているのに、しかし、身体が動かなかった。

「で、でで、できない……、あ、足が、足が動かない……」

 尚も怯えて声を上擦らせる僕に、木崎は一段と嗜虐的な笑みを浮かべて、「じゃあ」と土田の方を顎でしゃくった。「自分で動けないのなら、こっちで運んでやるよ。ほら、土田。やってやれ」

「おう」

 土田は嬉しそうに両手の指の関節をパキポキと鳴らすと、僕をその自慢の怪力でもって捻り上げ、そのまま校舎の淵まで運んで宙に浮かせた。僕の体は完全に地面を離れ、風に吹かれた短冊のように空中をフラフラと彷徨っていた。ちょうど真下に僕の背丈の三倍はある柳の木の頭頂部が見えた。それまで何度も死にたいと願ってきた僕だったが、いざ「死」を現実のものとして実感すると、たちまち恐怖が「生」を求めた。

「や……、や……」

 僕は蜘蛛の巣に捕えられた虫ケラのように四肢を当てもなくばたつかせ、声にならない声で悶え苦しんだ。

「どうだ、京太、怖いか?」

 土田が好奇に満ちた目を燦々と輝かせて言った。

「…………ッ!」

 息が詰まって、なにも答えられない。

「小便漏れそうか? へへへ、てか、もう漏らしてんじゃね? あ、ほら見ろよ、みんな、こいつ、やっぱり小便漏らしてる!」

 実際、僕はこの時、恐怖のあまり失禁していた。とはいえ当然、そんなことを気にしている余裕は僕にはなかった。

「うわっ、ホントだ、キモーい」

 火口の声がやけに遠くの方から聞こえた。その表情こそ見えないが、きっとわざとらしく顔を歪めているに違いないと思った。漏らしたくて漏らしたわけじゃないのに。お前らが無理やりそうさせたのに。なんで僕がキモがられなければならないんだ。

 しばらくして、木崎が満足したように、「もういいよ」と言った。木崎のその言葉を合図に土田は校舎の淵から離れ、まるでクレーンゲームのオモチャのように、僕は彼の手からようやく地面に解放された。

「お前、高校生にもなって小便漏らすとか、どんだけダサいんだよ」

「ホントホント、赤ちゃんみたい」

 僕を嘲笑う木崎に土田、火口、そして、すぐ近くで僕が辱められているのに見ぬ振りをしている晴希……。

 あぁ、思い出した。そうだ、僕はこの時、その校舎の屋上で固く誓ったのだ。ざらついたコンクリートの上で、無様にうずくまりながら、心の中に誓ったのだ。

 こいつら、いつか絶対に殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる───。





 土田の体を土の中からすべて掘り起こし、その全体像をじっくり眺めていると、背中にゾクゾクとした快感が走るのが分かった。その場に屈んで、腐りかけた皮膚を人差し指でツンツンとつついた。同じような快感。思い切って頬を叩いてみても、その衝撃で頭がゴロンとねじれるだけで、なんの反応もない。死んでいるのだから当たり前か。土田が死んでいる。死んでいる土田。かつてあれだけ傍若無人に振る舞っていたクソ野郎が、今や虫ケラ同然に惨めな姿を晒して死んでいる。そう思うと、気分が青天井に高揚した。

 泥にまみれていて分かりにくいが、額の辺りに血痕があり、首にはロープの痕のようなものも残っていた。頭を殴られたあとに絞殺。おそらくそんなところだろう。びっくりしたように丸々と目を見開いて死んでいるのが滑稽で、その顔を見下ろしているうちに、僕の口からは自然と笑みがこぼれた。

 二週間前、この土田が僕の父の病室に残していった、あの置き手紙のことをふと思い出した。あの手紙には、たしかこんなことが書いてあったはずだ。

『水島京太様。どうしても貴方に直接会って、謝らなければならないことがあります』

 土田は結局、僕になにを謝ろうとしていたのだろう。あの屋上での仕打ちのことか、それとも別のなにかか。思い当たる節なら、少し思い返しただけでもいくつもあった。

「謝りたいことがあるなら、今言ってみろよ、なぁ、土田……」

 言いながらふと、土田のスラックスのポケットからなにかの角のような出っ張りがちょこんと突き出ているのに気が付いた。取り出してみると、手のひらサイズのスケジュール帳のようだ。なにか情報を得られるかもしれないと思って、パラパラとページをめくると、八月三日、まさに土田が姿を消した日付のページに、思いも寄らない───いや、ある意味では思っていた通りの名前が書き込まれていた。陽だ。烏山陽。僕の幼馴染。僕の元親友。そこには黒のポールペンで「陽」とあり、さらに続いて「会う」とあった。「説得」や「一緒に警察に行く」との言葉もある。所々泥で汚れて見えなくなってはいるが、文脈を予測して言葉を繋げてみると、おおよそこんな文章になるだろうか。

「八月三日、陽に会う。説得して一緒に警察に行くつもり」

 視界の端っこに映る、土田のダラリと伸びきった右腕に、僕は不意に得体の知れない気味の悪さを感じた。顔を近づけ、よく見てみると、彼の右腕の先端、右手の人差し指の爪が痛々しく欠けているのが分かった。普通に爪切りで切っていれば、こうはなるまい。なにかのアクシデントで事故的に欠けてしまったような歪な切り口だった。

 欠けた右手人差し指の爪、土田のスケジュール帳……。この二つの要素が頭の中で、パズルのピースのようにカチリと嵌まる音がした。まさか───あの陽の左手の甲の怪我は、この土田の欠け落ちた爪によって抉られたものなのでは……。

 思えば先日、陽の実家のテレビで土田のニュースを初めて目にした時も、たしか僕は一瞬、妙な違和感をそこに覚えたはずだ。なにか変だ。なにかがおかしい。あの時は咄嗟のことでよく分からなかったが、今になって、ようやく合点がいった。一つ一つのピースだけでは曖昧模糊としていた事実が一つに重なり、ハッキリとした実像を浮かび上がらせた。あの時の違和感の正体、おかしさの正体は、テレビのニュースそのものではなく、そのニュースを見たあとの陽の言動に潜んでいたのだ。

 あの時、陽は失踪した土田について、なにかしらの罪を犯してしまって、だから姿をくらましたのだろうと推察した。ここまではいい。問題はここからだ。土田の職業が教師であると直前に知っていた僕は、そこから連想して、土田の犯した罪っていうのは、たとえば未成年との淫行とか? と言ってみた。なんてことない、教師の不祥事イコール未成年との淫行という、僕の極めて個人的な偏見から生まれた、単なる思いつきでの発言だった。ところが、だ。陽はその時、なぜか納得するように顎を引き、

「ありえるな。昔から変態そうな顔をしてたからな、あいつ。自分の生徒に手を出しても不思議じゃない」

 と、そう言ったのだ。おかしい。間違いなくおかしい。あの時、僕は一度も教師という言葉は発していない。それなのになぜ陽は土田が教師であることを知っていたのか。土田とは高校を卒業してからは一回も会っていないと言っていたのに……。───答えは至って単純だ。陽は僕に嘘をついたのだ。つまり彼は教師になった土田と、少なくとも一度は、どこかで顔を合わせていたということだ。

 昨日、柴崎千歳という女が僕の前に現れた。陽の元恋人だという彼女は、その陽が人を殺していると断言した。二人が破局したのは今から二週間前。夜、血まみれで帰宅してきた陽のことが怖くなって、彼女の方から別れを切り出したのだという。土田の手帳に「陽に会う」と書かれているのも八月三日。つまり、今から二週間前。その土田が父の病室に置き手紙を残して姿を消したのも───すべてが二週間前に起きた出来事だ。血まみれの陽、彼の左手の甲の怪我、打ち明けたくても打ち明けられない秘密、良い人間が良い行いをするとは限らないという、月哉のあの言葉。

 陽が、あいつが土田を殺したというのは、もはや疑いようのないことだった。そしてその事実は自然と、十二年前の真実をも浮き彫りにさせた。

『夕美を殺したのは誰だ』

 十二年前、あの公園で夕美を殺したのは、やはり陽だったのだ。その事実を知る土田は、おそらく陽を警察に出頭させるために動いたのだろう。しかし陽はそれを拒絶した。やがて二人は口論となり……といったところだろうか。

 気付かぬうちに、笑いが止まらなくなっていた。口を手で塞いでも、込み上げてくる感情がケタケタと肩を揺らした。なんて可笑しな話なんだろう。グレムゴブリを創った張本人が、あろうことかそのグレムゴブリになってしまうなんて。

『夕美を殺したのは誰だ』

 陽だ。陽が夕美を殺した。あいつが僕の大切な恋人を。夕美を。陽が殺した。陽が夕美を殺したんだ。

 しばらくその場に立ち尽くし、込み上げてくる笑いをひとしきり吐き出したのち、僕は踵を返して来た道を戻った。向かう場所は決まっていた。晴希のアパートだ。やはりあの男の口からも直接、本当のことを聞き出さなければ、腹の虫が治まらない。どうせ、あいつも醜いグレムゴブリの一匹なのだ。悪が辿るべき道は一つしかない。掘り起こした土田の死体はそのままそこに放置した。腐るなり、動物に食われるなり、どうにでもなれと思った。





 雨雲に隠れた太陽が徐々に西に傾きはじめている。

 再び晴希の部屋の前にやってきた僕は、チャイムも鳴らさず、玄関のドアを直接手のひらでバンバンと叩いた。晴希も今度こそは観念したのか、ほどなくしてドアが半分開き、その狭い隙間から憔悴した顔を覗かせた。

「き……近所迷惑になるから、もうやめてくれ……」

「やめたら、僕の話を聞くか?」

「話って、なんなの」

「土田が死んだ」

「え……」晴希の顔が一瞬で青褪めるのが分かった。しばらく黙り込み、やがて彼は大きな音を立てて唾を飲み込んだ。「そっか、土田くんも……。さっき、火口さんが殺されたってニュースを見た。火口さんも、京太が殺したの?」

「いや、違う。けど犯人は知ってる」僕は首を振って、晴希を顎で差した。「次は多分、晴希の番だ」

「僕の番……」

 少なからずそんな予感はしていたのだろう。晴希は、まるで犯人当てゲームの逆バージョンだと言って苦笑した。

「だから晴希、そうなる前に全部、本当のことを僕に話してくれ」

「京太は……、本当に犯人を知ってるの?」

 時間稼ぎをするように訊ねる晴希に、沸々と苛立ちが募っていく。

「ああ、土田を殺したのは陽だ。火口はまた別の人間だけど、土田は陽だ」

「陽くん……? な、なんで陽くんが土田くんを……?」

「十二年前の事件の件で、土田が陽を警察に連れて行こうとしたからだよ。それを拒否した陽が勢い余って土田を殺したんだ」

「土田くんが、陽くんを警察に……?」

「そう。陽が夕美を殺したからだ。だから土田は陽を───」

「違うっ!」晴希が僕の声を遮った。「あの日、北野さんを殺したのはあのホームレスだ。陽くんじゃない。警察も、当時そう言ってたじゃないか」

「……これ、さっき言ったやつ。お前が書いたんだろ」

 ズボンのポケットからぐちゃぐちゃになったA4用紙を取り出した。晴希が当時の事件について書き記した告白文だ。

「そ、それは……、だから、その……」途端に晴希は口ごもった。

「いつまでこんな茶番を続けるんだよ、晴希!」

 僕はとうとう我慢しきれずに叫んだ。この期に及んで嘘ばかりを繰り返す晴希は、まさにマスダが言うところの自己保身に走って右往左往する人間そのものじゃないか。

 と、ちょうどその時、隣の部屋の玄関が開き、中から女が一人、スマホを操作しながら現れた。これから買い物にでも行くのだろうか、大きめのトートバッグを肩にぶら下げている。女は怪訝な視線を僕と晴希に移ろわせ、なにか察したのか、すぐにスマホに顔を落として、足早にその場を離れていった。

「わ、分かったよ、話すよ、話すから、もう騒がないで……」

 小心者の晴希にしてはよく粘った方ではあるが、それもここまで。ようやく彼は降参とばかりに弱々と頭を垂らして、十二年前の一月七日になにがあったのかを話しはじめた。

 曰く、事件当夜、まず初めに公園にいたのは晴希と、それから木崎、火口、土田、そして月哉の五人。月哉は陽を公園に呼び出すための人質だった。木崎は、陽が月哉を誰よりも大事にしているのを知っていたから、その月哉の目の前で陽に無様な醜態を晒させてやろうと企てたのだ。

「待て待て。それはもうここに書いてあることだろ。僕が聞きたいのは、お前のこの告白文の空白部分だ。なんで陽は夕美を殺したのか。そして、その事実を、どうしてその場にいた全員が結託して隠蔽しようとしたのか」

「そ、それは違う」

 と、しかし晴希は僕の期待に反して、うるうると泣きそうな目をしてかぶりを振った。

「……違う?」

「陽くんは来なかったんだ」

「……は?」

 一瞬、僕は自分が聞き間違えてしまったのかと思った。陽は来なかった? なにを言っているんだ、この男は。

「だから……結局、陽くんは公園に来なかったんだよ。たしかに僕たちは月哉くんを人質にして陽くんを呼び出したけど、けど、彼は一向に現れなかったんだ」

「はっ、今さらなにを」

 呆れてものも言えないとは、まさにこのことである。陽が公園に現れたというのは、晴希自身がしたためた告白文にもハッキリと書かれていることだ。追い込まれすぎて言い訳が破綻している。晴希らしいといえば晴希らしいが、それを晴希らしいねと言って笑って受け入れてやるほど今の僕はマヌケじゃない。

「だ、だから、うん、そうだよ、元はと言えば陽くんが悪いんだ」と晴希は言った。そういえば火口も昨日、同じようなことを言っていた。「陽くんが来なかったから、北野さんは殺されてしまったんだ」

「どういうことだよ」

「あの日、いつまで経っても姿を見せない陽くんに痺れを切らした僕たちは、月哉くんをその場に残して先に帰ったんだ。多分、その直後だったんじゃないかな、北野さんが公園にやってきたのは。そしたらそこにホームレスが現れて、彼女を刺した。これが真相だよ。月哉くんが偶然、事件を目撃したのは、僕たちが彼を公園に置き去りにしたからだ」

「そんなの……嘘に決まってる!」

 僕はドアの隙間から腕を伸ばして、晴希の襟首を捻り上げた。そんな戯言を信じろと言われて、素直に信じる馬鹿はいない。どうせ、その場にいたみんなで示し合わせた嘘の筋書きに決まっている。

「ほ、本当なんだって……。だから陽くんが全部悪いんだよ。あの日、陽くんが月哉くんを助けに来てさえいれば、僕たちはまだあの公園に留まっていたはずで……、そ、そうすれば北野さんがホームレスに殺されることもなかったんだから」

 晴希の言い分としてはつまり、その場にそのまま自分たちが残っていれば、稲田もそこにいる大勢の人影に怯んで踵を返したはずで、そうなれば彼が夕美殺しの蛮行に及ぶこともなかった、というわけだ。それなのにいつまで経っても陽は姿を見せず、そのせいで本来そこにいたはずの木崎たちも姿を消し、結果として夕美と稲田の二人が鉢合わせるという構図が出来上がってしまった。

 なるほど、たしかにそこに矛盾はない。ただし所詮、嘘は嘘だ。それに、晴希の言い分は辻褄こそ合ってはいるが、そもそもとしての前提に間違いがある。弟を人質に取られた陽が、それを知って公園に出向かないわけがないのだ。

「違う、あの日、陽は公園に来たんだ。お前の告白文にもそう書いてある。陽はあの公園に来て、そして、夕美を殺したんだ!」

「それは、僕がふざけて書いたやつだ。殺したのはホームレスだ」

「なんで……、なんでみんな、そんなに陽を庇うんだよ。陽が犯人だったところで、別にお前たちまで殺人罪に問われるわけじゃないだろ?」

「……逆に訊くけど」晴希がそこで睨むように眉を寄せた。「どうして京太は、そんなに陽くんを犯人にしたがってるの?」

「なに……?」

「だってそうでしょ。たとえ土田くんを殺したのが陽くんだったとしても、それがイコール北野さんを殺した犯人になるわけじゃない。それに、仮にその紙に書いてあることが本当だったとしても、それだけでは陽くんが犯人である証拠にはならない。だって、そこには北野さんを殺した犯人が誰だったかなんて一言も書いてないんだから。木崎くんにだって、土田くんにだって、火口さんにだって、もちろん僕にだって犯人の可能性はあるわけじゃんか。それなのに京太はさっきから、一貫して陽くんが犯人だって言ってる。陽くんに個人的な恨みでもあるんじゃないの? だから京太は陽くんを犯人に仕立て上げたいんだ」

「それは……」

 たしかに、どうして僕はこんなにも陽に固執しているのだろう。晴希の告白文には、マスダの存在を匂わせる一文もある。そこにマスダがいたのであれば、まず誰よりも疑うべきは枝の王、殺人のプロであるマスダではないか。それなのに、どうして僕は陽が犯人であることを望んでいるのだろう。陽が僕を裏切ったから? それとも僕は、無自覚のうちに昔から、いつも隣で人生を謳歌する陽を妬んでいたのだろうか。

「陽くんは京太の親友でしょ? もうやめようよ、こんなこと。これ以上、無闇に事件を追及しても、誰も幸せにはならないよ。みんな、今よりずっと苦しむことになる」晴希は言い切って、息継ぎをしてから、さらに言った。「───だから、今がちょうどいいんだよ」


 今がちょうどいい?

 今が、ちょうど、いい……。

 今がちょうどいい、だと?


 無責任で、無神経で、偽善的な、その一言が、僕の中のなにかを決定的に破壊した。これまでなんとか理性を繋ぎ止めていた最後の鎖が、一瞬にして粉々に砕け散った。その場に膝から崩れ落ち、堰を切ったように涙が止まらなくなった。

「僕はもう……十分苦しんだ……。これ以上、苦しむのは……御免だ……」

「そ、それは、そうかもしれないけど……」

 僕の涙に、晴希の声が揺らいだ。

「ちょうどいいってなんだよ……、なにがちょうどいいんだ……」

「で、でも、僕だって……、僕だって……」

「本当に苦しむべきは僕じゃない……。本当に苦しむべきは……木崎だ、火口だ、土田だ、陽だ、そしてお前だ、金子晴希……! お前の方こそ、もっと苦しむべきなんだ! ちょうどいいと言うのなら、お前だって報いを受けろ! お前らなんて、全員死ねばいいんだ!」

「……全員死んだよ。木崎くんも、火口さんも、土田くんも」

「いいや、まだだ。お前と、陽がまだ生きてる」

「…………」

「お前も、陽も、死ぬべきなんだ!」

「……ごめん、本当にごめん、京太」

 晴希は消え入るような声でそう言い残すと、カタツムリが殻の中に身を隠すように、玄関のドアを静かに閉めた。

「雨は降る……、悪を洗い流す雨は……」

 膝をついて嗚咽する僕の背後から、ザーザーと雨足が強まる音が聞こえた。



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